「上り口説」についての残された絵画、遺跡などをみながら当時の「江戸上り」の様子に迫り、「上り口説」の背景を深めてみたいと思う。
発音、意味の詳細に関しては「上り口説」(たるーの島唄まじめな研究)を参照下さい。
一、旅の出立ち観音堂 先手観音伏せ拝で黄金酌取て立ち別る
(発音)たびぬ んじたち くゎんぬんどー しんてぃくわぁんぬん ふしうぅがでぃ くがにしゃくとぅてぃたちわかる
(歌意)
旅の出発は観音堂 先手観音を伏して拝み 別れの黄金の盃を交わして立ち別れる
▲首里観音堂
首里観音堂のホームページに琉球王朝と観音堂の関係が書かれている。少し長いが引用する。
『寺院の創立縁起は、琉球王朝時代、佐敷王子(のち尚豊王)が人質として薩摩に連れて行かれた際、父・尚久王は息子が無事帰国できたら首里の地に「観音堂」(観音様をお祀るお堂)を建てることを誓願されました。
その後、無事帰郷したので、1618年、首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建て、その南に、慈眼院を建立しました。
1645年より毎年、琉球王国国王が国の安全を祈願・参拝するようになりました。
また、当時、琉球王国は貿易(航海)が国の中心であり、首里の萬歳嶺という丘からは視界が開け、那覇の町・港・海・空を一望でき、渡航の安全・国の安全を祈願するのに最良な地でした。
その地に、すべての人を守り、すべての人を救い、願いを叶える千手観音菩薩像をお祀りし、国王はすべての祈願をしておりました。』
(首里観音堂のホームページより)
1609年の薩摩藩の侵略、琉球国支配によって「人質」にされた佐敷王子の無事を祝ってつくられた観音堂は、その後琉球使節の航海の無事を祈る場所となった。それが江戸上りの旅の始まりを象徴している。
琉球使節は百数十名だといわれる。その全員だったのか、代表する正使だけが礼拝したのかわからないが、千手観音像の前で別れの盃を交わした様子から始まる。
▲千手観音像
沖縄戦でこの千手観音像も観音堂も焼けたということなので戦後に再建されたものだ。
ニ、袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡 崇元寺
(発音)
すでぃにふる ちゆ うしはらい うふどーまちばらあゆみゆく ゆきばはちまんすーぎーじ
(歌意)
袖に降る露を押し払い大道松原歩み行く 行けば八幡崇元寺
大道という地名は現在も首里から那覇、安里に向かう道のあたりの地名として残っているが、「松原」は廃藩置県の際に切られてしまった。
▲観音堂の少し下に位置する「都ホテル」。このあたりに松原と道があったようだ。そこから下ったあたりに昔の「大道松原」を描いた絵を掲示した碑がある。
説明文も少し長いが引用しておく。
『大道松原(ウフドーマツバラ)は、琉球王国時代、現在の首里観音堂付近から大道(だいどう)地域にかけて続いていた見事な松並木の呼称。旅立ちの謡(うた)として知られる「上り口説(ヌブイクドゥチ)」にも登場する景勝の地であった。
大道地域には「大道毛( ウフドーモー)」と呼ばれる小高い丘があり、1501年に尚真(しょうしん)王は、尚家宗廟(そうびょう)の円覚寺(えんかくじ)を修理するための材木として、この丘に松の苗一万株を植えさせた。俗に「サシカエシ松尾之碑文(マーチューヌヒムン)」といわれる碑を建立した。
当時「万歳嶺(ばんざいれい)」(現観音堂)、「官松嶺(かんしょうれい)」(現都ホテル付近)から、この「大道毛」を含む大道地域にかけて、松並木が続いていたのである。
1879年(明治12)の沖縄県設置後、これらの松並木は切り倒され、1945年(昭和20)の沖縄戦で大道毛にあった碑も消滅した。戦後、道路の拡張整備や宅地化により、周辺は大きく様変わりした。』
琉球使節が江戸に出発したのはだいたい新暦の6月くらいだった。まだ梅雨が明けず雨が降っていたことも考えられ、それが松の枝からの「露」となって袖に降ってきたことと「涙」とをかけているのかもしれない。
▲安里八幡。写真はGoogle mapsより。
▲崇元寺。
一番の観音堂もこの崇元寺も臨済宗の寺。臨済宗は薩摩侵略の前から琉球に入っていたが布教活動も弱く一般には浸透していなかった。「除災」の祈祷に重点をおいていたようだ。
さて「上り口説」の三番へ。
三、美栄地高橋うち渡て 袖ゆ連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋
(発音)
みーじたかはし うちわたてぃ すでぃゆち(つぃ)らにてぃ むるふぃとぅぬ ゆくむ かいるむ なかぬはし
(歌意)
美栄地高橋を渡って袖を連ねて諸人が行くのも帰るのも中之橋
美栄地高橋とはどこなのか。
▲ゆいレールの「美栄橋駅」前に碑文があり「美栄地高橋」(みーじたかはし)や長虹堤の説明がある。
碑文にある絵は明治初期のもので、すこしデフォルメしてある。もう少し細長いものだが美栄橋も描かれている。
上り口説の歌詞には「長虹堤」は出てこないが、この時代その長虹堤を渡らずしては崇元寺から美栄地までは行く事はあり得なかった。
▲「新修美栄橋碑」
碑文の内容。
『新修美栄橋碑
いにしえの那覇は「浮島」と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便でした。
そこで尚金福王は、1452(景泰3)年 、冊封使を迎えるにあたり、国相懐機(こくそうかいき)に命じて、崇元寺前からイベガマ (現松山1丁目付近)に至る約1kmの「長虹提(ちょうこうてい)」という、海中道路を築かせました。「長虹提」には、3つの橋が架けられていたといわれ、美栄橋はその内の一つでした。
那覇が発展して行くに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまいました。そのため、川を浚え、橋を架け替えることになり、1735(雍正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工しました。その経緯を記してあるのが、新修美栄橋碑です。正議大夫揚大荘(せいぎたいふようたいそう)が文をつくり、都通事揚文彬(とつうじようぶんひん)がこれを書き上げました。碑文には、工事に要した費用などが記され、当時の経済状況もうかがい知ることができます。
その後、美栄橋は1892(明治25)年に改修されましたが、沖縄戦で破壊されてしまいました。しかし、碑だけは原型を止め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存しています。』
15世紀頃の那覇は「浮島」とよばれる小さな島で、首里や崇元寺とは離れていたために尚金福王によって長虹堤が築かれた。美栄橋はその橋の一つだった。
わかりやすく図に表すと
(青い囲いは現在の海岸線。緑色が昔の陸地だったところ。黄色が長虹堤。)
崇元寺の前から、現在では久茂地川から一つ南側の道路を沖映通りに抜け、さらに西に向けて、現在の美栄橋駅の横を通り抜けるルートが長虹堤だった。
▲写真としてはこれが一番古いもので大正期の長虹堤。現在の「十貫瀬通り」あたり。周囲より高い堤となっていて、周りは畑や家が建ち昔の面影は少ないが道の幅はおそらく昔のままだろう。
もう一つは、中国から冊封の為に琉球を訪れた周煌(しゅうこう)が1756年に描いた絵。(『琉球國志略』)
