なさけの島
(発音等省略)
作詞 田場典明 作曲 我如古盛栄
CD「唄遊び」(我如古より子/吉川忠英)より
一、津堅イサヘイヨ 取納奉行ぬ島や かわてぃ美童ぬ イサヘイヨ なさき所
つぃきんいさへいよーしゅぬぶじょーぬしまや かわてぃ みやらびぬ (いさへいよー )なさきどぅくる
tsikiN 'isa heiyoo shunubujoo nu shima ya kawati miyarabinu ('isa heiyoo)nasaki dukuru
()は囃子言葉、以下繰り返し省略。
〇津堅島は伊佐ヘイヨーや取納奉行節の島である 特に娘たちの情け深いところ
語句・つぃきん 沖縄本島の津堅島を指す。ウチナーグチの発音は「ちきん」より「つぃきん」に近い。現在は「つけん」と読ませる。・いさへいよー「伊佐へいよー」という歌から来ているもので、我如古弥栄が作った歌劇「泊阿嘉」(とぅまいあーかー)の劇中歌として歌われる。掛け声でとくに意味はない。・しゅぬぶじょー
「 取納奉行節」で「津堅島」が舞台となっていることから。・かわてぃ 「とりわけ。格別。特に。ことに」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。
二、島浦ぬ美らさ 白浜ゆ前なち はるか眺みりば イサヘイヨ 知念久高
しまうらぬちゅらさ しらはまゆめーなち はるかながみりば ちにんくだか
shima'ura nu churasa shirahama yu mee nachi haruka nagamiriba chiniN kudaka
〇島の浦の美しさよ!白浜を前にしてはるか眺めると知念、久高島が見える
語句・しまうら 「浦」とは「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形」(Wikipedia)を言い、「浜」と区別する。津堅島は東西に長い湾曲した浜を持ち、そのことを言っているようだ。・ゆ 文語で用いられる「を」。・めーなち 前にして。
三、押す風ん静か 浜うちゅる波や 無蔵が手招ちぬ イサヘイヨ なさき心
うすかじんしじか はまうちゅるなみや んぞがてぃまにちぬ なさきぐくる
'usukajiN shijika hama 'uchuru nami ya Nzo ga tiimanichi nu nasakigukuru
〇そよ風も静か 浜を打つ波は貴女が手招きに込めた愛情のようだ
語句・うすかじ「そよ風。和風」【沖辞】。「和風」(穏やかな風)とは気象庁用語で、風速5.5〜7.9m/sの風を指す。・なさきぐくる 直訳では「情け心」となるが、琉歌では前後との関係で「〜くくる」は「〜のようだ」という意味になる。(例えば「枯木心」を「枯木の心」と訳しても意味がわからなくなる)
四、かりゆしぬ船に 思事や乗してぃ 二人しくじ渡ら イサヘイヨ 恋ぬ小舟
かりゆしぬふにに うむくとぅやぬしてぃ たいしくーじわたら くいぬくぶに
kariyushi nu huni ni 'umukutu ya nushiti taishi kuujiwatara kui nu kubuni
〇縁起の良い船に愛する想いを乗せて二人で漕ぎ渡ろう 恋の小舟で
・かりゆし 「めでたいこと。縁起のよいこと」【沖辞】。・くーじ 漕いで。<くーじゅん。漕ぐ。
五、無蔵が志情や 津堅渡ぬ渡中 深さゆかまさてぃ イサヘイヨ 情き深さ
んぞがしなさきや ちきんどぅーぬとぅなか ふかさゆまさてぃ なさきふかさ
Nzo ga shinasaki ya tsikiNduu nu tunaka hukasa yuka masati nasaki hukasa
〇貴女の愛情は津堅島への渡る沖の海の深さよりも勝っていて、なんと情けが深いことよ!
語句・どぅー 沖。<とぅー。沖。連濁で「どぅー」に。・とぅなか「沖の海。沖合い。沖の海上」【沖辞】。・ゆか より。よりも。
六、ホートゥ河ぬ水や世守りぬ由緒 人美らさ情 イサヘイヨ 代々の栄
ほーとぅがーぬみじや ゆーまむいぬゆいしゅ ひとぅじゅらさなさき ゆゆぬさかい
hootugaa nu mizi ya yuumamui nu yuishu hitoxujurasa nasaki yuyu nu sakai
〇ホートゥガーの水は人々の暮らしを守るという由緒ある場所 人が清らかで情け深いことが代々の栄え
語句・ほーとぅがー 津堅島の南西にある井戸の名称。「鳩」(ほーとぅ)が見つけた井戸(カー)という伝承がある。
七、島美らさ一惚り 人美らさ二惚り 無蔵が志情にイサヘイヨちんとぅ三惚り
しまじゅらさ ちゅふり ひとぅじゅらさたふり んぞがしなさきにちんとぅみふり
simajurasa chuhuri hitujurasa tahuri Nzo ga shinasaki ni chiNtu mihuri
〇島の美しさに一つ惚れ 人の清らかさに二つ惚れ 貴女の愛情に惚れてちょうど三つめ
この唄はCD「唄遊び」(我如古より子/吉川忠英)に収録されている。
作曲の我如古盛栄氏は我如古より子さんのお父様である。
いわゆる「島褒め」、故郷を讃える唄。
「なさけの島」として歌われているのは沖縄県うるま市の津堅島である。
筆者は2015年4月13日に津堅島にお邪魔させて頂いた。
3時間ほどの滞在だったし雨にもたたられたが
レンタサイクルを借りて島一周をした。
津堅島から見える知念、久高島は
現在では「キャロットアイランド」ー人参の島と言われるように島のほとんどは人参の畑や農地で、この時期は観光地としては訪れる人も少ない様子だったが、この「なさけの島」という唄に表されるように、美しい海と島の景色を眺めるだけでも素晴らしい島だと思った。
唄三線をされている方には是非一度立ち寄っていただきたい島の一つである。
そして津堅島に行った後に筆者はこの唄「なさけの島」と出会ったのだが、
是非この曲も聴いてもらえたら嬉しいと思う。
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なさけの島
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大兼久節
大兼久節
うふがにくぶし
'uhuganiku bushi
◯名護の大兼久の歌
語句・かにく 「海岸の砂地;馬場。★地名の兼久[Kaniku]、我如古[Ganiku]も同源。」【琉球語辞典(半田一郎)】(以下【琉辞】と略す)
名護の大兼久 馬はらちいしょしや 船はらちいしょしや わ浦泊
なぐぬ うふがにく んまはらち いしょしゃ ふにはらち いしょしゃ わうらどぅまい
nagu nu 'uhuganiku 'Nma harachi 'ishoosha huni harachi 'ishoosya wa 'uradumai
◯名護の大兼久は 馬を走らせて楽しい。船を走らせて楽しいのは 我らの浦泊である。
語句・はらち 走らせて。<はらしゅん。走らせる。<はゆん。走る。の使役形。・いしょしゃ 楽しい。<いしょーしゃ。楽しさ(名)・うらどぅまい 「浦、うら」とは自然に湾曲した港、入江のこと。「とぅまい」は船が出入りし、嵐の時には船を避難させる場所。
古典では昔節の「じゃんな節」のチラシ。
名護市の大通り、沖縄銀行の角にこの歌碑がある。
「兼久」(かにく)とは「砂場の平地」のことで、そこを馬場として利用することが多かったようだ。あちこちにこの地名がある。
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シューラー節 3
シューラー節
しゅーらーぶし
shuuraa bushi
語句・しゅーらー 「沖縄語辞典(国立国語研究所編)」(以下【沖辞】と略す)には「しゅーらーしゃん」という形容詞のみある。意味は「しおらしい。かわいらしい。愛らしい。」。「しゅーらー」を名詞とかんがえると「しおらしさ。かわいらしさ。愛らしさ」となる。恋人を呼ぶ時に「しゅら」ということもある。囃子言葉の「へいよーしゅーらーよー」からついた歌名だが、「恋人節」と訳すこともできよう。
唄三線 嘉手苅林昌 CD「平成の嘉手苅林昌」より筆者聞き取り。
一、打ち鳴らしならしヨ 四つ竹はならちヨ ならす四つ竹ぬヨ 音ぬ、音ぬしゅらさヨ ヘイヨーシューラーヨー
うちならしならし(よ)ゆちだきはならち(よ)ならすゆちだきぬ(よ)うとぅぬ、うとぅぬしゅらさ(よ)へいよーしゅーらーよー
'uchinarashi narashi(yo) yuchidaki wa narachi (yo)narasu yuchidaki nu (yo)'utu nu,u
'utu nu shurasa (yo)hei yoo shuuraa yoo
(「へいよーしゅーらーよー」は囃子なので以下略す。)
〇打ち鳴らせ 四つ竹は鳴らして 鳴らす四つ竹の音のかわいらしいことよ!
