ナークニーを追う旅の続きです。
前回はこちら。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
那覇のタカマサイ公園から高速に乗ってやって来た名護もやはり雨。
黄色いハイビスカスは雨でしっとりと。
もう名護に着いたのが夕方。
夕食を済ませて、民謡居酒屋「結いまーる」へ。
松田末吉先生のナークニーを聴きに。
安定感のある声で独特の節回しのナークニーや他の唄も素晴らしかったのでした。
翌日早く目が覚めて、本部町へ。
700年も昔、あの丘でタカマサイのあやぐを聴いた青年はヤンバルに戻ってどうなったのか。
そんなことはわかるはずもありませんが、
唄が生まれ育った土地の空気を吸い、景色を眺めるだけのことで感じる物があります。
そのために「本部ナークニー」の事を調べている方にお会いしようと
まずは本部町教育委員会の渡久地さんにお会いすることに。
渡久地さんは、元教育長でこの本部ナークニーに詳しい方を紹介してくださいました。
その根路銘国文さんとのツーショット。
渡久地さんには地図などの資料をいただきました。
本部ナークニーといえば山里ユキさんが唄った歌詞が有名ですが、
それは昔の本部ナークニーの歌詞や節回しとも少しだけ違っているようです。
この最後にある
渡久地からぬぶてぃ 花ぬ元比名地
遊び健堅に 恋し崎本部
本部町はこの「渡久地」から登った道を整備して「ミャークニー散策道」(ナークニーはここ本部町ではミャークニーと言います)を作っていました。
地図で見ると
この赤い線の部分です。
全部歩けば1時間はかかるけれど、歩きますか?
と聞かれましたが、冗談だとわかったのは、
「ここは歩きましょう」と歩いた道が急な坂道、雨で濡れた落ち葉が
バナナの皮状態であちこちにあるというのを見た時に(笑)
根路銘さんは少し年配の方でしたのでこちらが心配しました。
そして渡久地から登って、たどり着くのは
辺名地。
地図でみると山の中にあり、ゴルフ場の近くとあるので、こんな気持ちの良い平地があるなんて想定外!
今はさとうきび畑になっていますが、昔は「毛、つまり原っぱだったんですよ」と根路銘さん。
「ここは少し集落から離れているので三線や唄も聞こえない広い原っぱだったのでモーアシビには最適だったのでしょうね」
「ここに来るまでの山道だって、昔は木は薪に使われていたから、今のように木は繁ってなかった」とも。
つまりミャークニーの道やこの辺名地から見える景色も見通しがよく、今と随分ちがっていたわけです。
そして本部ミャークニーの下句
遊び健堅とぅ 恋し崎本部
あしびきんきんとぅくいしむとぅぶ、と詠むために「恋し本部」と書かれたものが多いのですが、これは「崎本部」(さちむとぅぶ)のことを指しています。
ここ辺名地から健堅に向かう道は、この谷間を降りて向こう側へ。
「健堅でモーアシビをしていると崎本部が恋しくなるんでしょうね」
と根路銘さん(笑)
「崎本部には美人が多かったんです。今もですが(笑)」って。
これは後からその理由がわかります。
さらにこの谷間には川がありますが、今では想像もつきませんが昔は船の通りがあったそうです。
この川の左上が辺名地、右に健堅が。
今はゴルフ場が場所を占めています。
「ウフグムイ橋」が掛かる「ウフグムイ川」です。
「クムイ」というのはおそらく船が一時避難したり停泊したりする「籠る・こもる」から来ているのだと思います。
隣には大きな渡久地の港などもありますが、このあたりも中国からの船なども停泊して昔は賑わったと想像できます。
すると、この川の両側の高台にある辺名地や健堅がなぜ華やかな「遊び所」であったのか、までも想像できます。
もう一度ミャークニー散策道の碑文を読んでみます。
「『ミャークニー』の元唄である『本部ミャークニー』の最も有名な一部を紹介する。
渡久地から登て 花の元 辺名地 遊び健堅に 恋し崎本部
唄を愛する人々にとって村ごとに残るその地のミャークニーの唄詞など覚えられない。
でもこの1節だけは必ず口にすることができる。ミャークニーは、スク道(宿道)をテーマにした唄であると同時に、モーアシビー(毛遊び)[若い男女の集い]の唄でもある。その元唄が『本部ミャークニー』なのである。
今を去る400年前、諸外国との貿易で富を築いていた琉球王朝が、薩摩藩に攻められた。薩摩軍勢は本部半島に上陸し、北山城(今帰仁城)を攻め落とし、琉球王朝は交戦することなく首里城を明け渡した。薩摩の侵略によって政治が変わり沖縄本島でも海路が主流であったトランスポテイションシステムに変革が起こり、スク道(宿道)と呼ばれる公道が発達するのである。
本部町」
つまり琉球王朝時代に首里から各地の番所(役場)に向かう公道が作られ、これをスク道(宿道)と呼びました。
その道はグスク時代からあった山の上の方にあった集落を繋いでいます。
現在は海側に車道があるのと、山が鬱蒼としているために私たちには想像もつきませんが。
そして、スク道が繋ぐ集落の近くには辺名地のように若い男女が集う遊び場、モーアシビ(毛遊び)の場があったわけです。
本部ミャークニーは、そのスク道を通ってモーアシビの行われた場所やその光景を唄ったものと理解できるわけです。
この場所に行かなければ、そのイメージも湧くことはありませんでした。
ここで根路銘さんや渡久地さんたちと別れ、次にお約束をしている今帰仁歴史文化センターにむかわねばなりません。
↧