▲これを見ると、長虹堤が海の上に浮かぶように描かれている。
つまり、昔の崇元寺から長虹堤の最終地点(イベガマ。現在の松山)あたりまでの約一キロの長さを持つ、海の中に堤を積み上げて人工的に作った海中道路だった。
その痕跡はほとんど地中に埋まってしまったとのことだが一部は残っている。
▲この段差が痕跡である。
長虹堤とはまとめておこう。
・当時、那覇は「浮島」と呼ばれる幾つかの島だった。
・中国からの冊封使を那覇で迎えるも、首里までは船橋(船をつないだ橋)で渡さなくてはならなかった。
・1450年に琉球王となった尚金福は翌年1451年に長虹堤の建設を命じた。
・当時は海が深く工事は難航を極めたが宰相懐機の「祈祷」が功を奏し、潮が引いて工事は進んだという伝説も残る。
・崇元寺前から現在の松山1丁目あたりまでの全長約一キロメートル。高さは約1.5メートル。
・安里橋と美栄橋(「待兼橋」と呼ばれていた)を含む7ヶ所に石橋があった。
「上り口説」三番にもどる。
「高橋」とあるのは、諸説ある。
▲那覇市歴史博物館に収められている美栄橋の古い写真。
何れにせよ、崇元寺から美栄地高橋までは長虹堤を渡らなければ行くことができず、さらに美栄地 高橋を渡った使節は、袖を連ねながら、行くのも帰るのも「中の橋」を渡ることになる。
その三番に出てくる「中ぬ橋」だが、那覇市内には「中之橋」という地名が泊(とまり)にもあり、そこを指すと理解されてる方も少なからず居られるようだ。長虹堤を使節が通ったとすると、わざわざ遠回りをする泊は通らないと考えるのが自然だろう。
さて、崇元寺からイベガマ(チンマンサー)と呼ばれた場所まで伸びた長虹堤を渡り、浮島にたどり着いた一行は「袖を連ねて」大勢が揃って歩いたのだろう。とにかく浮島の南側をたどるように西に向かい、上の図にあるような橋にたどり着く。「諸人」というのは全員という意味で、旅立つ一行とその家族「親兄弟」も一緒に歩いたということだろう。
橋をもう一度見てほしい。
先端は「三重城」と書いてありこれが六番にでてくる「三重城」。そして、その次は「仲三重城」、これはよくわからない。そして「仲の橋(臨海橋)」とあり、さらに「臨海寺」「大橋」「小橋」と続き、橋は陸地に繋がる。「上り口説」の「中の橋」とこの「仲の橋(臨海橋)」が同じものだという説が多い。
ちなみにその根元にあるのは「迎恩亭」、ここは中国から訪れた冊封使を一時的に歓迎する場所だった。
四番。
四、沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露涙
(発音)
うちぬすばまでぃうやくちょーでー ちりてぃわかゆるたびぐるむ すでぃとぅすでぃとぅにちゆなみだ
(歌意)
沖(臨海寺)の側まで親子兄弟を連れて分かれる旅衣の袖と袖とに露のような涙
ここで歌われている「沖」というのは「臨海寺」であるというのが通説だ。臨海寺は「沖の寺」とも呼ばれていた事がその根拠。つまり「臨海寺」の近くまで、親兄弟などの家族が見送りに来ていて、別れを惜しんだ、という歌詞の理解になる。
しかし船にはどこで乗り込んだのか、実はよくわかっていない。
「沖のそばまで親兄弟」というくらいなので、そのあたりまでは家族も来たのだろう。
しかし六番の三重城からも家族が見送りをしている事から、沖(臨海寺)より先までも家族は行ったと考えても不自然ではない。
首里城から観音堂、崇元寺から中の橋までの道のりを図にまとめてみた。Googleマップスに重ねて、1700年代の海岸線も書き込んでみた。
「上り口説」の五番。
五、船のとも綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば 風や真艫に午未
(発音)
ふにぬとぅむぢなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてぃまふふぃきば かじやまとぅむに んまふぃちじ
(意味)
船のとも綱を急いで解き船員が勇めて真帆を引けば 風は船の後ろから南南西の風だ
いよいよ琉球使節の出航となる。これから約2000キロの旅、ほぼ一年を費やす。琉球使節が薩摩を経由して江戸に上る際の前半は船を多く利用している。琉球から薩摩、薩摩から九州の西側はほとんど船で港から港へ渡り、瀬戸内海に入って、大坂の港までは海路の旅。そこからは陸路を歩いて江戸までというルートだった。
Wikipediaにその行程がまとめられているので引用する。
『六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。』
(「江戸上り」Wikipediaより)
琉球王朝が所有したり使った船は、中国との交易に使ったのは進貢船(唐船)、マーラン(馬艦)船などと呼ばれ、元は中国のジャンク船を模したもの、あるいは直接中国が琉球に譲ったものだった。
薩摩藩との行き来にも中国との交易に使った進貢船から大砲を外したものが使われたりして、それは楷船と呼ばれた。ちなみにその前は美しい船という意味の「あや船」と呼ばれていたが薩摩藩がその呼び名を禁じて「楷船」となったいきさつがある。
琉球使節はこの楷船やマーラン船(貨物船)を船団として百数十人を薩摩まで運んだわけである。
▲マーラン船。(東京国立博物館所蔵)
▲楷船。(同上)
カラーにすると
(筆者作画)
船には航海の安全を祈る旗や飾りがされていたがそれは航海の行き先によって変わっていくが基本構造は変わらない。マーラン船もあや船も二本〜三本マストの帆を持ち、その帆は台形のような形をしていてシャッターのように上下に折りたためる構造だった。
さて、五番の歌詞の訳、繰り返しになるがこうなる。
(歌意)船のとも綱を急いで解き船員が勇めて真帆を引けば 風は船の後ろから南南西の風だ
「かじやまとぅむに んまふぃちじ」と歌う時の「まとぅむ」は
「舟のともの方向。また、その方向から吹く風」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】とあり
「とも」とは「船尾」の事。つまり「後ろから吹く風」のこと。
「んまふぃちじ」はこの図を見てほしい。
▲時刻も方位も昔は皆十二支で表した。「午未」は「南南西」の方角である。
琉球にとって薩摩は北北東なので風に押されて前に進む帆船にとっては都合の良い、いやそうでなければ薩摩にたどり着けない風、というわけだ。
さあ、六番へ。
六、又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て
(発音)
またんみぐりおーぐいぃんとぅてぃ まにくおーじやみーぐしく ざんぱみさちんあとぅにみてぃ
(歌意)又いつかは廻り逢う御縁だと言って招く扇は三重城 残波岬も後に見て
三重城から別れを惜しみ、再会を願って扇を招くように降っている家族の姿だろうか。
▲海から眺めた三重城。(筆者撮影)
そして船は風に乗り、あっという間に残波岬を通り過ぎる。
「上り口説」の残りの七番、八番を見ていく。
七、伊平屋渡立つ波押し添へて
道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く
(発音)
いひゃどぅたつなみうしすいてぃ みちぬしまじまみわたしば しちとーとぅなかんなだやしく
(意味)
伊平屋島の沖に立つ波は船を押し添えて 奄美の島々を見渡せば トカラ列島の航行中も灘は平穏だ
(▲「沖縄県史ビジュアル版8」を参考に筆者作成)