語句・よ 唄のカタカナの「ヨ」は全て囃子であり、強い意味はない。調子を合わせるためのもの。・ゆちだき 通称「四つ竹」。「竹製のカスタネット。両手に竹片を各二枚づつ持ち、手のひらを開閉し打ち鳴らして踊る」【沖辞】。琉球舞踊の小道具、打楽器の一つ。
二、ならす四つ竹ぬヨ 音にまじりやいヨ 今日や御座出じてぃヨ いるいるぬあしびヨ
ならすゆちだきぬ(よ)うとぅにまじりやい(よ)きゆやうざんじてぃ(よ)いるいるぬあしび(よ)
narasu yuchidaki nu (yo)'utu ni majiriyai (yo)kiyu ya 'uza 'Njiti (yo)'iru'iru nu 'ashibi (yo)
〇鳴らす四つ竹の音にまぎれたりして 今日はお座敷に出ていろいろな遊び
語句・まじりやい まぎれたり <まじりゆん。 まじりいん。;紛れる。
三、きゆあしでぃあちゃやよ にんだわんゆたさよ くまぬ うふぬしぬよ うゆえ、うゆえやてぃるよ
きゆあしでぃあちゃや(よ) にんだわんゆたさ(よ)くまぬうふぬしぬ(よ)うゆえ うゆえやてぃる(よ)
kiyu 'ashidi 'acha ya (yo)niNdawaN yutasa (yo)kumanu 'uhunushi nu (yo)'uyuwee 'uyuwee yatiru (yo)
〇今日遊んで明日は寝ていてもいいさ ここの大主様のお祝いだから
語句・にんだわん寝ても。<にんずん。;寝る。+わん 〜しても。・ゆたさ <ゆたしゃん。ゆたさん。;良い。よろしい。・うふしゅ 「父方の一番上の伯父。」「平民についていう」。村で演じられる村芝居に「長者の大主」(ちょうじゃぬうふしゅ)という時の「うふしゅ」は120歳ほどの長老を表す。
四、月ん照りまさてぃよ 糸かめり童よ 花ぬ露ふぃるてぃよ 貫ちゃい、貫ちゃいあしばよ
ちちんてぃりまさてぃ(よ) いとぅかめり わらび(よ) はなぬちゆふぃるてぃ(よ) ぬちゃい ぬちゃい あしば(よ)
chichiN tiri masati (yo)'itu kameeri warabi (yo)hana nu chiyu hwiruti (yo)nuchai 'ashiba(yo)
〇月もますます照り美しいことよ! 糸を持っておいで子ども 露の玉を拾って貫いたりして(穴に通したりして)遊ぼう
語句・かめり求めよ → 探しておいで。 持っておいで。 <かめーゆん。 「(落とし物などを)拾う。 拾い物をする。」「捜し求める。」【沖辞】。・ぬちゃい 貫いたりして <ぬちゅん 貫く 穴に通す。
五、別りがたなさやよ 互にあらやしがよ わかりわななゆみよ 義理ぬ、義理ぬなれやよ
わかりがたなさや(よ) たげにあらやしが(よ) わかりわななゆみ(よ) じりぬ、じりぬなれや(よ)
wakarigatanasa ya(yo) tagee ni 'ara yashiga (yo)wakariwana nayumi (yo)jiri nu jiri nu naree ya(yo)
〇別れ難さはお互いにあるのだけれど 別れないわけにはいかないだろう 義理というものはそういうものだから
嘉手苅林昌さんの「しゅーらー節」を取り上げた。
古典には「しほらい節」というのがあるが、民謡のこの「シューラー節」とは、三線も歌詞も関係ないと言っていいだろう。
「へいよーしゅーらーよー」という囃子言葉からきている曲名だろう。
「おい 恋人よ」とも訳せる。
(囃子言葉の訳には深入りしないという教えを守っているのでここまで(笑))
2006年に取り上げたシューラー節。http://taru.ti-da.net/e1056207.html
2007年にも。http://taru.ti-da.net/e1235270.html
ここでは嘉手苅林昌さんはシューラー節単独だが、
CD「小浜守栄/嘉手苅林昌」では「シューラー節」からチラシに「屋慶名クヮディーサー」となっている。
知名定男さんは「ヤッチャー小」のチラシに「シューラー節」という並び。
最近は早弾きもほとんど「チャッカ、チャッカ」のスキップ式リズムだが、嘉手苅林昌さんらの頃は「タタタタ」という駆け足式。
スキップ式に慣れてしまうとこの駆け足式はなかなか難しい。
唄い方も手も歌詞も自由度が非常に高い唄だといえる。
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下千鳥 6
下千鳥 6
語句・さぎちじゅやー 舞踊曲「浜千鳥」(俗称;ちじゅやー)をくずして、恋や人や世の中の無常さ、遂げられない思いを歌詞に載せて歌う。何故「下げ」(さぎ)とつくかには、「弾き始めが低い音からなので」とか「リズムがゆっくりだから」などいくつか説があるが明確ではない。三線の「弾き始め」を「浜千鳥」のように高い音からすることもある。人気曲である「ちじゅやー」は「南洋浜千鳥」や「遊びちじゅやー」などのように曲をアレンジして歌われることが多い。
唄三線 嘉手苅林昌
《CD 「BEFORE/AFTER」より筆者聞き取り》
一、誰ん姑びれや かんがまたあるい 我みぬ姑びれや かにん苦りさ うんじゅ引ち当てぃてぃ 愛さみそり
たるんしとぅびれや かんがまたあるい わみぬしとぅびれや かにんくりさ うんじゅひちあてぃてぃかさなみそり
taruN shitubiree ya kaN ga mata 'arui wami nu shitubiree ya kaniN kurisa 'uNzu hwi'atiti kanasa misoori
〇どなたも姑付き合いはこんなものだろうか 私の姑付き合いはこんなにも苦しい あなた(姑)はご自分に照らし合わせて私を可愛がってください
語句・しとぅびれー 「姑[しゅうとめ]との接しかた」【琉球語辞典(半田一郎)】(以下【琉辞】と略す)。びれー<ふぃれー。つきあい。交際。・かん こう。疑問を表す助詞「が」がついて、「こんなに〜か?」。・かにん こんなにも。・うんじゅ あなた。目上の人を指す。【琉辞】には「御[お]+み〔敬称〕+胴[duu]、すなわち‘御身’[おんみ]」が語源とある。・ふぃちあてぃてぃ 比べて。つまりここでは「ご自分の姑つきあいの時と比べてみて」・かなさみそり 可愛がってください。かなさ<かなさすん。愛する。+みそり<〜してください。敬語。
二、暮らさりる間や まじ暮らちなびさ 暮らさらんなりば 出じてぃ行ちゅさ ちりなさや 我みぬせるし様
くらさりゆいぇだや まじくらちなびさ くらさらんなりば んじてぃいちゅさ ちりなさや わみぬせるしじゃま
kurasariru yeda ya maji kurachinabiisa kurasaraN nariba 'Njiti 'ichu sa chirinasa ya wami nu seru kuru ya
〇暮らせる間は しばらくは暮らしますよ 暮らせなくなれば出て行くよ 切ないねえ 私のしているありさまは
語句・まじ 「しばらく」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)・ちりなさや 「つれ[情け]ない。」【琉辞】。下千鳥にはよく使われる語句。・しざま 「さま、ざま〔よくない[哀れな]ありさま〕」【琉辞】。これも下千鳥では常套句。
三、朝ま夕ま通ゆてぃ 慣りし面影ぬ たたぬ日や無さみ 塩屋ぬ煙 かわてぃ今日ぬ 夜半にあかしかにてぃ
あさまゆまかゆてぃ なりしうむかじぬ たたぬふぃやねさみ すやぬちむり かわてぃちゅぬ ゆふぁにあかしかにてぃ
'asama yuuma kayuti narishi 'umukaji nu tatanu hwi ya nesami suya nu chimuri kawati chuu nu yahwa ni 'akashi kaniti
〇朝も夜もいつも通って親しくなった面影はたたない日はないだろう 塩屋の煙のように いつにも増して今日の夜は過ごすのが辛い
語句・あさまゆま 朝も夜も。「あさゆさ」とも言う。・ねさみ ないだろう。・すやぬちぬり 「塩屋」は海水から塩を取るための小屋。海水を濃縮して焚いて塩を取る。毎日のようにその煙が立つことから。・かわてぃ 「特に、殊に['iruwakiti]」【琉辞】。「変わって」ではない。いつもとは違って、特に〜という時に使う。・ゆふぁ 夜半。夜中。「やふぁん」「ゆふぁん」「ゆわ」とも言う。
嘉手苅林昌先生の「下千鳥」。
歌うたびに歌詞が変わるので、
それを全部集めるとかなりの数のウタになるのだろう。
下千鳥は「悲恋」「別れ」をテーマにした歌詞が多い中で、
今回の一、二番は「姑つきあい」の難しさをうたっている。
でも三番では聴衆の期待に応えて「愛」がテーマ。
まあ姑つきあいというものも「愛」がベースにあるがゆえの悩みだ。
「うんじゅ ふぃちあてぃてぃ かなさみそり」
なかなかこの意味を理解するのに時間がかかった。
姑に言ったのかどうかはわからないが、「どうか、この苦しみをわかってください。あなたも姑つきあいの難しさはおわかりでしょう?ご自分がこうだったらどうするか、お考えください」と。
意味がわからず何ヶ月も悩んでいると、ある時、はっとすることがある。
その曲を聞いていてばかりではなく、テレビを見ていたり、電車のなかで
あ、そういうことだったのか!と思わず立ち上がって喜んでいたりする。
年配のウチナーンチュなら聞いてすぐにわかるのでしょうが。
三番は歌い終わると客席から掛け声がかかるほど人気のある歌詞。
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こんなことをこのブログでさせていただいてきて、来月で10年を迎えます。
「たるーの島唄まじめな研究」ももうすぐ次のステージに入っていけたらいいな、と思っています。
最初の勉強に大きな影響と勇気を下さった故胤森弘さんをはじめ多くのご意見を下さった皆さんに改め感謝します。
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10年の節目にあたり
いつも当ブログをご覧になっている皆様。
先月の10月30日をもってこの「たるーの島唄まじめな研究」が10年の節目を迎えることができました。
ひとえにこのブログをご覧になり、ご活用してくださったり、またご意見や叱咤激励、訂正などのお声をよせてくださった皆様のおかげだと感謝しています。
何よりも、このブログを始めるにあたって故胤森弘さんの大きな影響と支えがあったことを忘れる事はできません。
「島唄」をうちなーぐちの正確な理解から直訳していくやり方、そしてその表記のした方は胤森弘さんの方法を真似て始めたものでした。
胤森弘さんの研究は沖縄語について高度かつ多岐にわたっています。
興味のある方は是非そちらもご覧になってください。
うちなーぐちで作られた琉歌や島唄を「感覚」や「雰囲気」で訳すことは、古い歌などでは時代背景も違えば言葉の用法も違っていますので、多くのリスクを伴います。
もちろん辞書や文献だけで訳すことにも同じリスクが伴うこともあります。
しかし、まずは語句の意味から「直訳」していくことを入り口にして、背景を調べるなどして意訳に進まないと真っ暗な道を勘を頼りに歩くに等しいと思います。
その「直訳」を入り口とするという方法論を胤森さんから繰り返し教えていただきつつ、自分の足で沖縄の各地、各島の歌の生まれた故郷を歩いたり歌碑を探すなどしながら歌の意味を肉付けしてきました。
10年かけて、ざっと数えると420曲くらいの民謡、古典などの「島唄」、ポップスまでを「ウチナーグチ」から「ヤマトゥグチ」に訳してきました。
「唄の世界はまるで“海”」とブログの冒頭に書いているように、はるかに先が見えない唄の世界に漂いつつ、ウタを一歩でも理解が進むように取り組んできたつもりです。
これからも次のステップに踏み出したいと思っています。
今後ともこの「島唄まじめな研究」をどうぞよろしくお願いいたします。
たるーこと 関 洋
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流れ船 2
流れ船
ながりぶに (または)ながりぶーにー
nagari buni または nagaribuunii
語句・ながりぶに旧暦三月三日に行われた神事のひとつ。三月遊びとも言う。いまでは座間味島にだけ残っている。【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)にはこの「三月遊び」を「年中行事の名。三月遊びの意。旧暦3月3日、平民の娘たちが鼓を打ち、歌を歌って興ずること。上代の歌垣に似ている。那覇では、娘たちが遊山船(nagaribuunii)を仕立てて、船の中で鼓を打ち、歌を歌って遊び暮らす風があり、その時、村と村が対抗して、歌で喧嘩する場面も見られた。」ところで、「旧暦の三月三日」といえば沖縄では「浜下り」(はまうり)といい、アカマター伝説とともに、女性が浜に下りて身を清めるという風習がある。この「流れ船」の「三月遊び」が残っている座間味島では午前中に墓参りをし、午後は浜下りをして、夕方から海上パレードをするとのことらしい。
CD「失われた海への挽歌 」より 唄三線;嘉手苅林昌
一、泊高橋に(ヨ サーサー)銀ジーファー落とぅち(ヨー ユイヤサーサー ハラユイサーユイ)
とぅまいたかはしに(よーさーさー) なんじゃじーふぁー'うとぅち(よーゆいやさーさーはらゆいさーゆい)
tumaitakahasi ni (yoo saa saa)naNja jiihwaa 'utuchi(yoo yuiya saa saa hara yuisaayui)
〔囃子、繰り返し以下省略〕
◯泊高橋に銀かんざし(を)落として
語句・なんじゃ銀・じーふぁーかんざし 「身分により金(くがに)銀(なんじゃ)真鍮(ちじゃく)などの区別があった。」【琉球語辞典(半田一郎)】。・うとぅち 落として。<うとぅしゅん、うとぅすん。落とす。
二、いちが夜ぬ明きてぃ とぅめてぃさすら
いちがゆーぬあきてぃ とぅめーてぃさすら
'ichi ga yuu nu 'akiti tumeeti sasura
◯いつ夜が明けて探して(かんざしを)差すのやら
語句・いちが いつ。「が」は「疑わしさを表す文に用いて、文の疑わしい部分に付く」【沖辞】。・とぅめーてぃ 探して。<とぅめーゆん、とぅめーいん。拾う。探し求める。
三、落とちゃしや銀 とめたしやうらに
うとぅちゃしやーなんじゃ とぅめーたしや うらに
'utuchashi ya naNja tumeetashiya urani
◯落としたのは銀 見つけたものは居ないか
語句・し「(接尾)(・・する、・・した、・・な)の、もの、こと。活用する語の『短縮形』(apocopated form)に付き、その語に名詞のような働きを与える」【沖辞】。・うらに おるまい。居るまい。「ある」「居る」という意味の「うん」の否定形「uraN」に「i」が付いた疑問形。
四 志慶真乙樽ぬ みじーふぁあらに
しきまうとぅだるぬ みじーふぁあらに
shikima 'utudaru nu mijiihwa 'arani
◯志慶真乙樽の御かんざしではないか?
