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Channel: たるーの島唄まじめな研究
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今帰仁へ 《ナークニーを追って 4》

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2014年の宮古島への旅から宮古民謡の「とーがにあやぐ」、 そして八重山民謡の「とーがにすぃざ節」、 さらに本島の「トーガニ」「タウカネ節」「宮古のあやぐ」「あやぐ節」などの関係を調べてきました。 全て「ナークニー」はどこから来たのか、という問題意識です。 「ナークニー」も様々。 「富原ナークニー」「フクバルナークニー」などのように奏法の創始者の名前を冠したり、 また「ヤッチャー小」「門たんかー」などのように「ナークニー」の形を変えたものも。 その源流をたどると「本部ミャークニー」「今帰仁ミャークニー」にたどり着きます。 それでどうしてヤンバルと宮古島が結びつくのかと考えると、 もう何度も書いてきたように 例の「タカマサイ公園」で1300年代に「あやぐ」を唄って地名に名前を残した高真佐利屋という青年の話に。 加えて、ヤンバルから那覇にきて宮古の唄に触れてヤンバルに持ち帰ったという青年の話にも。 どうしてもその二つの話、伝承が気になります。 前回の記事では2015年4月の沖縄訪問の際に、タカマサイ公園から名護に移動して、 二日目の午前中は本部町教育委員会の渡久地さん、そしてそのご紹介で元本部町教育長の根路銘さんに案内していただきながら、本部ミャークニーの「渡久地から登てぃ花ぬ元辺名地」というあたりを実際にフィールドワークさせてもらいました。 もう一人の方と連絡を取っていたので 今帰仁歴史文化センターにレンタカーを走らせました。 館長の仲原 弘哲さんは待っててくださいました。 「お電話でお話ししたように本部、今帰仁ミャークニーの光景を見てみたい」 と要望をお伝えすると 「地図を見て話しするより実際に見て廻りましょう。」 と言ってくださり、私のレンタカーを仲原館長が運転して巡ることに。 Facebookの「ウチナーグチ講座」を主宰されている金城 信春さんもそこへ駆けつけてくださいました。一緒に乗り込みます。 真下地ぬくびり 大堂原 若地 黒山ぬ下や伊野波とぅ満名 (歌意)真下地の小坂 大堂原 若地 そして黒山の下は伊野波と満名がある 昔の本部ミャークニー、今帰仁ミャークニーではこの歌詞が唄われます。 古い大堂公民館。 この辺りはカルスト台地で、あちこちにむき出しの石灰岩があります。 昔は広い毛(原っぱ)だったのかもしれません。 仲原さんは国道115号線を下りながらも昔の「道」が残っているところはそちらを走ってくださります。 真下地ぬくびり(小坂)とは、もう人が通れる道もなくなっているようでした。 若地も現在は地名がなくなって、山里と呼ばれる場所だと言います。 「黒山」というのはなんでしょう。 仲原さんは、「おそらく伊野波の後ろあたりにあった山で、杣山(そまやま)のことでしょう。」と。 杣山というのは、 「近世の琉球王国において、木材を供給するために間切や島・村の共同管理下に置かれた山林のこと。 地元の住民は間切役人や村役人の指揮を受けて山の手入れに従事する夫役義務の代わりに建築や薪炭に用いる木材の供給を受けるなど一定の収益を受ける権利を得た。王府の山奉行がこれに関与する場合もあった。」(Wikipediaより) つまり住民は住居の材料や、薪や炭を作るために山林の木を利用しようとするわけですが、それを王府が管理した山のことで、無届けで木を切ることができなかったわけです。 それで木々が生い茂っていたので「黒山」と言ったのではないか、と。 伊野波は「ぬふぁ」と発音しますが、元々は渡久地港から入ってきた船がこの「伊野波」のすぐ近くまで来ていたようです。 つまり「ふぁ」は「端」という意味。「那覇」は昔「なーふぁ」と言いましたが、同じ使われ方でしょう。 伊野波は今でこそ人通りの少ない場所ですが、昔は栄えた港の近くにあったわけです。 渡久地港辺りは、昔はもっと広く、今の本部中学校あたりも海だったようです。 もう少し仲原さんのご案内で巡ります。 (つづく)

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