鹿児島から船で奄美や沖縄まで行かれたことのある方なら、天気が崩れると外洋での波の高さが半端ないことはご存知だろう。伊平屋島の沖の波が高くて航海も難しいところを「押し添いてぃ」としている。
「沖縄古語大辞典」(角川書店)を紐解いてみると「うしすいゆん」は「押して添える」とある。つまり高い波すらも船を押す力になっていると。穏やかでない海の波すらも航海を手助けしている、ということになる。「七島渡中も」はトカラ列島の沖合いを意味するが、ここも「穏やか」だと歌う。
実際にはトカラ列島周辺の海は「黒潮が渦巻く」航海の難所でもあった。この時期は台風も多くやって来ることがある。しかしそれでも安全な航海を願う気持ちが歌詞にもその願いを込めているわけだ。言霊(ことだま)を信じ、そこから生まれた「かりゆし」という航海の無事を祈る呪文と並んで沖縄の精神文化をよく表している。
八番では
八、燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島
(発音)
むゆるちむりや ゆをーがしま さだぬみさちん はいならでぃエーイ ありにみゆるわ うかいむん ふじにみまごーさくらじま
(意味)
燃える煙は硫黄が島だ 佐多の岬を併走してそこに見えるのは御開聞岳 富士に見間違えるほどの桜島
細かい事を言えば「富士に見まごう」のは桜島というより開聞岳のほうではないか。「薩摩富士」との異名もあるほどだからだ。しかし、薩摩の象徴「桜島」を「富士山」に似ていると讃えるのは、琉球王朝の薩摩藩への配慮なのではないか。
「上り口説」は屋嘉比朝寄(1716-1775)の作品だと言われている。その明確な証拠を私は未だに見た事はないが、屋嘉比朝寄は若い頃薩摩藩に派遣され日本の謡曲や仕舞を学び、琉球に戻ってからは琉球古典を学び、工工四を中国音楽の楽譜に習って発明する。
当時日本全国で流行していた口説(くどき)を使って琉球から薩摩への旅を描く、まさに屋嘉比朝寄以外の作者は考えられないともいえる。
「上り口説」は江戸上りの歌とされている。薩摩までの道程で終わるのは、「薩摩藩向け」という理由だけでなく、首里から中の橋までの行程を詳しく描くことで「命をかけた使節」という印象もきちんと残したかったという意図があるように思う。
(追記)
最後に私が気になる琉球使節の絵を紹介しておきたい。
「薩摩から船出する琉球使節」
このチラシは福山市立鞆の浦歴史民俗資料館のもの。
上り口説を始め多くの琉歌に関する資料を集めた「やさしい琉歌集」(小濱光次郎著)にもこれが載っている。
「沖縄県史ビジュアル版8」に掲載されているものだが、元は鹿児島市立美術館所蔵の絵で現在は非公開なのだという。
よく見てほしい。
どの船も帆柱が一本、これは和船の特徴であり、琉球が中国や大和に使っていたと言われる唐船やマーラン船、楷船とは全く違う。
「薩摩から船出する琉球使節」、事実だとすれば、琉球使節は琉球から乗ってきた船を薩摩に置いて和船に乗り換えたということになる。
同じ資料にある使節の道のりなのだが、薩摩に入り、鹿児島の琉球館に行った後、川内(せんだい。原発がある所)や、久美崎という所からからまた船旅となっている。
おそらく鹿児島に琉球の船を置いてそこから薩摩の船に乗り換えたということになる。
上り口説は桜島が見えたところで終わっているが、そこからが長い旅の始まりであった。
琉球を支配している薩摩藩の丸十字をつけた白黒の船に乗った使節の思いはどうだったろうか。
広島県の福山市にある鞆の浦にも使節は「潮待ち」のために滞在した。そこで向生という若い楽師が病気で亡くなった。手厚く小松寺というところに祀られ、今日まで立派な墓碑がある。
悲喜交々のドラマが始まる薩摩から江戸に向かう旅はわずかな資料から想像を膨らませる以外にはない。
八番までしかない「上り口説」を歌うたびにその後の空白の旅路でのドラマへの想像に掻き立てられる思いである。
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上り口説 (ビジュアル解説)
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恋かたれー 2
恋かたれー 2
くいかたれー
kui kataree
◯恋約束
語句・かたれー (一緒になる)約束 「かたれー」には「①仲間となること。仲間入りを約束すること。②男女の一緒になる約束」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)の意味がある。「語り合い」というならば、「いかたれー」の方が近い。「琉歌大成」(清水彰)を調べてみたが「恋語れ」という語句は一つもみあたらなかった。ということは比較的新しい造語か。
唄三線 嘉手苅林昌 (CD「唄遊び」1975年)
一、我んねひゃー じょーに 立てぃてぃヨ 寝んだりみ ちくしょー 面影やたたにヨ 夢ん見だに
わんねーひゃー じょーにたてぃてぃ よー にんだりみ ちくしょー うむかじや たたによー いみん んーだに
waNnee hyaa joo ni tatiti yoo niNdarimi chikushoo umukaji ya tatani yoo imiN Nndani
◯私をあいつは門に立てさせてよくも寝られたもんだ 私の面影は立たないかい?私の夢は見ないかい?
語句・わんねー私は。・ひゃー 「野郎。やつ。人をののしる時いう」【沖辞】。・じょー「門」や「広い道路」「馬場」などの意味がある。門の場合は「鍵」(じょう)から来た語。・にんだりみ 寝られたのか?・ちくしょー 「畜生。また、畜生のような者」【沖辞】。・たたに たたないか。・んーだに 見ないか。
(囃子)
知らすなよや他人に 知らすなよ二人が仲(囃子)
しらすなよやゆすにしらすよなたいがなか
shirasuna yoo ya yusu ni shirasuna yoo tai ga naka
◯知らせるなよ 他人に 知らせるなよ 二人の仲(を)
(以下、囃子は略す)
二、いかな想らわんヨ 我みぬじょーに立とぅな みぐてぃ家ぬ後ぬヨ 久場ぬ下に
いかな うむらわん よー わみぬ じょーにたとぅな みぐてぃやーぬくしぬよー くばぬそちゃに
ikana umurawaN yoo wami nu joo ni tatuna miguti yaa nu kushi nu yoo kuba nu shicha ni
◯いかに私を愛してるからと言ってうちの門に立つな 廻って家の後ろの久場の木の下に
語句・いかな「〔文〕いかなる。どのような」【沖辞】。・うむらわん 愛していても。「うむゆん」は「愛する」。「わん」は「~しても」。
三、みぐてぃ 家ぬ後やヨ うとぅるさぬ 無蔵ヨ 庭ばしる開きてぃヨ 入りやならに
みぐてぃ やーぬくしやよー うとぅるさぬ んぞよー にわばしるあきてぃよー いりやならに
miguti yaa nu kushi ya yoo uturusanu Nzo yoo niwabashiru akiti yoo iri ya narani
◯廻って家の後ろは怖いので 庭の雨戸を開けて入れてもらえないか
・うとぅるさぬ 怖いので。<うとぅるさん。怖い。・んぞ 男性から愛しい彼女を呼ぶ時の代名詞。・にわばしる 庭に向かってある表戸の雨戸。「はしる」は「雨戸」。・いりやならに 直訳すれば「入れることは できるか」。