語句・しきまうとぅだる古琉球と呼ばれた13世紀の三山時代、北山をおさめた城が今帰仁にあり、そこに側室として迎えられた村の美女が志慶真乙樽。
五、遊びぶしゃあてぃん まどぅにあしばりら
あしぶしゃやあてぃん まどぅにあしばりら
'ashibusha ya 'atiN madu ni 'ashibarira
◯遊びたいと思っても普段からは遊ばれまい
語句・まどぅ 「平素。平生。不断。ふつうの時」【沖辞】。他には「あき間。すき間。」「すいている時間。仕事のあいま。」「人の見ないすき」が【沖辞】にはある。・あしばりら 直訳すると「遊べるか」だが、「いや、遊べない」と反語的な意味がある。
六、今日や名に立ちゅる 三月ぬ三日
きゆやなーにたちゅる さんぐゎちぬみっちゃ
kiyu ya naa ni tachuru sangwachi nu miccha
◯今日は有名な三月の三日
語句・なーになちゅる 有名な。
七、かりゆしぬ船に かりゆしわぬしてぃ
かりゆしぬふにに かりゆしわぬしてぃ
kariyushi nu huni ni kariyushi wa nushiti
◯めでたい船にめでたいことを乗せて
語句・かりゆし 「めでたいこと。縁起のよいこと。」【沖辞】
八、旅ぬ行き戻い 糸ぬ上から
たびぬいちむどぅい いとぅぬうぃいから
tabi nu 'ichi mudui 'itu nu 'wii kara
◯旅の行き戻りは絹糸のように穏やかな海上を走るようだ
語句・いとぅ 「絹」【沖辞】「いーちゅ」とも言う。
九、御祝え事続く 御世の嬉しさや
うゆうぇぐとぅちじく みゆぬうりしさや
'uyuwee gutu chijiku miyu nu 'urishisa ya
◯おめでたい事が続く この世の嬉しさに
十、夜の明けて太陽ぬ 上がるまでぃん
ゆーぬあきてぃてぃーだぬあがるまでぃん
yuu nu 'akiti tiida nu 'agarumadiN
◯夜が明けて太陽が上がるまでも
十一、夜の明けて太陽や 上がらわんゆたさ
ゆーぬあきてぃ てぃーだや あがらわんゆたさ
yuu nu 'akiti tiida ya 'agarawaN yutasa
◯夜が明けて太陽は上がってもいいさ
語句・ゆたさ いいことだ!<ゆたさん。ゆたしゃん。良い。宜しい。形容詞の「さ」で終わる形は「感嘆」の意味を持つ。たとえば「あぬ むいぬ たかさ」(あの山の高いことよ!)。
十二、今日や名に立ちゅる 三月ぬ遊び
kiyu ya naa ni tachuru sangwachi nu 'ashibi
きゆやなーにたちゅる さんぐゎちぬあしび
◯今日は有名な三月の遊び
十三、夜の明けて太陽ぬあがらわんゆたさ
ゆーぬあきてぃてぃーだぬ あがらわんゆたさ
yuu nu 'akiti tiida nu 'agarawaN yutasa
◯夜が明けて太陽が上がってもいいさ
2006年に取り上げた「流れ船」、今回は嘉手苅林昌さんの唄三線。
CD「失われた海への挽歌」に収録されている。
林昌先生らしく、カチャーシーの歌詞を織り込んで「流れ船」の現場にいるかのような錯覚に陥る。
さて、私は「流れ船」(ナガリブーニー)という神事を見たことはない。
一番最初に書いたが辞書によると今では座間味島だけに残っている神事とある。
確かに座間味島の観光協会に問い合わせると旧暦の三月三日に行われるのだという。
座間味島に詳しい知り合いや観光協会の方からのお話をまとめると三つの行事が旧暦の三月三日に行われるようだ。
①ウシーミー(清明祭)。午前中は先祖供養のためにご馳走を作ってお墓まいりをする。
②ハマウリ(浜下り)。午後は潮干狩りもしつつ、伝統的な女性の健康祈願のための浜下り。拝所(ウガンジュ)を回り、その後の「流れ船」に向けて準備する。
③16時〜大漁旗を掲げた船が島中から座間味港に集結。航海安全と大漁を祈願しパレードをする。そのあと船を数隻ずつ連結して島の間を回りつつ港に向かう。
船上では歌三線が奏でられ女性たちがカチャーシーを踊る、という。
この民謡「流れ船」がそこで歌われるものなのかはわからない。
が、この座間味島に残っている「流れ船」の神事に関係するということは確かだろう。
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渡久地から登てぃ 《ナークニーを追って 3》
ナークニーを追う旅の続きです。
前回はこちら。
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那覇のタカマサイ公園から高速に乗ってやって来た名護もやはり雨。
黄色いハイビスカスは雨でしっとりと。
もう名護に着いたのが夕方。
夕食を済ませて、民謡居酒屋「結いまーる」へ。
松田末吉先生のナークニーを聴きに。
安定感のある声で独特の節回しのナークニーや他の唄も素晴らしかったのでした。
翌日早く目が覚めて、本部町へ。
700年も昔、あの丘でタカマサイのあやぐを聴いた青年はヤンバルに戻ってどうなったのか。
そんなことはわかるはずもありませんが、
唄が生まれ育った土地の空気を吸い、景色を眺めるだけのことで感じる物があります。
そのために「本部ナークニー」の事を調べている方にお会いしようと
まずは本部町教育委員会の渡久地さんにお会いすることに。
渡久地さんは、元教育長でこの本部ナークニーに詳しい方を紹介してくださいました。
その根路銘国文さんとのツーショット。
渡久地さんには地図などの資料をいただきました。
本部ナークニーといえば山里ユキさんが唄った歌詞が有名ですが、
それは昔の本部ナークニーの歌詞や節回しとも少しだけ違っているようです。
この最後にある
渡久地からぬぶてぃ 花ぬ元比名地
遊び健堅に 恋し崎本部
本部町はこの「渡久地」から登った道を整備して「ミャークニー散策道」(ナークニーはここ本部町ではミャークニーと言います)を作っていました。
地図で見ると
この赤い線の部分です。
全部歩けば1時間はかかるけれど、歩きますか?
と聞かれましたが、冗談だとわかったのは、
「ここは歩きましょう」と歩いた道が急な坂道、雨で濡れた落ち葉が
バナナの皮状態であちこちにあるというのを見た時に(笑)
根路銘さんは少し年配の方でしたのでこちらが心配しました。
そして渡久地から登って、たどり着くのは
辺名地。
地図でみると山の中にあり、ゴルフ場の近くとあるので、こんな気持ちの良い平地があるなんて想定外!
今はさとうきび畑になっていますが、昔は「毛、つまり原っぱだったんですよ」と根路銘さん。
「ここは少し集落から離れているので三線や唄も聞こえない広い原っぱだったのでモーアシビには最適だったのでしょうね」
「ここに来るまでの山道だって、昔は木は薪に使われていたから、今のように木は繁ってなかった」とも。
つまりミャークニーの道やこの辺名地から見える景色も見通しがよく、今と随分ちがっていたわけです。
そして本部ミャークニーの下句
遊び健堅とぅ 恋し崎本部
あしびきんきんとぅくいしむとぅぶ、と詠むために「恋し本部」と書かれたものが多いのですが、これは「崎本部」(さちむとぅぶ)のことを指しています。
ここ辺名地から健堅に向かう道は、この谷間を降りて向こう側へ。
「健堅でモーアシビをしていると崎本部が恋しくなるんでしょうね」
と根路銘さん(笑)
「崎本部には美人が多かったんです。今もですが(笑)」って。
これは後からその理由がわかります。
さらにこの谷間には川がありますが、今では想像もつきませんが昔は船の通りがあったそうです。
この川の左上が辺名地、右に健堅が。
今はゴルフ場が場所を占めています。
「ウフグムイ橋」が掛かる「ウフグムイ川」です。
「クムイ」というのはおそらく船が一時避難したり停泊したりする「籠る・こもる」から来ているのだと思います。
隣には大きな渡久地の港などもありますが、このあたりも中国からの船なども停泊して昔は賑わったと想像できます。
すると、この川の両側の高台にある辺名地や健堅がなぜ華やかな「遊び所」であったのか、までも想像できます。
もう一度ミャークニー散策道の碑文を読んでみます。
「『ミャークニー』の元唄である『本部ミャークニー』の最も有名な一部を紹介する。
渡久地から登て 花の元 辺名地 遊び健堅に 恋し崎本部
唄を愛する人々にとって村ごとに残るその地のミャークニーの唄詞など覚えられない。
でもこの1節だけは必ず口にすることができる。ミャークニーは、スク道(宿道)をテーマにした唄であると同時に、モーアシビー(毛遊び)[若い男女の集い]の唄でもある。その元唄が『本部ミャークニー』なのである。
今を去る400年前、諸外国との貿易で富を築いていた琉球王朝が、薩摩藩に攻められた。薩摩軍勢は本部半島に上陸し、北山城(今帰仁城)を攻め落とし、琉球王朝は交戦することなく首里城を明け渡した。薩摩の侵略によって政治が変わり沖縄本島でも海路が主流であったトランスポテイションシステムに変革が起こり、スク道(宿道)と呼ばれる公道が発達するのである。
本部町」
つまり琉球王朝時代に首里から各地の番所(役場)に向かう公道が作られ、これをスク道(宿道)と呼びました。
その道はグスク時代からあった山の上の方にあった集落を繋いでいます。
現在は海側に車道があるのと、山が鬱蒼としているために私たちには想像もつきませんが。
そして、スク道が繋ぐ集落の近くには辺名地のように若い男女が集う遊び場、モーアシビ(毛遊び)の場があったわけです。
本部ミャークニーは、そのスク道を通ってモーアシビの行われた場所やその光景を唄ったものと理解できるわけです。
この場所に行かなければ、そのイメージも湧くことはありませんでした。
ここで根路銘さんや渡久地さんたちと別れ、次にお約束をしている今帰仁歴史文化センターにむかわねばなりません。
↧
今帰仁へ 《ナークニーを追って 4》
2014年の宮古島への旅から宮古民謡の「とーがにあやぐ」、
そして八重山民謡の「とーがにすぃざ節」、
さらに本島の「トーガニ」「タウカネ節」「宮古のあやぐ」「あやぐ節」などの関係を調べてきました。
全て「ナークニー」はどこから来たのか、という問題意識です。
「ナークニー」も様々。
「富原ナークニー」「フクバルナークニー」などのように奏法の創始者の名前を冠したり、
また「ヤッチャー小」「門たんかー」などのように「ナークニー」の形を変えたものも。
その源流をたどると「本部ミャークニー」「今帰仁ミャークニー」にたどり着きます。
それでどうしてヤンバルと宮古島が結びつくのかと考えると、
もう何度も書いてきたように
例の「タカマサイ公園」で1300年代に「あやぐ」を唄って地名に名前を残した高真佐利屋という青年の話に。
加えて、ヤンバルから那覇にきて宮古の唄に触れてヤンバルに持ち帰ったという青年の話にも。
どうしてもその二つの話、伝承が気になります。
前回の記事では2015年4月の沖縄訪問の際に、タカマサイ公園から名護に移動して、
二日目の午前中は本部町教育委員会の渡久地さん、そしてそのご紹介で元本部町教育長の根路銘さんに案内していただきながら、本部ミャークニーの「渡久地から登てぃ花ぬ元辺名地」というあたりを実際にフィールドワークさせてもらいました。
もう一人の方と連絡を取っていたので
今帰仁歴史文化センターにレンタカーを走らせました。
館長の仲原 弘哲さんは待っててくださいました。
「お電話でお話ししたように本部、今帰仁ミャークニーの光景を見てみたい」
と要望をお伝えすると
「地図を見て話しするより実際に見て廻りましょう。」
と言ってくださり、私のレンタカーを仲原館長が運転して巡ることに。
Facebookの「ウチナーグチ講座」を主宰されている金城 信春さんもそこへ駆けつけてくださいました。一緒に乗り込みます。
真下地ぬくびり 大堂原 若地 黒山ぬ下や伊野波とぅ満名
(歌意)真下地の小坂 大堂原 若地 そして黒山の下は伊野波と満名がある
昔の本部ミャークニー、今帰仁ミャークニーではこの歌詞が唄われます。
古い大堂公民館。
この辺りはカルスト台地で、あちこちにむき出しの石灰岩があります。
昔は広い毛(原っぱ)だったのかもしれません。
仲原さんは国道115号線を下りながらも昔の「道」が残っているところはそちらを走ってくださります。
真下地ぬくびり(小坂)とは、もう人が通れる道もなくなっているようでした。
若地も現在は地名がなくなって、山里と呼ばれる場所だと言います。
「黒山」というのはなんでしょう。
仲原さんは、「おそらく伊野波の後ろあたりにあった山で、杣山(そまやま)のことでしょう。」と。
杣山というのは、
「近世の琉球王国において、木材を供給するために間切や島・村の共同管理下に置かれた山林のこと。
地元の住民は間切役人や村役人の指揮を受けて山の手入れに従事する夫役義務の代わりに建築や薪炭に用いる木材の供給を受けるなど一定の収益を受ける権利を得た。王府の山奉行がこれに関与する場合もあった。」(Wikipediaより)
つまり住民は住居の材料や、薪や炭を作るために山林の木を利用しようとするわけですが、それを王府が管理した山のことで、無届けで木を切ることができなかったわけです。
それで木々が生い茂っていたので「黒山」と言ったのではないか、と。
伊野波は「ぬふぁ」と発音しますが、元々は渡久地港から入ってきた船がこの「伊野波」のすぐ近くまで来ていたようです。
つまり「ふぁ」は「端」という意味。「那覇」は昔「なーふぁ」と言いましたが、同じ使われ方でしょう。
伊野波は今でこそ人通りの少ない場所ですが、昔は栄えた港の近くにあったわけです。
渡久地港辺りは、昔はもっと広く、今の本部中学校あたりも海だったようです。
もう少し仲原さんのご案内で巡ります。
(つづく)
↧
今帰仁ミャークニーへ 《ナークニーを追って 5》 終わり
仲原館長の運転で今帰仁のスク道を辿って、本部町まで戻ります。
仲原館長は、国道を走ったかと思えば、山道に入ります。
このようにまがりくねった道。
まさにこれが昔の人々が歩いた道=「宿道」(スクミチ、シュクミチ、シュクドゥーイなどと発音する)なのです。
国道と重なる部分もありますが、「合理性」を優先した直線の国道が
昔の宿道を「串刺し」みたいにした格好です。
記憶を辿ってGoogleMAPに落としてみました
館長が運転された道を黄色で示しました。
まっすぐなのが国道115号線です。
昔の「宿道」(スクミチ)は、こうして人々が使わなくなり、
木々に覆われて消滅するケースが多いというのがよくわかります。
その道で見かけた古いガジュマル木は何を見てきたのか、
なにも語りません。
国道115号線を離れ、やはり宿道を通り、伊野波へ。
伊野波ぬ石くびり 無蔵連りてぃ登る
なふぃん 石くびり 遠さはあらな
(ぬふぁぬいしくびり んぞちりてぃぬぶる なふぃんいしくびり とぅーさはあらな)
◯伊野波の小石の坂道を貴女を連れて登る もう少し小石の坂道が長かったらなあ
という歌詞で有名な小石のゴロゴロした坂道がある場所です。
今回はそこには登らずに、周囲の道を見ます。
左に石くびりがある丘があり、ここに広がるのは田芋畑。
満名川は、昔は今よりも広くヤンバル船などが
この伊野波まで来て荷物の積み下ろしをしたといいます。
伊野波とは、「『ヌーファ』の当て字で、満名川の川岸に位置する集落である。」「ヌーが付く地名は水路と深い関わりがある」(「地名を歩く」南島地名研究センター編著 ボーダーインク)。
つまり、この畑があるあたりまでは水があったようです。
満名を唄ったウタの歌碑を見ながら、次のシマへ。
久しぶりにきしもと食堂で「木灰そば」を食べるという小市民的「野望」は、
そんなことはおかまいなしに満名川の旧道を走ってくださる仲原館長のご配慮によって見事に打ち砕かれました(笑)
ヤンバル船が浮かぶ様子が頭に描けたのでそれはもういいのです^ ^
満名から伊野波 ながりやい浜川
遊びする泉河 花ぬ屋比久
(まんなからいぬふぁ ながりやいはまが あしびするしんか はなぬやびく)
浜川というのは本部小学校の裏手にあったと後から根路銘さんに伺いました。
「はまがー」と発音するので「川」ではなく「井戸」の意味があります。
これは隣の本部中学校の裏の方です。
湧き出る水は小学校の裏手の方が良かったようです。
この左手が本部中学校。
右の丘を越えた辺りが、昔泉河(しんか)と呼ばれた集落があります。
そこをさらに上がると、現在は野原(のばる)と呼ばれ、昔は屋比久(やびく)と言われた集落があります。
屋比久の集落はカルスト台地なので水が湧かず、下の浜河まで水を汲みに行かなければならなかったとも聞きました。
そこからの眺めは遠方も見渡せて
やはり毛遊びが盛んだった場所は高台の眺めの良い場所だとわかります。
下に渡久地港を見下ろし、遠くに辺名地が見えます。
まさか三線の音色がそこまで聞こえたはずはありませんが、叫べば声が聞こえそうにも思えます。
良く毛遊びをした泉河、そして華やかな屋比久。
もう一度ウタをここで口ずさみたくなりました。
満名から伊野波 ながりやい浜川 遊びする泉河 花ぬ屋比久
2015年4月11日。お付き合いくださって、たくさんのことを教えてくださった根路銘さん、渡久地さん、そして仲原館長、金城さん。
改めて感謝申し上げます。
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さて、那覇のタカマサイ公園から本部、今帰仁でのミャークニーの道を巡り一体何がわかったというのでしょう。
先ずは、本部ミャークニーと言われているひとつひとつの地名には無数の人々の「あしび」があり、道の移動があり、そこには出会いや別れ、つまり喜びや悲しみが深く染み込んだものだ、ということです。
渡久地港と満名川が今よりもはるかに大きく、そこには多くの交易船が行き交い、今帰仁城と首里、各地を結ぶスク道が時代の中で波打つ動脈のように生き生きとした人々の暮らしを支えていたのであろうことは、皆さんのお話とフィールドワークを体験することなしには知りえない事でした。
ところでカタマサイがあやぐを歌ったのは1390年頃、ミャークニーの成立ははっきりとは言えないまでも琉球王朝が薩摩侵略を受けたあと、琉歌の成立を待っての時期ではないか、と思います。
もしタカマサイのあやぐを誰かが聴き、それをナークニー、ミャークニーに作り変えたとすれば14世紀と17世紀という、300年の大きなタイムラグができてしまいます。
タカマサイではなく、その後に誰かが誰かの宮古のあやぐを聴き、今帰仁に持ち帰りミャークニーを作ったというのも、もちろんありえるだろうと思います。
私は全くのフィクションでもいいから、この壮大なウタの旅を描いてみたいと思い、小説「糸根の旅」(いちゅにーぬたび)を書き上げました。
まだ本として出版はされていませんが、いつかは多くの方に読んでいただけたら、と願っています。
《ナークニーを追って》のコラムがナークニー、ミャークニーを歌う方に、少しでもお役に立てる事を願っています。
終わり
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今帰仁ミャークニー ⑴
今帰仁ミャークニー
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。
参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男)より。
今帰仁の城 しむないぬ九年母 志慶間乙樽が ぬきゃいはきゃい
なちじんぬぐしく しむないぬくにぶ しじまうとぅだるが ぬちゃいはちゃい
nachijiN nu gushiku shimunai nu kunibu shijima'utudaru ga nuchai hachai
◯今帰仁のお城で 時期遅れのみかんを志慶間乙樽が糸で貫いたり首にかけたりしている
語句・しむない うらなり。季節が遅れて生る果物や野菜。秋を過ぎて霜が降りる頃にできるもの。味は落ちる。・くにぶ 「オレンジ類の総称。みかんなど。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・しじまうとぅだる 13世紀に今帰仁間切は志慶間村にいたという「乙樽」(うとぅだる)という絶世の美女。北山王の側室だった。「しきまうとぅだる」と読むこともある。・ぬちゃいはちゃい (糸で)貫いたり首にかけたり。<ぬちゅん。貫く+はきゆん。「ぬきゃいはきゃい」が「ぬちゃいはちゃい」と読むのは「き」が「ち」に時代と共に変化したため(破擦音化)。
今帰仁の一条 並松の美らさ 花染みの芭蕉布と美童美らさ
なちじんぬちゅなーぎ なんまちぬちゅらさ はなじゅみぬばさーとぅみらびちゅらさ
nachijiN nu chunaagi naNmachi nu churasa hanajumi nu basaa tu mirabi churasa
◯今帰仁の一定に並ぶ松の並木の美しいことよ!
語句・ちゅなーぎ 「ひと長さ。一定の長さ。ある距離の全体」【沖辞】。・なんまち「松並木」【沖辞】。・はなじゅみ 普通は「花染み手拭」などと使い「花の模様を染めた手ぬぐい」【沖辞】の意味であるが、芭蕉布を染める染料としての花や、花の模様というのはあまり聞かない。いわゆる花のように華やかに染めた、という意味か染料としての車輪梅(の樹液を使う)で染めた、くらいの意味か。「あかじゅみ」という歌詞もある。・みらび 「みやらび」の短縮形であろう。「めらび」と振りがなをつけた歌詞もあるがこれも読み方は「みらび」。
山と山連なじ見晴らしんゆたさ 昔北山の名残立ちゅさ
やまとぅやまちなじ みはらしんゆたさ んかしふくざんぬなぐりたちゅさ
yama tu yama chinaji miharashiN yutasa Nkashi hukuzaN nu naguri tachu sa
◯山と山が連なり見晴らしも良いよ 昔北山の名残が浮かぶねえ。
語句・ちなじ つなぐ。<ちなじゅん。・ゆたさ 良い。<ゆたさん。良い。形容詞の体言止めは「感嘆」を表す。・ふくざん 北山。琉球王朝が統一される前の古琉球時代、三山時代と言われた頃に沖縄本島北部に栄えた国名。
諸喜田川に待ちゅみ 兼次川に待ちゅみ なりば諸喜田川や ましやあらに
すくじゃがーにまちゅみ はにしがーにまちゅみ なりばすくじゃがーや ましやあらに
sukujagaa ni machumi hanishigaa ni machumi nariba sukujagaa ya mashi ya arani
◯諸喜田の井戸で待つか?兼次の井戸で待つか?ならば諸喜田の井戸がましではないかね?