四、むしか親兄弟にヨ 知りる うぬ時や 名護ん 山原んヨ あいるさびる
むしか うやちょーでーに よー しりる うぬとぅちや なぐん やんばるんよー あいるさびる
mushika uya choodee ni yoo shiriru unu tuchi ya naguN yaNbaruN yoo airu sabiru
◯もしも親兄弟に仲が知られた、そのときは名護も山原もありますよ
語句・むしか もしも。文語調。・あいるさびる ありますよ。「ある」の文語調で強調した表現。<あ<あん。ある。+る<どぅ。強調。+さびる<さびーん。です。「どぅ」の係り結びで連体形になる。
五、山原や行きばヨ あわりどや しぐく みるかたやねらんよ 海とぅ山とぅ
やんばるや いきば よー あわりどぅや しぐく みるかたやねらんよー うみとぅやまとぅ
yaNbaru ya ikiba yoo awari duya shiguku mirukata ya neeraN yoo umi tu yama tu
◯山原は行くとみじめだぞ とっても 見るところもない 海と山(しかない)
語句・あわり 「①あわれ」「②あわれ。つらいこと。みじめさ。苦労」【沖辞】。・しぐく 「至極。ひどく。非常に。」【沖辞】。
「恋かたれー」は2007年8月年にも訳をしているのだが、嘉手苅林昌先生の「恋かたれー」にはいろいろな歌詞が乗るので気になって、これを取り上げた。(以前の「恋かたれー」はこちら)
この曲は「知らすなよーやー他所に知らすなよー二人が仲」という囃子が必ず入り、男女の親兄弟にも隠した逢瀬をめぐるやりとりが歌詞になることが多い。
上にも書いたが「かたれー」は「語らい」と狭く理解される方が多いようだが、「語る」ならば「いかたれー」を使い、「かたれー」ならば男女の約束や仲間になることという意味の受け取り方が自然である。
林昌先生が歌われるこの歌詞では若干ユーモラスなやりとりにも聞こえる。
琉球王朝時代から平民の男女交際のあり方は男性による通い婚であったが、未婚の頃なら約束を決めて男性が女性の家や女性たちが夜なべをして働く場所に迎えに行くという形がとられた。モーアシビは公然たる男女交際の場所でもあった。大正期頃からモーアシビは厳密に取り締まられ、通い婚も減少したので、この歌はそれ以前の男女交際の様子を反映したものだと言えよう。
なかなか彼女の家の前で待っていても出てこない彼女に不満を垂らす。
どんなに愛してるって言っても家の前に立たないで裏に回ってと注文つける彼女。
裏は怖いから表の雨戸を開けて中に入れてくれ、と要求するも、親兄弟が知ったらどうするか、と言いかけて名護や山原に逃げる手もあるわね、と肝っ玉がすわっているのは女性のほうか。すると山原に逃げてもみじめだよ、と男性が。
最後の5番はそれ自体琉歌集にも載るほどの有名な琉歌である。
山原が「海と山」しかないというのは「自然や人情の豊かな山原」という現在の私たちの印象とは食い違うのだが、当時はそういう印象だったのだろう。
「嘉手苅林昌 唄遊び」に収録されている。
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下り口説
下り口説
くだい くどぅち
kudai kuduchi
語句・くだい 「上り口説」(ぬぶいくどぅち)という首里から東シナ海を北上して薩摩藩入りするまでの口説(くどぅち)があるが、その逆の薩摩藩から琉球への旅程を歌ったもの。
一、さても旅寝の假枕 夢の覚めたる心地して 昨日今日とは思へども最早九十月なりぬれば
さてぃむ たびにぬ かいまくら 'いみぬさみたる くくちしてぃ ちぬーちゅーとぅは うむいどぅむ むはや くじゅうぐゎちなりぬりば
satimu tabini nu kai makura 'imi nu samitaru kukuchi shiti chinuu chuutu wa 'umui dumu muhara kujuu gwachi narinuriba
◯さても旅寝の仮の枕、夢が覚めた心地がして 昨日今日とは思えるが最早9、10月になってしまえば
語句・かいまくら 「仮寝」(旅の泊まり)と同じ。・いみ 夢。
ニ やがてお暇下されて使者の面々皆揃て弁財天堂伏し拝で
やがてぃ'ういとぅまくださりてぃ ししゃぬみんみんみなするてぃ びざいてぃんどーふし うがでぃ
yagati 'uituma kudasariti shisha nu miNmiN mina suruti bizaitiNdoo hushi ugadi
◯やがて御暇(の命令)下されて使者の面々が皆揃って弁財天堂を伏せて拝んで
語句・ういとぅま帰還の命令。正月に来て約一年ほど滞在した。・びざいてぃんどー 弁財天堂。弁財天を祀る建物。弁財天は本来のインド仏教では水神、農業神だったが日本では芸術、学問の神や、財産の神ともされる。
三 いざやお仮屋立出でて滞在の人々引連れて行屋の浜にて立ち別る
'いざや'うかいやたち'んじてぃ てぜぬふぃとぅびとぅふぃちつぃりてぃ じゅやぬはまにてぃたちわかる
'izaya 'ukaiya tachi 'Njiti teeze nu hwitubitu hwichichiriti juya nu hama niti tachiwakaru
◯さあ!御仮屋(琉球館)を出発し滞在した人々を引き連れて行屋の浜で別れる
語句・いざや 「さあ」と呼びかける大和口的、または文語的表現。・うかいや 薩摩藩に琉球王府から毎年正月に来る使者(高級官僚である三司官や親方)が滞在する役館。今で言えば大使館。現在の鹿児島市立長田中学校のあたりにあった。1783年から琉球館と呼ぶ。・じゅやぬはま 「天保年間鹿児島城下絵図」に琉球館の北東の運河に「行ヤ橋」というのが見える。現在のJR鹿児島駅前の市電乗り場あたりは昔「行屋堀」と呼ばれる運河があったという。「行屋」とは「修行僧などが行をする家」などを言う。その辺りではないかと思われる。「ぎょうや」gyouyaは「ぎょ」が「ぎゅ」に(三母音化)、さらに「ぎゅ」は「じゅ」に(破擦音化、たとえば「かぎやで」の「かぎ」が「かじゃ」に変化したように。)変わり「じゅや」とウチナーグチで発音される。
四 名残り惜しげの船子共 喜び勇みて帆を揚げの 祝の盃めぐる間に
なぐりうしぢぬふなくどぅむ ゆるくび'いさみてぃふ−'あぎぬ ゆえぬさかじちみぐるまに
naguri ushiji nu hunakudumu yurukubi 'isamiti huu 'aginu yuee nu sakajichi miguruma ni
◯名残り惜しい様子の船子(船員)共、喜び勇んで帆を揚げる 祝いの杯がめぐる間に
語句・うしぢ 惜しげ。<うしぬんushinuN 惜しむ+ 気(ち) 連濁でぢ・ふー 帆。
五 山川港にはい入れて船の検めすんでまた錨引き乗せ真帆引けば
やまごー んなとぅにはい'いりてぃ ふにぬ'あらたみしんでぃまた 'いかゐ ふぃちぬしまふふぃきば
yamagoo Nnatu ni hai 'iriti huni nu 'aratami shiNdi mata 'ikayi hwichinushi mahu hwikiba
◯山川港に入り船の検め(検査)が済んで、また錨を引き、乗せて真帆を引く(上げる)と
語句・やまごー 山川港。なぜ「やまがー」とならないのか不明。しかし、幸喜(古くは川内と言った)を「こーち」ということがある。山川を「やま・こー」→「やまごー」になったのか?・あらたみ 薩摩藩による「船改め」、荷物、人員などの検査。・まふふぃきば 順風を受けて走る時の帆の揚げ方。船の真後ろから風を受けて正面に船が進むときの帆の揚げ方。船とは垂直に帆があがる。「片帆」は船の斜め前から受けた風を後ろに流しながら前に進む航法にとる帆のあげ方。船に対して斜めに帆をあげる。「与那国ションガネー」に「片帆」がでてくる。ちなみに大和の歌に
「真帆ひきて 八橋に帰る船は今 打出の浜をあとの追風」
六 風やまともに子丑の方 佐多の岬も後に見て七島渡中も安々と
かじやまとぅむににうしぬふぁ さだぬみさちん'あとぅにみてぃしちとーとぅなかんやしやしとぅ
kaji ya matumu ni ni'ushi nu hwa sada nu misachiN 'atu ni miti shichitoo tunakaN yashiyashi tu
◯風は順風に北北東の方 佐多岬も後ろに見てトカラ列島の海も(航海は)安々と
語句・まとぅむ 真艫。順風のこと。艫(とも)とは船の後方にある高い場所を言い、船の後方から吹くことを言う。昔の帆船は後ろからの風で前に進む。・にうしぬふぁ 干支による方角で、北北東の意。子=北 丑=北東なので、その中間の北北東。・しちとーとぅなか トカラ列島の海。・やしやしとぅ 安全で順調な航海。
七 波路はるかに眺むれば 後や先にも友船の帆引き連れて走り行く
なみじはるかにながむりば 'あとぅやさちにんとぅむふにぬ ふふぃちつぃりてぃはしり'いく
namiji haruka ni nagamuriba 'atuya sachiniN tumuhuni nu huhwichi hwichitsiri hashiri 'iku
◯波の道をはるかに眺めると、後ろや前にも伴船が帆を引き連れて走って行く
語句・とぅむふに 供船。一緒に航海する船。
八 道の島々早やすぎて伊平屋渡立つ波押し添へて残波岬にはいならで
みちぬしまじまはやすぃじてぃ' いひゃどぅたつなみ'うしすいてぃざんぱみさちんはいならでぃ
michi nu shimajima haya sijiti 'ihyadu tatsunami 'ushisuiti zaNpa misachiN hai naradi
◯道の島々を早くも過ぎて伊平屋島の海に立つ波さえ船を押し添えて、残波岬に並んで(走り)
語句・みちぬしまじま 鹿児島県の南に連なるトカラ列島や奄美諸島などを「道の島々」と呼ぶ。海の航路にもあたり、また、その島の連なりからそう呼ぶ。・うしすいてぃ 「上り口説」と同じ語句が並ぶが、実際には波高く、海流が渦巻くので航海の難所とされたが、ウタでは「高い波さえも船を推し添えてくれた」と安全を祈願する。
九 あれあれ拝めお城もと 弁のお岳も打ち続き(ヱイ)袖を連ねて諸人の迎へに出でたや三重城
ありありをぅがみ'うしるむとぅ びんぬ'うたきん'うちつぃぢち えい すでゆつぃらにてぃ むるふぃとぅぬ んけーにんじたやみーぐしく
'ari'ari ugami 'ushiru mutu biN nu 'utakiN 'uchitsijichi (yei) sudi yu tsiraniti muru hwitu nu Nkee ni 'Njitaya miigushiku
◯あれあれ!眺めよ お城元 弁の御嶽(うたき)も続き 袖を連ねて人々が迎えに出てきたのは三重城に
語句・・びん 弁ヶ嶽。標高168.4mで、かつては航海の目印にもなっていた。・うたき 御嶽。・みーぐしく 三重城。
(コメント)
口説(くどぅち)系の歌で、上り口説と逆のコースをたどり、薩摩から沖縄に戻る人々の思いや情景を歌っている。舞踊曲。古典。発音にはヤマトグチをウチナーグチに変換したような部分もある(「改め済んでまた」→「あらたみしんでぃまた」)。
歌としては、上り口説の最後のメロディーから、つまり、薩摩に着いたときのメロディーから始まる。あとは、五番で山川港を出港し、南に下る情景をものがたる。随所に上り口説の歌詞が使われることで対比され、逆のコースでの船旅を体感するようで面白さがある。
さて内容を見てみよう。一見、江戸上りの帰り(下り)の様子だと思われる方もいらっしゃるかもしれない。実はこれは薩摩を最終目的地とする「薩摩上り」の帰還の様子を歌ったものである。
1609年の薩摩藩による琉球侵攻以降、同藩は琉球王府に対して江戸上りと共に薩摩上りを命じた。実は「上り口説」もこの「下り口説」も江戸への、または江戸からの旅程は歌詞には無く、薩摩上り下りの情景を口説にしたものである。つまり行き先は薩摩の御仮屋(琉球館)である。薩摩上りは約一年の期間と言われ、正月に薩摩藩入りし、9月10月くらいまで琉球館に滞在した三司官や親方などは和歌や能、書道などの大和の学問芸術を学んだ。
江戸上りの方は1609年から幕末まで18回実施された。琉球王即位の際に派遣される謝恩使と幕府将軍即位の際の慶賀使の2種類があった。薩摩上りで琉球館に滞在した在番親方(ざいばんうえーかた)などの役人は通常は琉球からの物資を薩摩に販売したりして薩摩藩の中国との密貿易に関わったりしていたが、時期が来れば江戸上りの準備や上使の接待などもしていた。
【天保年間鹿児島城下絵図に描かれた琉球館、琉球の船、人々】
鹿児島市立美術館に所蔵されている「天保年間鹿児島城下絵図」(以下「城下絵図」と略す。)には当時の琉球館や船、人々の姿が描かれている。天保年間とは西暦1831年から1845年を指す。琉球王朝も江戸幕府も世界から揺さぶられつつ激動の時代に入っていこうとするその直前の時代である。
▲「天保年間鹿児島城下絵図」全体。
▲「城下絵図」には「琉球館」、「行屋橋」、「弁天橋」など「下り口説」に出てくるキーワードと関係がある場所が描かれている。
さらに詳しく見てみよう。
【琉球館】
鹿児島城(鶴丸城)のやや北東に描かれている。
現在の鹿児島市立長田中学校(鹿児島県鹿児島市小川町3番10号)の敷地内に琉球館の碑がある。
「城下絵図」の縮尺の不正確さゆえに明確には言えないが中学校の敷地とほぼ同じくらいの広さが琉球館にはあてがわれていたのではないか。当時は門番が立ち、立ち入りは厳重に制限されていた。薩摩藩の財政改革で功績をあげた調所広郷(ずしょ ひろさと)が家老の立場で「琉球館聞役」として常駐したが、これも薩摩藩が琉球を通じての中国との密貿易を極めて重要視していた証拠である。ちなみに調所は薩摩藩の借金500万両を、奄美の砂糖の専売制やこの密貿易などで黒字に転じた人物。
【弁財天】
「弁財天」は、当時は七福神の紅一点で、琵琶を弾く女神で「福徳、諸芸能上達の神」として信仰されていた。本来のインド仏教の弁才天の水神、農業神というイメージとは異なっている。
▲「城下絵図」には琉球館のやや東の浜に「芝居」小屋と共に「弁天」の文字が見て取れる。
【行屋の浜】
今は埋め立てられてしまったが、鹿児島市内を流れる稲荷川から運河が伸びて築地を形成していた時代がある。その運河を「行屋堀」、そこに架かる橋は「行屋橋」と呼ばれた。現在のJR鹿児島駅付近である。
▲「城下絵図」には「行ヤ橋」とある。そこを渡ったあたりの浜が「行屋の浜」だろう。対岸には琉球船も停泊している。ここで船への乗り降りが行われたようだ。
【山川港】
薩摩半島の東側にある天然の良港。九州の南端にあたり昔から海外交易やカツオの集積港として栄えた。薩摩藩に入出航する船はここで船改(ふなあらため)を受けた。琉球使節の乗る琉球船もここに停泊した。