語句・すくじゃがー 「川」とあるが、「諸喜田川」という川はない。「かー」は井戸。泉。・に 〜ではないか?〜であろう?と相手に確かめる意味の終助詞。
謝名ん人ぬ言うしが 岸本の目小ーや 歌し情や渡たて 恋や無志情
じゃなんちゅぬゆしが きしむとぅぬみーぐゎーや うたしじょーやわたてぃ くいやぶしじょー
janaNchu nu yushiga kishimutu nu miigwaa ya uta shijoo ya watati kui ya bushijoo
◯謝名の人が言うが 岸本の目が細いあの子は歌は志情がこめられているが恋には志情がない
語句・じゃな 今帰仁の地名。昔は毛遊び(モーアシビ)が盛んな場所だったという。・きしむとぅ 現在は「玉城」(たもーし)という字になっているが、岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)を合併したもの。その一つ。・みーぐゎー 「小さく細い目。また、そういう目をした者。そういう人概して小利巧だといわれる」【沖辞】。・しじょう 「志情」という当て字があるが「しゅじょー」(歓喜。享楽。娯楽。楽しみ)【沖辞】ではないか。後にみるが今帰仁ミャークニーの唄者平良正男さんからは「うたやしじょーやしが くいやぶしじょー」を教えて頂いた。「歌は上手だが恋は上手ではない」と訳された。
今帰仁ミャークニーとの出会い
今帰仁ミャークニーに取り組む。少し経緯を書かせて欲しい。
2015年、本部ミャークニーの道を本部町教育委員会の方、元教育長の根路銘さん、そして今帰仁文化センターの仲原館長にお世話になりながら車で周り、歌詞と風景、そして道との関係を実体験させいただいた。また今帰仁ミャークニーの道も車で巡らせていただいた。その時に本部ミャークニー、今帰仁ミャークニーの唄者はいらっしゃいませんか、と伺ったが「もう高齢だから」ということだった。
私事だが振り返ると10数年前に那覇の古書店で買った「沖縄北部(やんばる)十二市町村 民謡の旅」(沖縄フェース出版)という本に詳しく今帰仁ミャークニーの紹介があり、多くの歌詞を収録してある。それを読んで深い感動を覚えたのだった。この本には執筆者達のお名前は書いていないのだが、私がバイブルのようにしている「島うた紀行」の作者、仲宗根幸市氏もその一人ではないかと思われる。その本によれば
「『今帰仁ミャークニー』は、沖縄のミャークニー、ナークニーの源流と伝えられている。もちろん、今帰仁ミャークニーは、伝承によれば、宮古島のトーガ二(アーグ)系統の影響を強く受けて、それを今帰仁風に潤色し、今帰仁の風土、人々の人情を細やかに取り入れて作られたという。」(民謡の旅 P94)
この今帰仁ミャークニー大会は「地域の掘り起こしの『◯◯大会』先がけとなった」と書いてあり、わたしもこの大会があれば行ってみたい、今帰仁ミャークニーを聴いてみたいと思っていた。
そして、2016年3月に沖縄に行く機会があり、その際に「今帰仁ミャークニーの唄者は居ないか」と色々な方に伺った。今帰仁教育委員会の方から今帰仁文化協会の方を紹介して頂き、さらにその方から平良正男さんという方を紹介していただいた。
3月14日に直接お宅にお邪魔した。平良正男さんは今年数えで九十五歳だといわれた。
もう高齢で三線は弾けない、声もでないということでカセットテープとCDを聞かせていただいた。その時の感動は今だに忘れられない。まさに聞きたかった「今帰仁ミャークニー大会」の録音だった。
その録音を聴いて最大の驚きは「二揚げ」のミャークニーだったこと。これについては後でまた詳しく書きたい。平良正男さんのこともまだまだお話を伺ってまとめたいと思っている。
今帰仁ミャークニーの歌詞
さて、この歌詞は後日平良正男さんの息子さんの平良哲男さんから送っていただいた資料の中に哲男さんがまとめられた「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男)からのもの。今帰仁ミャークニーに関する琉歌が26首あるので、5首ずつに分けてこのブログで紹介して行きたいと思う。
まずは上述の5首。最後の句だが、平良正男さんから伺った歌詞は
謝名ん人ぬ言しが 岸本ぬ目小ーや 歌しじょうやあしが 恋や無しじょう
じゃなんちゅぬゆしが きしむとぅぬみーぐゎーや うたしじょーやあしが くいやむしじょー
平良正男さんは、今帰仁ミャークニーはお祖母様から習い、その歌い方三線の手を受け継いでいると言われた。お祖母様のお姉様がこの「岸本の目小」で、12、3歳ぐらいからウタがとても上手いので青年団にあちこちに連れて行かれて歌ったのだそうだ。平良正男さんの歌声も聞き入るほどの素晴らしい歌声だから、その方々の歌声がどうだったかは想像できる。
「しじょう」については正男さんから「しゅじょー」とも言う、と言われた。それなら上述したが「歓喜」、喜びという意味である。ウタを歌うことが何よりも好きで喜びで、したがって上手だったことも想像に難くない。
次回も5首を紹介し、それに加えて正男さんの三線の手、節回しについても紹介したい。
↧
ニ揚げの今帰仁ミャークニー
今帰仁ミャークニーが実際どんなものなのか、多くの方に知って頂くために、平良哲男さんから頂いた「今帰仁ミャークニー大会」の音源をYouTubeにアップしました。許可も頂いています。
今帰仁ミャークニー、特にニ揚げの平良正男さんの唄三線です。
別紙に「昭和60年代」とあるので1985年以降のものでしょう。
ニ揚げに独特な「合」の音。
始めの5文字の後の短い間奏は、普通のナークニーに比べてもっと短いこと。
最初の高くなる所の揚げ方が急であること。
説明されているように、今帰仁ミャークニーの唄い出しには「下(さ)ぎんじゃし」「中山 んじゃし」「揚ぎんじゃし」などという唄い方があり、ここでは「下ぎんじゃし」で歌われている。
などなどいろいろな特徴がわかると思います。
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今帰仁ミャークニー ⑵
今帰仁ミャークニー ⑵
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。
参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男)より。
だんじゅとゆまりる 仲宗根の島や黄金森くさてぃ 田ぶく前なち
だんじゅとぅゆまりる なはじゅにぬしまや くがにむいくさてぃ たーぶっくめーなち
daNju tuyumariru nahajuni nu shima ya kugani mui kusati taabukku meenachi
◯いかにも世間に有名な仲宗根という村は美しい森を背に 田んぼを前にしている
語句・だんじゅ「なるほど。いかにも。げにこそ。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・とぅゆまりる「世間に鳴り響く。評判になる」【沖辞】。<とぅゆまりゆん。とぅゆまりいん。・なはじゅに仲宗根(今帰仁の地名。現在は字。) 「なかずに」と首里では呼ぶが、今帰仁地方では「k」が「h」に変わる。・くがにむいくさてぃたーぶくめーなち 村を褒める美辞。「くがに」は金を表すが「むい」(丘。山。「森」に対応する。)を褒める美辞。「たーぶっく」は「田んぼ」を意味し「たーぶっくゎ」ともいう。
仲宗根の東 水車建てて 潮ぬぬちゃがりば とりてぃ立ちゅさ
なはじゅにぬあがり みじぐるまたてぃてぃ うすぬぬちゃがりば とぅりてぃいちゅさ
nahajuni nu 'agari mijiguruma tatiti 'usu nu nuchagariba turiti 'ichusa
◯仲宗根の東に水車を作り、潮が満ちてくると 回るのを止めて立っている
語句・ぬちゃがりば 上がってくる。<ぬちゃがゆん。ぬちゃがいん。「抜けてあがる。抜けて上に出る」【沖辞】。・とぅりてぃ <とぅりゆん。とぅりいん。「凪ぐ。風がやむ」【沖辞】。ここでは水車が回るのを止める、だろう。
越地川ぬ水や 砂かみて湧ちゅさ 越地美童ぬくんだ美らさ
ふぃじがーぬみじや しなかみてぃわちゅさ ふいじみやらびぬ くんだちゅらさ
hwijigaa nu miji ya shina kamiti wachusa hwijimiyarabi nu kuNda churasa
◯越地の井戸の水は砂の下から湧くよ。越地村の娘のふくらはぎの美しさよ!
語句・ふぃじがー 今帰仁の字。「がー」は「かー」(井戸。泉。)・くんだ ふくらはぎ。
島やまが童 今帰仁ぬ天底 美らく生まりたる花ぬわらび
しまやまーがわらび なちじんぬあみすく ちゅらくんまりたるはなぬわらび
shima ya maa ga warabi nachijiN nu 'amisuku churaku 'Nmaritaru hana nu warabi
◯出身の村はどこだ?子どもよ。今帰仁の天底。美しく生まれた花のような子ども
語句・しま 「しま」には「㊀村落。部落」「㊁故郷。出身の部落。」【沖辞】などがある。ここでは㊁であろう。・あみすく 今帰仁の字。
運天ぬ嫁や ないぶさやあしが あだん葉ぬたむん 取いぬくちさ
うんてぃんぬゆみや ないぶさやあしが あだんばーぬたむん とぅいぬくちさ
'uNtiN nu yumi ya naibusa ya 'ashiga 'adaNbaa nu tamuN tui nu kuchisa
◯運天の家の嫁にはなりたいが アダン葉の薪は取るのが苦しいことよ!(だから遠慮したい)
語句・うんてぃん今帰仁の東部の字。・ないぶさ なりたい。・あだんばー 海岸に生えているタコノキ科の常緑樹。葉にはトゲがあり、採集が難しい。薪に利用する他、筵や笠、帽子などの原料となる。・たむん 「たきもの。たきぎ。まき。」【沖辞】。・くちさ 難しい。<くちさん。辛い。
今帰仁ミャークニーの歌詞を平良哲男さんのまとめられた「歌詞選集」から。
今帰仁の間切にあった村は、今帰仁村の字となり、合併したりして消えた村もある。
その村の情景を謡うとともに自然と人への讃歌でもある。
と同時に歌う人の個人的な思い出や心情をのせる叙情性もある。
たまたま昨日(2016/4/7)今帰仁村教育委員会の方から、今帰仁ミャークニー大会のパンフレットや資料を送っていただいた。
全てPDFなので、このブログで紹介することも可能である。
研究論文などもあるので非常に貴重な資料でもある。
随時紹介していきたい。
↧
今帰仁ミャークニー ⑶
今帰仁ミャークニー ⑶
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。
参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男)より。
野山若々と 今帰仁ぬ村や 毛作い豊かて 世果報さらみ
ぬやまわかわかとぅ なちじんぬむらや むじゅくいゆかてぃ ゆがふさらみ
nuyama wakawakatu nachijiN nu mura ya mujukui yukati yugahu sarami
◯野山の緑が若々しい今帰仁の村は 農作物は良く実り 豊年であろうぞ
語句・むじゅくい 「農作。農業に従事すること。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・ゆかてぃ <ゆかゆん。「おい茂る。繁茂する。また(作物が)よくできる。よく実る」【沖辞】。「ゆがふー」と言う。・ゆがふ 「『世果報』豊年」【沖辞】。・さらみ 「『であろう』の意を強調して表す」【沖辞】
村寄しり寄しり 湧川邑寄しり 邑ぬ寄しらりみ 娘寄しり
むらゆしりゆしり わくがーむらゆしり むらぬゆしらりみ あんぐゎーゆしり
mura yushiri yushiri wakugaa mura yushiri mura nu yushirarimi 'aNgwaa yushiri
◯村を(自分の村に引き)寄せろ 寄せろ 湧川村を寄せろ でも村を寄せられまい 娘を引き寄せろ
語句・ゆしり <ゆしゆん。「寄せる」の命令形。
湧川美童や天ぬ星心拝まりやすしが 自由ならん
わくがーみやらびや てぃんぬふしぐくる うがまりやすしが じゆーならん
wakugaa miyarabi ya tiN nu hushigukuru ugamari ya sushiga jiyuu naraN
◯湧川の娘は天の星のようだ 拝む(会う)ことはできても自由にはならない
語句・ぐくる <くくる。名詞の後に使われる「くくる」は「‥のようだ」と訳すことがウタに中では多い。「接尾語。〜のようなもの。〜の心地。」【沖縄古語大辞典】。
運天ぬ番所 通いぶさあしが 白真大道ぬ ギマぬくささ
うんてぃんぬばんじゅ かゆいぶさあしが じらまうふみちぬ ぎーまぬくささ
'uNtiN nu baNju kayui busa 'ashiga jirama 'uhumichi nu giima nu kusasa
◯運天の役場に通いたいものだが 白真大道にあるギーマの臭いことよ!