▲現在はこの山川港を見下ろす見晴らしのいい丘に「琉球人望郷の碑」がある。碑には《江戸時代には琉球から山川港へ幾たびも使臣船が来航した。この間遭難・客死した使臣は数百名にも上るが、明治10年代それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が創設された。新たな交流元年にあたり、福元墓地の一角に琉球人の鎮魂墓碑を、眺望の利くここ愛宕山には「琉球人望郷の碑」を建立した。時代の潮流に翻弄されながらも身命を賭して往還逝去した琉球の古人たちに、心から敬意を表するものである。》と刻まれている。
【琉球人花見の図】
「城下絵図」を詳しく見ていくと珍しい様子も描かれている。
▲桜で有名な現在の磯浜あたりで船で花見に興じる琉球の人々。おそらく琉球館に詰めていた親方などの上級士族達であろう。三線のようなものを弾く姿、踊る人、鼓を叩くものなどが見える。薩摩上りの主要な目的の一つが「大和文化の吸収」ということであるから当然ではある。この時期の琉球王朝は薩摩藩からの重税に応えるために宮古・八重山地方に過酷な人頭税を課して200年目になっている。人頭税は15歳から50歳までの全ての男女の頭(あたま)数によって税負担を増減させるもの。この頃の八重山、宮古地方の生産性を上げるための過酷な施策を知れば知るほどこの上級士族の様子に疑問もわくのである。「下り口説」の一番の「夢の覚めたる心地して」とはどういう意味なのか、と。
もちろん、この絵図だけで判断するものでもないし、「薩摩上り」が命がけの旅であったことは否定しようがない。しかし琉球館に隔離され、強制的に薩摩藩の対外貿易の片棒を担がされていたというだけの側面をみていたのではいけないという気がしてくる。
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琉球使節の足跡を訪ねる その1
わずか一泊の鹿児島旅でしたが、私にとって得るものが多くありました。
振り返って私の「鹿児島旅」と言えば、小6の修学旅行で桜島や島津家の豪邸などに触れ、さらに薩摩方言の面白さにカルチャーショックを受けたものが最初でした。
それから鹿児島への旅を何度かはしましたが、今回のように「薩摩と琉球との関係」を意識した旅は初めてです。
今回の旅の動機はこの絵図でした。
鞆の浦歴史民俗資料館で、見たチラシにあったものです。他に「やさしい琉歌集」(小濱光治郎著)にもありました。
「薩摩から船出する琉球使節」という説明と「鹿児島市立美術館所蔵」の文字がありました。
私の浅学で知るこんな琉球船とは全く違います。
ジャンク船とも言われる中国の船を模した帆船で多くが二本ないし三本のマストを持っています。
いったい、この絵図の船は何なのか?
今年の春に鹿児島市立美術館にお電話をしました。
「残念ながら傷みが激しく現在は公開していませんが、11月には公開しますので、その時にどうぞ」とのことでした。
しかし、今回お盆で宮崎に帰省するので16日なら鹿児島に行ける、その時にデジタル写真で良いので見たいと厚かましく告げると、
「わかりました。休館日ですが職員はおりますので裏口からお入り下さい」
との丁寧な対応を頂きました。
これは、行くしかありません。
さっそく16日朝早く母親と仏壇にしばしの別れを告げて宮崎駅から特急「霧島3号」に乗り、鹿児島中央駅を目指したのでした。
朝早いので眠い顔です⇩(笑)
途中、私を産み3歳まで育てて亡くなった産みの母親の故郷「都城」に。
地元では(みやこんじょー)と発音。かつては薩摩藩の島津家の私領であったり薩摩藩の一部であった事もある地域です。廃藩置県の後は「都城県」も存在していました。そのため言葉が鹿児島弁に近いのです。
私の生みの母親も鹿児島弁に近い言葉だったのでしょうか。
山を抜けると広い盆地が広がるのが都城の特徴、お茶畑や煙草の栽培も盛んです。
ここを抜けると鹿児島県。
煙たつ桜島が見えてきました。夜中までの荒れた天気も収まり、太陽が照りつける夏の空に変わっています。
午前9時くらいに着いて、レンタカーの予約11時までの時間がもったいない、とタクシーに乗り「琉球館跡」と「琉球人松」へ。
その時気がついたのは、二つの史跡は鹿児島中央駅よりも一個手前の鹿児島駅の方が近いのでした。そこで電車を探しましたが1時間待つか、特急料金を払って特急に乗るか、の選択を迫られましたので渋々タクシーを選択したのでした。
琉球館跡の碑は市内の中心部のやや北部にある鹿児島市立長田中学校の中にありした。
タクシーで中まで入り、運動場の横を歩いて碑のそばへ。
この絵図は「天保年間鹿児島城下絵図」に描かれた琉球館。琉球館については、また後日詳しくまとめたいと思います。
まずはタクシーに乗り、次の「琉球人松」へ。
長くなりました。この辺で、また次回としましょう。
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琉球使節の足跡を訪ねる その2
「琉球館跡」があった長田中学校からタクシーの運転手は薩摩時代の石橋とかの説明をしてくださってます。私は半分は聞きつつ、半分は琉球人松の意味を考えていると、あっという間にそこに着いてしまいました。
現在の多賀山公園(東福寺跡)を過ぎてさらに祇園之洲西口から350mほど北上すると「琉球船の目印松」があります。
『琉球人松 琉球船の目印松
磯浜には昔、石灯籠に抱きつくように見事な枝を張った大松がありました。琉球からの船が入港する時、目印にした松と言うところから「琉球人松」と呼ばれていました。
松の上の丘は桜の名所で、海上から桜を眺める遊覧船も多かったといます。ところが終戦後松食い虫の被害にあい、この名物松を惜しむ人達が手を尽くして駆除に努めましたが、その甲斐もなく枯れてしまったのです。
そこで、1953年(昭和28)10月2日、当時の市長勝目清のノコ入れで切り倒され翌年、数本の姫松が植えられました。その中の1本が現在、石灯籠の左手に根付いています。切り倒された琉球人松の年輪を数えると142あったそうです。
また1973年(昭和48)5月15日、沖縄復帰1周年を記念して那覇市からリュウキュウマツの寄贈を受け、石灯籠の右手に植えられています。
鹿児島市』
と看板には書かれています。
つまり、いつの時代の事かは不明ですが、ここに灯篭を抱くように生えた松があり、それが琉球船の入港する時の目印だったというわけです。
現在は琉球松が植えられているようです。
この目印についても後に琉球使節の足跡という事で再度触れます。
松の向こうには桜島が見えてます。
さ、タクシーのメーターも結構な数字になってきたし、レンタカーの予約時間も迫って来ました。
レンタカーの24時間分の料金とほぼ同じ金額をタクシーの運転手さんに払って(涙)レンタカー屋さんに着きました。
格安のニコニコレンタカー。
上にはビジネスホテルもついているので宿泊もここ。格安です。
今回の大きな目的地の一つ、鹿児島市立美術館にレンタカーを向かわせました。
今日は休館日ですが裏口から入れてもらいました。
事務所にあるパソコンで、拡大してあちこち見せてもらいました。
これは完全に和船。しかも上が白。下が黒の帆は薩摩藩の帆印。丸に十文字という薩摩藩の印は帆ではなくて船の横などにつけられています。
私の疑問は
本当に琉球使節が乗っているのか?
ということでした。そんな話をすると美術館の方がある資料を見せてくれました。
「杇木資料(おうてき)」と書かれたものの中に
なんと船一艘一艘の名前、乗っている者、大きさまで書かれた資料があるのでした!
「杇木」というのは、薩摩藩に代々支えた船大工の家系の名前で、戦後この資料が見つかった事で薩摩藩の船についてだけでなく日本の和船の研究にとっても大きく貢献しているものなのです。
これも詳しくはまた述べます。
確かに、この船団90艘のうち後ろの10艘に琉球使節の正使、副使などが乗っていました。
つまり琉球使節は琉球の船で
琉球、首里~那覇→東シナ海を北上→山川港→目印松を見ながら薩摩藩の城下の港→琉球館
と来て、どこかでこの薩摩藩の和船に乗り換えたことになります。
この絵は「琉人御召之図」と書かれていて作者は不明ですが「薩摩藩の狩野派系の御用絵師の作」と考えられています。
船には目立つように琉球使節が乗っていることを指し示すものは見当たらず、そうした雰囲気すら消されています。
琉球は日本にとっては外国、自由に国内の航路を往来できないわけですから、和船への乗り換えは当然と言えます。しかし大坂まで行く間の海路は隠密輸送の様にも思えます。
琉球使節はこの船に乗ったまま、九州西海岸を北上し、瀬戸内海に入り、鞆の浦にも寄港したのだとわかります。
鹿児島市立美術館で見せてもらった資料のもう一つは
「天保年間鹿児島城下図」
この中に琉球館が描かれています。
他にも面白い光景も。それについてもまた後で。
さて、鹿児島市立美術館の皆様に大変お世話になりながら、大事な、それこそ歴史研究には重要な幾つかの資料まで頂いて帰ることができました。
この場をお借りして感謝申しあげます。
美術館を出て、今度は山川港に向かいます。琉球使節が初めて薩摩の地を踏んだところかもしれません。
お昼ご飯を食べる時間ももったいないので、コンビニでおにぎり一個とお茶を買ってかなり長いドライブとなります。
また次回!
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琉球使節の足跡を訪ねる その3
私の旅の共googleは鹿児島市内から山川港までは車で約1時間半かかることを教えてくれます。おにぎり一個とお茶をレンタカーに積んで出発。
桜島を左手に見ながら海沿いの国道を南下します。
琉球使節が琉球を出て、薩摩藩の領地に入るのは奄美の島々を除けば山川港が初めて。また1609年の薩摩琉球侵攻の軍勢もここ山川港から出港しています。琉球にとっては因縁深い港でしょう。
ダンチクがあちこちに伸びています。
やはり南国、アメリカデイゴとも呼ばれるカイコウズが赤い花をつけていたり、ハイビスカスの花もあちこちに。
山川港から鹿児島城下に向かった琉球使節も船の上からながめたことでしょう。
平日の交通量の多さで2時間近くかけて山川港に到着!
もう午後2時すぎ、おにぎりはもうお腹の中(笑)お茶も飲みきり、次を買わなくては。
指宿を過ぎたあたりからは車は急に減り、山川港あたりは釣り客と観光客もまばらな静かな港町という印象でした。
「山川港まち歩きガイド」というサイトを少し前に見つけ、この辺りにある琉球使節に関する史跡はチェックしておきました。もちろん、ここは鰹節の製造でも有名ですからそちらも。
掲示板には
1659年に開園し、レイシ、ハズ、キクコ、カンラン、リュウガンなどの薬草が多く植えられ現在ではリュウガン(樹齢300年以上)が残されているだけ、だとか。
リュウガンの実が幾つかなっておりました。樹齢300年の木に!
さて次を急ぎます。外気温がとんでもないことになってます。夕方までには鹿児島市に戻らないと。
山川港に琉球の人々が寄港したことの証拠をしめす碑、琉球人鎮魂墓碑を探します。
先ほどの「山川港まち歩き」マップを片手にgoogleを使いながら探すのですが見当たらない!
このマップ通りの場所に行っても何もない。そもそもこの琉球の碑を案内する看板はなかったのでした。
ガイドをされている方にも電話しましたが。。。「わからない」と。
「えい、ままよ!」とは叫んではいませんが、この「河野覚兵衛家暮石群」の横の階段を上るとそこにありました。マップと設置場所は少し違っていたようです。
こう書かれていました。
【琉球人鎮魂墓碑
江戸時代には琉球から山川港へ幾たびも使臣船が来航した。この間遭難・客死した使臣は数百名にも上るが、明治10年代それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が造成された。
新たな交流元年にあたり琉球人鎮魂墓碑を、を建立した。
2009年11月29日
琉球・山川港交流400年事業実行委員会】
西南の役の戦没者を祀ることは良いのですが、何故に「取り壊す」のか。
一年に一回の「薩摩上り」が琉球には義務付けられ、それ以外でも多くの行き来がありました。必ず経由するのがこの山川港。そして航海の途中で亡くなった方々のお墓が山川港にはあったようです。
そのお墓が破壊されていったとは。
墓碑の前で深く頭を下げて、この疑問を心に刻みながら次に向かいました。
山川港の街並みには、あちこちに「石敢當」があります。やはり琉球の人々が住んだ痕跡でしょうか。不思議にもシーサーは見当たりませんでした。
そして、もう一つの琉球の人々のための「琉球人望郷の碑」を探します。
少し小高い丘の上にありました。さっきの「琉球人鎮魂墓碑」と少しだけ違う碑文でしたので、こちらも記しておきましょう。同じ目的で建てられた碑でしたが地元の方々の優しい思いやりも込められていました。
琉球人望郷の碑
江戸時代には琉球から山川港へ幾たびも使臣船が来航した。この間遭難・客死した使臣は数百名にも上るが、明治10年代それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が造成された。
新たな交流元年にあたり、福元墓地の一角に琉球人の鎮魂墓碑を、眺望の利くここ愛宕山には「琉球人望郷の碑」を建立した。
時代の潮流に翻弄されながらも身命を賭して往還逝去した琉球の古人たちに、心から敬意を表するものである。
2009.11.29.
琉球・山川港交流400年事業実行委員会
下線のあたりが、若干違いがあるのです。
まあ、それは良しとして、もう少し山川港をウロウロしようと思いましたが、レンタカーに乗った瞬間、かなりの暑さの中を動いたせいか、おにぎり一個しか食べていないせいか(笑)少しだけ疲れを。歳なんですかねえ。。
この丘にはガジュマルかと思ったのですがアコウの木や月桃がたくさん。きっと亡くなった方々も寂しくはないだろうと思いました。
五人番アコウの木も見たかった。
「五人番」とは海外などの船を見張るために山川港に設置された見張り番。行けなくて残念。。、
まだまだ行きたい所がありました。鰹節の製造所や、他にもいくつか。しかし、疲れには勝てません。
道の駅で、鰹節を探しました。削り器も。さすがに見た目も綺麗な鰹節が比較的廉価で。
値引きとおまけにつられて買った鰹節と削り器は今重宝しています。
まだまだゆっくり見て回りたいという気持ちに後ろ髪を掴まれて、しかし疲れた、夕方までには戻らないとという気持ちで山川港を離れました。
「さつまいも」は、1605年に琉球の野國總管が中国から苗を持って帰り琉球で栽培が始まりました。沖縄では「ンム」「ウム」などといいます。
それを持ち帰ったとは書いていないのは残念。
この辺で閉店の鐘のごとくお腹が鳴りました(笑)
今夜は鹿児島市内に泊まり、明日はいよいよあの絵図が書かれたと思われる場所へ。
また次回!