語句・ばんじゅ 「maziri『間切』の役場」【沖辞】。・ぎーま 琉球と台湾に分布するツツジ科の常緑の低木。スズランのような花をつけ、黒い実はブルーベリーのように食すことができる。「臭い」ということについては種が腐敗したものなのかどうかは不明。ギーマの解説
古宇利ぬ新崎ぬ 波立ちゅる時や 里が旅立ちぬ 行らしぐりさ
くいぬあらさちぬ なみたちゅるとぅちや さとぅがたびだちぬ やらしぐりさ
kui nu 'arasachi nu nami tachuru tuchi ya satu ga tabidachi nu yarashigurisa
◯古宇利島の新崎(地名)が波立つ時は貴方を旅立たせ難いことよ!
語句・くい 今帰仁間切だった古宇利島の古称。「島のことをフイジマやクイジマと呼ばれる。クイの表記がこほりで、こほりに郡の字が充てられたとみられる。クイジマと呼ばれながら表記は郡→こほり→古宇利と変遷をたどる。」(http://rekibun.jp/huijima1.html。今帰仁村歴史文化センター館長 仲原弘哲氏)・あらさち 仲原氏によると現在はもう無くなった地名だが、現在の灯台あたりの地名。「荒崎」とも書く。・ぐりさ <くりさん。くりしゃん。苦しい。「形容詞『くりしゃん』(苦しい)が、動詞の連用形に下接して『〜することが難しい』意の補助形容詞になったものである」【沖縄古語大辞典】。
今帰仁ミャークニーの歌詞を平良哲男さんがまとめられた「歌詞選集」から。その3。
「むらゆしりゆしり〜」の歌詞は有名な唄者もナークニーで使われている。
嘉手苅林昌さんや登川誠仁さんなども今帰仁ミャークニーの唄者平良正男さんのところに来れられてウタを聴いていかれたという。この今帰仁ミャークニーの歌詞は今でもナークニーに転用されているものも多い。
「ギマぬくささ」についてはいろいろな方に伺ったが「臭い」という実感はあまりなかったようである。私もギーマを実際に見たことがないので今後の課題。
大まかな場所の参考に。
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今帰仁ミャークニー ゆかりの写真 1/3
平良哲男さんから頂いた今帰仁ミャークニーゆかりの写真を三回でご紹介します。
撮影は平良哲男さん。
御本人の承諾の上掲載します。
今帰仁ミャークニーの歌詞
今帰仁村ぬ今泊(エードメー)フパルシぬ美らさ
今(なま)からん後(あとぅ)ん 代々に残ち(ゆゆにぬくち)
「フパルシ」とは「クワディーサ」の今帰仁言葉。
今帰仁村ぬ今泊(エードメー)のフパルシ。
碑文の文字。
「字民とフパルシ」
「戦前は現存するフパルシの根元に接して、もう一本のフパルシがあった。その痕跡は今でも少し残っているが、大きな幹が西側に長く延びていたので、途中に「つっかい」を入れて保護していた。
シマの人たちは、これを「ウー(雄)フパルシ」といい、現存するものを「ミー(雌)フパルシ」と愛称していた。
フパルシとその周辺は、シマ中の子供たちの格好の遊び場であった。彼等は「ミーフパルシ」の大きな幹に挑んで、よじ登りごっこをしたり、横に延びた「ウーフパルシ」の上を伝わり歩いてスリルを味わっていた。
夏から秋にかけて、フパルシにはたくさんの実がなった。その実は甘酸っぱい味がするし、中の種子は落花生のような香りがあるようで、子供たちは競ってその実を求めた。
暴風の時には、沢山の実が落ちるので、近隣の子供たちは、早起きして拾いに行ったものだ。
この老大木は、わが字のど真ん中に根を張り、枝を伸ばし、幾世代ものシマの子供たちのよい遊び相手を勤めてきたばかりでなく、字の重要行事の舞台背景をなして、その存在を誇ってきたのである。」
『くふぁでぃさ <くふぁでーし。使君子科の熱帯樹。別名は「古葉手樹」(コバテイシ)。沖縄だけでなく小笠原、アジア、アフリカの海岸に分布。「植物名。『沖縄産有要植物(金城三郎)』には『しまほう』『こばでいし』とある。葉は円形で、径15センチくらいに達する。墓の庭に植える。人の泣き声を聞いて成長するといわれている。材は良質で建築用・器具用。葉は紅葉する。」(沖)。「くふぁでぃさ」は「くふぁでぃーし」の文語。発音と表記の違いに注意。』(「たるーの島唄まじめな研究」より)
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今帰仁ミャークニーゆかりの写真 2/3
今帰仁の平良哲男さんから頂いた今帰仁ミャークニーの歌詞にゆかりの写真(2/3)を紹介しています。
撮影は平良哲男さん。
御本人の承諾の上掲載。
(歌詞)
いちゅび小(ぐゎー)にふりてぃ謝名前(じゃなめー)ん坂(びゃー)通てぃ 通てぃ珍(みじら)しや シカぬ鰻(んなじ)
(読み方)
いちゅびぐゎーにふりてぃ じゃなめーんびゃーかゆてぃ かゆてぃみじらしや しかーぬんなじ
(意味)イチゴのように愛しい人に惚れて謝名前の坂を毎日通いつめて見た、シカーという湧き水に住む鰻の珍しいことよ!
シカーというのは謝名にある神聖な湧き水のことで、正月の最初に汲む「若水」(わかみじ)や産湯の水をここで汲んだという。
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今帰仁ミャークニー (4/5)
今帰仁ミャークニー ⑷
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。
歌詞参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男氏)より。
古宇利ぬ前ぬ黒潮 渡ららん黒潮 七つ橋かけてぃ 渡ちたぼり
くいぬめーぬくるす わたららんくるしゅ ななちばしかきてぃ わたちたぼり
kui nu mee nu kurusu watararaN kurusyu nanachibashi kakiti watachi taboori
◯古宇利島の前の黒潮(大海の黒い潮)は船で渡ることができない黒潮だ だからたくさんの橋(船橋のことだろう)をかけて渡らせてください
語句・くい古宇利島の古称。「ふい」ともいう。・くるしゅ 「くるす」とも言う。「黒潮。大海の潮の黒く見えるもの」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・ななち 具体的に数字の「七」を表すというよりは「たくさんの」という意味合いも含まれる。例えば「ななまかい」(何回もお代わりすること)。「ななまがい」(たくさん曲がりくねっていること)など。・橋 「船の橋」のことであろう。船を横に並べて上に板を乗せて人が渡る。現在は古宇利大橋が架けられている。
いちゅび小ーにふりて 謝名前坂通て 通て珍しや シカぬ鰻
いちゅびぐゎーにふりてぃ じゃなめーんびゃーかゆてぃ かゆてぃみじらしや しかーぬんなじ
'ichubi gwaa ni huriti janameeN byaa kayuti kayuri mijirashi ya shikaa nu 'Nnaji
◯いちご(のような人)に惚れて謝名の前の坂を通って その時に見たシカー(湧き水)に住むうなぎの珍しいことよ
語句・いちゅびぐゎー 普通は「いちご」だが歌では擬人化されることが多い。・ふりてぃ 惚れて。<ふりゆん。ふりいん。ちなみに「気がふれる」も同じ発音。・びゃー 坂。ウチナーグチでは「ふぃら」。今帰仁言葉では「ぴゃー」。連濁で「びゃー」。・しかー 今帰仁の謝名にある湧き水。特に神聖とされ正月に最初に汲む「若水」(わかみじ)や、産湯に使われてきた。・んなじ 鰻のこと。
ソーリ川ぬ水や 岩かみて湧い 玉城女童ぬ 身持ち美らさ
そーりがーぬみじや いわかみてぃわちゅい たもーしみやらびぬ みむちじゅらさ
soorigaa nu miji ya 'iwa kamiti wachui tamooshi miyarabi nu mimuchi jurasa
◯ソーリガー(湧き水)の水は岩の下から湧いている。玉城の娘の品行の清らかさのように
語句・がー <かー。井戸。湧き水。ソーリガーは玉城にある。玉城は「岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である」。そのうちの寒水だった村にある。「今帰仁方言データベース」によると『字玉城にある泉の名。清水井の意。ソーヂは清水。「寒水」の字を当てた。』とある。ソージガーがソーリガーと変化したのだろう。
今帰仁ぬ城 登て眺みりば 城石垣や(ぬ) 昔かたて
なちじんぬぐしく ぬぶてぃながみりば ぐしくいちがちや んかしかたてぃ
nachijiN nu gushiku nubuti nagamiriba gushiku 'ishigachi ya Nkashi katati
◯今帰仁のお城に登って眺めると城の石垣は昔を語っているようだ
語句・ぐしく 城。
親川上登て ハンタ石道ん 登て行く先や 城てむぬ
うぇーがーういぬぶてぃ はんたいしみちん ぬぶてぃいくみちや ぐしくでむぬ
weegaa 'ui nubuti haNta'ishimichiN nubuthi 'iku sachi ya gushiku demunu
◯エーガーの上を登って崖の道も登っていく先は今帰仁城であるから
語句・うぇーがー 今帰仁城への登り口にある湧き水。「うぇーがー」は首里的発音。「エーガー」と言われる。・はんた 崖。・でむぬ 〜であるから。
平良哲男さんが集められた「今帰仁ミャークニー歌詞選集」から、今回で4回目。
5首ずつ訳して来たから、今回で20首が済んだことになる。
平良哲男さんの歌詞選集には26首あったから、あと残すところ6首である。
今帰仁ミャークニーの歌詞は非常に多い。
仲宗根幸市氏が「ナークニーの源流」と称されるほど歌われてきた歴史も長い。
また、道歌というものは例えば毛遊び(もーあしび)でシマ(ムラ)からシマへと歩く途中にずっと歌われてきたのだという。一、二時間歩くとしても相当な歌詞の数を知っていなくてはならないし、また即興で新しいウタも生まれただろう。
暗い夜道を一人で歩くこともあったかもしれない。ウタが勇気付けたり、また、自分の存在を知らせる「灯り」のような役も果たしたかもしれない。
そして今の気持ちを高めていったかもしれない。
今帰仁ミャークニーの歌詞の数々を見るたびに、生きたウタ、暮らしと密着したウタというものを感じずにはいられない。
そして、いまこれを歌う人が少なくなってきている現状の中で、残していくこともまた大事だと感じる。
ウタと結びついた情景も多くが失われてしまっている。
私もまだ見たことがない情景も多い。
これからの旅で自分の足でそれらを感じ取りたいと思う。
(▲平良哲男さんが撮影されたシカーの改修復元の碑)
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今帰仁ミャークニー (5/5)
今帰仁ミャークニー
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。
歌詞参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男氏)より。
干瀬に居る鳥や 満ち潮恨みゆい 我身や暁ぬ鶏る恨む
ふぃしうるとぅいや みちす(しゅ)うらみゆい わみやあかちちぬとぅいるうらむ
hwishi ni wuru tui ya michis(j)u 'uramiyui wami ya 'akachichi nu tui ru 'uramu
◯沖の岩場に居る鳥は 満潮を恨んで 私は(恋人と別れる時を知らせる)夜明けに鳴く鶏を恨む
語句・ふぃし 「満潮の時は隠れ、干潮になると現れる岩や洲」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】。以下【沖辞】とする。語句・みちす 満潮。「みちしゅ」とも言う。・うらみゆい 恨んでいて。動詞の後に「い」がつく場合は「継続的」(〜していて)の意味。・る 強調の助詞「どぅ」と同じ。
遊びかさにたる 志情きぬ夜や 忘るなよ互に 幾世までん
あしびかさにたる しなさきぬゆるや わしるなよ たげに いくゆまでぃん
'ashibi kasanitaru sinasaki nu yuru ya washiruna yoo tagee ni 'ikuyuu madiN
◯遊びを重ねた 心通わせた夜は 忘れるなよ お互いに 幾世までも
語句・あしび この時代(琉球王朝末期から明治にかけて)の男女の交遊は「もーあしび」(毛遊び)と呼ばれる野外での草むらで酒や肴を飲み食べしつつ歌ったり踊ったりする「遊び」だった。
真夜中どやしが 夢に起こされて 醒めて恋しさや 無ぞが姿
まゆなかどぅやしが いみにうくさりてぃ さみてぃくいしさや んぞがしがた
mayunaka du yashiga 'imi ni 'ukusariti samiti kuishisa ya Nzo ga shigata
◯真夜中であるが 夢で目が覚めて 覚めても恋しいのは 彼女の姿
むとや片袖に ぬちゃる二人やしが 今やちりじりに なたる苦しゃ
むとぅやかたすでぃに ぬちゃるたいやしが なまやちりじりに なたるくりしゃ
mutu ya katasudi ni nucharu tai yashiga nama ya chirijirini nataru kurisya
◯以前は片袖に同じ腕を通すほど仲の良い二人だったが 今はちりじりになって そのことが苦しいことよ
語句・ぬちゃる 穴に通す。<ぬちゅん。
八十なてうてん 唄ぬ忘らりみ 愛し思里(無ぞ)に 唄てぃ聞かさ
はちじゅうなてぃうてぃん うたぬわしらりみ かなしうみんぞに うたてぃちかさ
hachijuu nati utiN 'uta nu wasirarimi kanashi 'umiNzo ni 'utati chikasa
◯八十歳になっても ウタをわすれられまい? 愛しい彼女に歌って聞かせたい。
今帰仁ぬ今泊 フシバルぬ美らさ 今からん後ぅん 代々にぬくさ
なちじんぬいぇーどぅめー ふしばるぬちゅらさ なまからんあとぅん ゆゆにぬくさ
nachijiN nu yeedumee hushibaru nu churasa namakaraN 'atuN yuyu ni nukusa
◯今帰仁の今泊にあるコバテイシは美しい!今から後世に代々残していきたいものだ
語句・ふしばる クファディーサー。コバテイシ。シクンシ科に属する熱帯性の高木。
平良哲男さんの「今帰仁ミャークニー歌詞選集」からの歌詞を検討してきたが、今回で最後となる。
しかし実際には今帰仁ミャークニーで歌われる歌詞は無数にあるといっても過言ではない。
それは人々が暮らす情景や、人の情けを思ったままに歌詞にするという民謡の自然な姿を今帰仁ミャークニーが残しているが所以である。
この歌詞の中には戦後の民謡歌手がナークニーとして歌い継いでいると思われる歌詞も幾つか見える。それだけ強い影響を与えているのだろう。
【フシバルの木】
2016年7月22日に平良哲男さんのご案内で今泊のフシバルを訪れた。
天然記念物、今帰仁、今泊(いぇーどぅめー)のフシバル。樹高18メートル、胸高周囲4.5メートルで推定樹齢は300〜400年と言われる。
「墓の庭に植える。人の泣き声を聞いて成長するといわれている」【沖辞】。
今泊を「いぇーどぅめー」と読むのは、昔は今帰仁と親泊(いぇーどぅめー)が合併して今泊と書くようになったため。
沖縄県と今帰仁村による解説がある。
《字民とフパルシ
戦前は現存するフパルシの根元に接して、もう一本のフパルシがあった。その痕跡は今でも少し残っているが、大きな幹が西側に長く延びていたので、途中に「つっかい」を入れて保護していた。
シマの人たちは、これを「ウー(雄)フパルシ」といい、現存するものを「ミー(雌)フパルシ」と愛称していた。
フパルシとその周辺は、シマ中の子供たちの格好の遊び場であった。彼等は「ミーフパルシ」の大きな幹に挑んで、よじ登りごっこをしたり、横に延びた「ウーフパルシ」の上を伝わり歩いてスリルを味わっていた。
夏から秋にかけて、フパルシにはたくさんの実がなった。その実は甘酸っぱい味がするし、中の種子は落花生のような香りがあるようで、子供たちは競ってその実を求めた。
暴風の時には、沢山の実が落ちるので、近隣の子供たちは、早起きして拾いに行ったものだ。
この老大木は、わが字のど真ん中に根を張り、枝を伸ばし、幾世代ものシマの子供たちのよい遊び相手を勤めてきたばかりでなく、字の重要行事の舞台背景をなして、その存在を誇ってきたのである。》
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じんだま
じんだま
作詞 上原直彦 作曲 松田弘一 唄 伊波 貞子
一、かなし銭玉小 綾色ん深く 肝にしみじみとぅ 染みてぃたぼり
かなしじんだまぐゎー あやいるんふかく ちむにしみじみとぅ すみてぃたぼり
kanashi jiNdama gwaa 'aya'iruN hukaku chimu ni shimijimi tu sumiti taboori
◯愛しい銭玉小(着物の柄の一種)よ 綾(模様)の色も深く心にしみじみと染めてください
語句・かなし 愛しい。<かなしゃん。かわいい。愛しい。・じんだまぐゎー 銭玉を模様化した琉球絣の柄のことを指す。穴の空いた硬貨を模している。・あや 本来は「縞」の意味。縦糸と横糸を織りなして作った模様。「美しい」の意味もある。・しみじみとぅ 沖縄語辞典にはない。「しんじんとぅ」(「しとやかにしているさま。静粛に控えているさま。しみじみとの転意か」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す))ならある。・たぼり 〜してください。<たぼーり。<たぼーゆん。「給う。下さる。」「口語としては命令形taboori(下さい)のみを用いる」【沖辞】
※サーサーしゅらし しゅらし銭玉よ
さーさー しゅらし しゅらし じんだまよー
saa saa shurashi shurashi jiNdama yoo
(囃子※は以下略)
◯かわいい かわいい銭玉よ
語句・しゅらし かわいい。<しゅらーしゃん。「しおらしい。かわいらしい。愛らしい」【沖辞】。
二、あねる銭玉小 着物綾どぅやしが 真肌はだはだとぅ 抱ちゃいくぃゆさ
あねるじんだまぐゎー ちんあやどぅやしが まはだはだはだとぅ だちゃいくぃゆさ
'aneru jiNdamagwaa chiN 'aya du yashiga mahada hadahada tu dachai kwiyu sa
◯そんな銭玉は着物の模様であるが 真肌(「はだはだとぅ」不詳)を抱いたりしてくれるよ
語句・あねる 「そんな。そのような」【沖辞】。・ちん着物。・はだはだとぅ 「肌」を強調したものか。不詳。・だちゃい 抱いたり。・くぃゆさ あげるよ。くれるよ。<くぃゆん。「くれる。与える。やる。また、(・・して)やる。(・・して)くれる。」【沖辞】。
三、銭玉小着やい 踊いうみかきら かなしうむや小ん 見じゅんでむぬ
じんだまぐゎーちやい うどぅいうみかきら かなしうむやぐゎーん んーじゅんでむぬ
jiNdamagwaa chiyai 'udui 'umikakira kanashi 'umuyaagwaaN NNzuN demunu
◯銭玉の模様の着物を着て踊りをお見せいたしましょう 愛しい恋人もみるのだから
語句・ちやい 着て。・うみかきら お見せいたしましょう。<うみかきゆん。「お目にかける。ご覧に入れる」【沖辞】。の希望形。・んーじゅん 見る。・でむぬ 「・・であるから。・・なので」【沖辞】。
四、銭玉小ぬ情 かりすみやあらん 命ある間ぬ綾ゆでむぬ
じんだまぐゎーぬなさき かりすみやあらん いぬちあるいぇだぬあやゆでむぬ
jiNdamagwaa nu nasaki karisumi ya 'araN 'inuchi 'aru yeda nu 'aya yu demunu
◯銭玉模様の情けはかりそめではない 命ある間の綾(模様)なのだから
語句・かりすみ かりそめ。【沖辞】にはない。・ゆ 不詳。文語では「を」。強調か。
この曲はCD「綾うた」に収録されている。
(正式な名称は「RBC創立四十周年記念盤 綾うた~上原直彦作詞集」)
YouTubeにあるのでリンクする。
https://youtu.be/_dOioyU_lQU
琉球絣の柄の一つ「じんだま」をテーマにしている。
絣の柄といえば、私などは自分が民謡を唄う時に来ている着物の柄やかりゆしウエアの柄を思い出す。
もちろんこれは本物の絣の織物ではなく、プリント生地を縫製したものだ。
では本物の絣とはどういうものか。
絣の柄とはどんなものかを見ていこう。
「織物のまち南風原町」のホームページがわかりやすい。http://www.haebaru-kankou.jp/texitile/ryukyu-kasuri.html
幾つかのサイトも参考にして絣というものについてすこしまとめてみた。
【絣の歴史】
絣(かすり)はインドで生まれた織物で東南アジアに広まった。
経糸(たていと)と緯糸(よこいと)をそれぞれ染めクロスさせることである模様(綾)を生み出す技法。
14〜15世紀頃大交易時代だった琉球にもたらされた。
琉球では庶民が着る着物は無地か縞柄(しまがら)だった。
一方で絣は王府に納める貢納布として、先島諸島や久米島、首里や那覇など各地のヒャクショー(平民)の女性たちの手によって織られた。決して自分達が着ることがないとわかっていても。
人頭税で納める米の代わりにこの絣が納められたこともある。
17〜18世紀には、さまざまな手法が生み出されて開花する。
その絣の柄は王府の絵図奉行の絵師たちの手によって「御絵図帳」(みえずちょう)にまとめられ宮古、八重山など先島諸島、各地での絣の柄を統制・指導する際に用いられた。
約600種類の柄が描かれているという。誰がそのデザインを生み出したのか、は不明。
しかしその御絵図帳で庶民が織った絣は王府、士族の女性たちの着物となった他は中国(明、清)への朝貢品として、また1609年の薩摩侵攻以後は薩摩、江戸への貢納品として使われた。
その事を通じて絣の技術や柄そのものが本土に広がっていき大きな影響を与えた。
【絣の種類や呼び名】
いくつか絣の綾(模様)をピックアップしてみよう。
(図は筆者が描いた)
まずはこのウタのテーマ「じんだま」
▲細長い形のものもある。
▲中央は四角形の穴である。
これらは実際に琉球で使われた貨幣の形を模したものだ。
▲大宜見、久米島のものは左上の細長い貨幣を模したものだろう。
「銭」つまり貨幣が使われ始めたのは琉球が統一される前の中山の察度王(1321〜1395年)と言われている。琉球が統一されて貨幣経済は琉球に広がって行った。
絣柄「ジンダマー」は現在では「ドーナッツ紋」とか「丸紋」と呼ぶこともあるようである。
また、自然を模した柄も多い。
▲トゥイグヮー、鳥あるいは小鳥。千鳥とかツバメとも最近は呼ばれるようだ。呼び名も時代とともに変化している。琉球時代より以前から「鳥」はあの世とこの世を結ぶ連絡係のようなもの、と信じられてきた。あの世からのメッセージであり、こちらから想いをあの人に伝える伝令のようなものだった。
その意味では鳥を模した柄にも琉球の精神世界の反映があるのかもしれない。
▲星を模したもの。星が身近なもので、方位や時間、季節を星で計っていたからだ。
航海や農業、遊び全般で星は重要な「時計」「カレンダー」代わりの役割があった。
▲星が五つ、かと思いきや、インヌフィサー、つまり犬の脚、足跡という意味だ。
ユーモラスでもあるが、どんな思いを込めていたのだろうか。
生活に使われた道具なども多い。
▲バンジョウ。番匠と書く。建築などを仕事とする大工が非常に大切にしたという直角になった金属の定規。直角が測れなければ正確な建築はできない重要な道具だ。
▲このバンジョウを組み合わせて作った芭蕉布の柄。なんとも清楚で美しい。昔は庶民の着物。しかしお値段は。。書くまい(笑)
▲ウシヌヤマ バンジョウと呼ばれる柄。牛のヤマとは、田や畑の土を掘り起こす時に使う犁(すき)のことで、牛(水牛)に引かせた。
▲ウシヌヤマ(「『沖縄の民具 』上江洲均著」を参考に筆者描画)
それとバンジョウの組み合わせなのかどうか解らない。この農具の形だけでもウシヌヤマバンジョウではある。どちらにせよ、両方とも生活では非常に必要度の高いものの組み合わせである。デザインとしても単調ではなく、アクセントが加わって柄も生き生きしてきそうだ。
ちなみに上の私のかりゆしウエアにもこの柄がある。
▲いわばS字フックである。台所や服をかけるときなど今でも何かと便利なものである。これも柄としては面白い。繋げても良いし単独でもいい。
▲豚の餌箱を模した柄。
それにミミ(取っ手だろうか)がつくと
▲もう現在ではフールー(豚小屋)が家にあるお宅などまずは無いと思うが、昔はよく見られた。ということでこの柄は現在では「虫の巣」と呼ばれるようである。
▲人間も動物も植物も水がなければ生きていくことができない。サンゴ礁の島琉球には大きな川も湖もあまりなく、水は湧き水、つまりカー(井戸)のお世話になってきた。そして水はいろいろな祭祀においても重要なアイテムとなる。
さらに井戸はその形によってもまたステキなデザインとなって人々を助けている。
【まとめ】
琉球王朝の「御絵図帳」には600種類の柄があるので到底全部を紹介するわけにはいかないが、上にあげたものだけでも、絣の柄が人々の自然と共にある暮らしや祭祀などの精神世界と密接に関係していることがよくわかる。
そう考えていくと、このウタ「じんだま」の四番
「銭玉小ぬ情 かりすみやあらん 命ある間ぬ綾ゆでむぬ」
を唄う時、また聴く時、感慨深いものが湧いてくる。
この絣の柄として人々の身体を覆ってきたジンダマを着て生活をし、
また踊る時、想いを伝えたい人への深い愛情を込めているのだということを。
本土の絣の文化に深い影響を与えただけでなく、世界にも広がっているという絣。
今も新しい絣を生み出し、それを楽しみ慈しんでいる沖縄の人々の文化の深さにも感銘するばかりである。
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謹賀新年2017
あけましておめでとうございます。
いっぺー、いい正月でーびるさい。
いつも「たるーの島唄まじめな研究」をありがとうございます。
昨年もいろいろお世話になりました。
個人的にはたくさんの勉強をさせていただいた一年だと思います。
今年三月に、今帰仁ミャークニーの唄者平良正男様、平良哲男様との出会いがありました。
ナークニーを学ぶものとしてはとても嬉しい出会いでした。
本部ミャークニーの道を一昨年は教えていただいて唄者を探していたところでした。
また一昨年から書いていたナークニーの成立をめぐる物語「糸音の旅」にとっても非常に価値のある出会いでした。
あちこちを巡ったり博物館や図書館を巡りながら「糸音の旅」の後編にも着手しています。
他にもまだ書き切れないことがありますが、自分なりの勉強を積み重ねてきて、それが小さな花を一つは咲かせたように思います。
ナークニー、ミャークニーに関連する場所を巡り、モーアシビの実情にも少し近づきながら、ウタの故郷をめぐる旅も続けています。
中城湾、和仁屋間の干潟を眺めては「伊計離節」「勝連節」に思いを馳せました。
そして、私の師匠嘉手苅林次先生のご指導を受けながらウタの勉強も続けさせていただいています。
昨年12月には琉球民謡協会の教師免許もいただきました。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
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耳切坊主
耳切坊主
みみちりぼーじ
mimichiri booji
語句・ちり 切り。・ぼーじ 坊主。伝説では琉球王朝時代に首里にいた黒金座主(くるがにざーし)という僧の事。その僧が怪しい術を使って女性をたぶらかし襲っているという事に怒った琉球王が北谷王子に彼の殺害を命じた。北谷王子は黒金座主に囲碁の対局を持ちかけ、黒金座主は両耳を、北谷王子は髷をそれぞれ賭けた。黒金座主が怪しい術で北谷王子を眠らせようとしたところを逆に北谷王子が黒金座主の両耳を切り落として殺した。その後、黒金座主は幽霊となって北谷王子の住む大村御殿を囲う石壁の角に夜な夜な現れた。またそれ以来、大村御殿には男の子が生まれるとすぐ死ぬとう事が続き黒金座主の呪いだと言われた。という伝説である。幽霊云々は別として登場人物は実在しており十八世紀頃の事とされる。
大村御殿の角なかい耳切坊主の立っちょんど
'うふむら'うどぅんぬ かどぅなかい みみちりぼーじぬ たっちょーんどー
'uhumura'uduN nu kadu nakai mimichiribooji nu tachooN doo
◯大村御殿の角に耳切り坊主がたっているぞ
語句・うどぅん 邸宅、家柄という意味もある。「[御殿]。按司地頭(?azizituu)が首里に構えた邸宅の敬称。もと地方に割拠していた按司(?aji)が中央集権制以降、首里に集められ、住まった邸宅。またその家柄。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。「大村御殿」は北谷王子の御殿。北谷王子は尚質王の四男、北谷王子朝愛で代々北谷間切の地頭を務めた。・たっちょーん たっている。<たちゅん。立つ。の現在進行形。「たっちゅんどー」(立つぞ)という歌詞もある。
幾人幾人立っちょがや 三人四人立ちょんど
'いくたい'いくたいたっちょーがやー みっちゃい ゆったいたっちょーんどー
'ikutai'ikutai tacchooga yaa micchai yuttai tachooN doo
◯何人何人たっているかね?三人四人立っているぞ
語句・いくたい 幾人。「たい」は「人数を表す接尾語」【沖辞】。人数の数え方 は次のようになる。一人 ちゅい。二人 たい。三人 みっちゃい。 四人 ゆったい。 五人 いちたい。 六人 むったい。 七人 ななたい。 八人 やったい。九人 くくぬたい。しかし、「五人以上はguniN(五人)、rukuniN(六人)のように言うことが多い」 【沖辞】。・みっちゃい 三人。・ゆったい 四人。「ゆっちゃい」と歌う歌詞もある。
〈ここは以下のような歌詞もある。
幾人幾人立っちょやびが三人四人立ちょんど
'いくたい'いくたいたっちょやび(ー)が みっちゃい ゆったいたっちょんど
'ikutai'ikutai tacchoyabiiga micchai yuttai tachoN doo
◯何人何人たっておられるか?三人四人立っているぞ〉
鎌も小刀も持っちょんど泣ちゅる童耳グスグス
'いらなんしーぐんむっちょーんどー なちゅるわらべーみみぐすぐす
'iranaN 'shiiguN mucchooN doo nachuru warabee mimi gusugusu
◯鎌も小刀も持っているぞ 泣いている子供は耳ザクザク
語句・いらな 鎌。「kamaともいう。」【沖辞】。・ん も。・しーぐ 「小刀。ナイフ。」【沖辞】。・わらべー 子供は。<わらび。子供。+ や。は。biとjaが融合してbee、つまり「わらべー」となる。・ぐすぐす 「物を切るさま。さくさく。ざくざく。」【沖辞】。
ヘイヨーヘイヨー泣かんど ヘイヨーヘイヨー泣かんど
へいよーへいよーなかんど
hei yoo hei yoo nakaN doo hei yoo hei yoo nakaN doo
◯(囃子言葉)泣かないよ(泣くんじゃないよ)
概要
沖縄本島に琉球王朝時代から伝わる童歌(わらべうた)、子守歌である。
いつ頃誰が作ったか、記録はない。
「怖い怖い耳を切る坊主が立っているぞ~たくさんいるぞ~刀やカマを持って泣く子は耳を切られるよ~ だから泣くなよ~」と泣いている子を泣きやますわけだ。
この歌を歌って寝かしつけられた方や寝かしつけた側の方もおられるかもしれない。
それにしても恐ろしい幽霊を登場させたものだ。鎌や小刀を持って大村御殿の角に三人、四人立っていて寝ない子の耳を「切ってしまうぞ」というのだから。そう言われたら、たとえ大村御殿に行ったことない小さな子どもでも想像を膨らませて「早く寝なくては」と思うだろう。
モデルとされる人物たちとウタの背景
耳切坊主とされる黒金座主(くるがにざーしゅ)は実在していたという。各地の伝承では黒金座主は波上宮の一部だった真言宗の護国寺の盛海(じょうかい)和尚のことだとされている。盛海和尚は隠居生活を若狭町の護道院で送ったが、三世相(さんじんそう)という占いをしているため多くの女性が訪れていたが、伝承ではその女性達を誑(たぶら)かし術にかけ金を巻き上げ暴行までしたということになっている。
ところが仏教界では、盛海和尚は当時の北谷王子の悪政を批判し、琉球における仏教界の社会的地位向上を訴えるリーダー、いわばヒーロー的存在だったという逆の見方もあったのである。
悪行を働く黒金座主を成敗した北谷王子は北谷朝騎(1703~1739)だったとされる。(大村御殿の一世である北谷朝愛だという説もある)朝騎は琉球第二尚氏王統第十二代国王尚益王の次男で大村御殿二世である。
時代背景をみると1722年に徳川幕府が行った享保検地により薩摩藩は支配下の琉球に増税を課す。琉球王府の政治財政を主導していた蔡温は緊縮財政をさらに進め、僧侶や寺院の財政への制限も加えていくことになる。
こうした図式の中での「悪事を働いた妖僧」黒金座主と「王から妖僧の退治を命じられた」北谷王子との成敗劇が各地に伝承されている。緊縮財政を進めたい王府や蔡温と、琉球に仏教界の影響を強めたい盛海和尚の対立があったことがうかがい知れる。
黒金座主の「悪行」や妖術を知れば知るほどこのウタのリアリティーが増し「耳切坊主」の存在がさらにグロテスクな印象になっていく。耳を切られた黒金座主の幽霊が「みっちゃい、ゆったい」(三人、四人)現れたのは座主の元に仕えていた小坊主のことであろうか。おそらく小坊主達も成敗されたのだろう。
一方この大村御殿の主だった北谷一族には代々男の子が生まれず、養子を迎えざるを得なかったことを耳切坊主の呪いだという伝承もあり、話にリアリティーを加えている。
このウタの解釈は、妖僧黒金座主が北谷王子への逆恨みで大村御殿の角に幽霊として小坊主を引き連れて立っていた、ということになるが、別の見方では緊縮財政を強化し仏教界へも圧力かけていた王府と蔡温を批判した黒金座主、つまり盛海和尚への粛清を恨んだ幽霊の話ということにもなる。
幽霊が立ったのかも含め何が真実だったのかは今では知る由もないが、琉球王朝と仏教界の対立を背景にこのウタが生まれ、それが子守唄となり今日にまで伝わってきたことだけは事実である。
現在の大村御殿
2017年3月の大村御殿の様子をレポートしてみた。
大村御殿は首里城の北西側にある龍潭池のちょうど北側にある。この写真は大村御殿側から龍潭池、首里城を撮ったもの。
現在は周囲を囲む石垣の壁のみが残っている。
龍潭通りからの眺め。
「大村御殿の角なかい」というので角に立ってみる。
この辺りに「耳切坊主」の説明板がある。
残念ながら文字が消えかかっていて読めない。
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