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琉球使節の足跡を訪ねる その4
たった一日のレポートに「その3」まで費やしてしまうという私の筆の「トロさ」に呆れつつ、鹿児島島市内に戻ってからは、まるでテレビ番組の「酒場放浪記」みたいになりますのでご容赦ください。
▲天文館のアーケード街にある有名な「しろくま」のお店「むじゃき」。
ニコニコレンタカーの二階にあるビジネスホテルに無事到着し、荷物を部屋に置いて、さっそく散策。
▲流行りの酒場。
鹿児島の繁華街「天文館」も歩いて五分くらいの便利さ。
「天文館」という固い名前に対し、最近は「天街」(てんまち)という言い方もあるようです。
薩摩藩第8代藩主、島津重豪(しげひで)が1773年に天文館(当時は明時館)を建てたことが名前の由来。
蘭学に傾注し、オランダ語も話せたという重豪は「暦学」や「天文学」の研究のために建てたのでした。ほかにも探求心だけでなく豪華な暮らしと贅沢三昧で500万両という莫大な借金も抱えてしまいますが。
その借金を返納するために、琉球支配、それによる中国との密貿易の拡大、奄美からの「サトウキビ」を安く買い叩くなど収奪の強化という側面を忘れるわけにはいきません。
薩摩藩は大借金を踏み倒し、大黒字をひねり出し、その後の「明治維新」への財政的背景にもつながります。
このシリーズ「鹿児島旅 その3」で書いた山川港の薬草園も活用したらしく、薬草研究も熱心で「質問本草」という書物にまとめてもいます。
こうした島津家の蘭学、つまり西欧、海外の学問や技術に深い関心を持つ姿に琉球使節も触れたに違いありません。琉球は薩摩藩と共にやっていくのだ、と諦観的な気分になったのでしょうか。極めて複雑な思いだったかもしれません。
などと考えつつ、一杯やりに天文館にある居酒屋へ。
鰹のタタキ。もう「初鰹」は過ぎていますが新鮮です。脂が少なく鰹の旨味も程よく。
鰹は昔から食べられていた魚ですが、古くは生食はあまりせず加工していたようです。鰹節やタタキはこの名残でしょう。
「堅い魚」という意味の「かつ・うお」という説が有力。
鹿児島も北上して成長していく鰹の漁場の一つ。薩摩藩の頃からも食されていたのは間違いなく、琉球での鰹よりは旨味が増した九州の鰹を使節も食したでしょう。
それに合わせたのは、焼酎であったか、どうか。
日本酒とは違う焼酎の「蒸留」技術は15世紀にはタイから琉球に伝わっていたといいます。
鹿児島には「伊佐市の郡山八幡神社では、1559年(永禄2年)に補修した際の、大工が残した落書き」があり、その内容は
「焼酎も振る舞ってくれないけちな施主」(笑)
と書いてあるそうです。
16世紀には薩摩にも焼酎はあったということです。
ただし芋焼酎は1705年の「前田利右衛門」による「芋」の薩摩上陸以降ですから18世紀を待たねばなりません。
▲「天保年間鹿児島城下絵図」の片隅に描かれている「花見をする琉球人」の絵図。(鹿児島市立美術館 蔵)
三線(のようなもの)を弾き、踊る人も見えます。横の説明書きには「酔(って)踊(る)」の文字も。
19世紀に書かれた絵図ですから、芋焼酎だったのか、琉球の泡盛だったのか。恐らくは琉球館に詰める親方(うぇーかた)連中なのでしょう。
先ほどの居酒屋では、焼酎は各自の目の前に置いてあり「焼酎飲み放題 五百円」との札がありました。かなり飲んで食べて酔いましたが、支払いのお値段も三千円でお釣りが来るほど。従って飲み過ぎには気をつけたいものです。
ほどほどにして宿に戻りましょう。
明日はまた遠出しなくてはなりませんから。
ではまた。
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琉球使節の足跡を訪ねる おわり
この絵図を広島県福山市の鞆の浦で見たことが一つのきっかけで始まった「琉球使節の足取りを訪ねて 鹿児島旅」。
琉球館や山川港を訪ねて琉球使節の足跡をたどり、鹿児島市立美術館で色々な情報と資料をいただき、いよいよこの絵図が描かれた川内市に向かいます。
鹿児島に居るのは今日が最終日、ということもあるし、レンタカーは昼までには返さないといけないために、かなり早起きしてチェックアウト。
▲鹿児島市内の市電。少し広島とは趣違いますね。
朝ごはんをゆっくりなんて時間もないので鹿児島市内のコンビニでサンドイッチと飲み物を買って西を目指します。
江戸上り途中の「潮待ち」で琉球使節が福山市鞆の浦に立ち寄り、そのなかの若い楽士「向生」(しょうせい)が病気で亡くなったために立派な墓碑がたてられています。
▲丁寧に葬られた様子が伺えます。
さて、あの白黒の帆掛船の絵図が本当ならこの鞆の浦にも薩摩の船で入港したことになります。
瀬戸内海に薩摩の船団が90艘も浮かび、琉球使節を運んだということです。
▲なんてことを考えつつ、このようなルートで有料自動車道(南九州自動車道)を約1時間ほど走らせますと川内市に着きます。
この鹿児島城下から川内までの琉球使節の足取りも気になります。
川内市(せんだいし)にはあの川内原発があります。この写真は火力発電所。この幅が広い川内川は昔から薩摩藩の軍港でした。
▲古い「水神」碑が川のほとりに。
秀吉の朝鮮出兵(侵略)に参加する薩摩の船団も一万人以上の兵士を乗せて久見崎港(川内川の左岸。つまりこちら側)から出兵しました。
この朝鮮出兵への琉球の貢献度の低さも薩摩藩による琉球侵攻の口実にあげられます。その久見崎港から出港した琉球使節の複雑な思いも察することができます。
歴史も古い軍港、久見崎港には多くの史跡があります。
久見崎港は、昔から薩摩藩の船大工が住み、港には船を製造し、修理するドックのようなもの、などがありました。ここは近年埋め立てられてしまいこの看板だけが掲示されています。
前にも紹介しましたが、戦後発見された「杇木(おうてき)家造船資料」と呼ばれるもの。久見崎で代々薩摩藩の船大工をしてきた家の貴重な資料が残されていたのです。
その資料を分析すると、あの絵図の一艘、一艘の名前、大きさなどがわかり絵図の分析と合わせると
▲琉球使節は、後方の10艘の船に分乗していることがわかりました。
さらに、あの絵図が出港を描いたものならば右に向かって居るので川内川の右岸から描かれたことになります。
▲綺麗な松林から川内河口を眺める。
川内市歴史資料館の館長さんともお電話でお話し聞かせていただきましたが、右岸なのか左岸、つまり久見崎港側からなのかは不明だとのこと。
(Googleの地図に書き込み)
少しまとめてみます。
▲「江戸上り」と言われた琉球から江戸に向かうルートを図解してみました。
「上り口説」(ぬぶいくどぅち)には山川港に入る直前の左手に「開聞岳」、前方に桜島が見えるところまでが歌われています。
初夏の頃に那覇港を出港した琉球船団は真南風(まふぇーかじ)を後ろから受けながら「道の島々」(「上り口説」)を眺めつつ順調に航海を進め、やがて山川港に入り、「船調べ」を受けた琉球船団は鹿児島城下に向かいます。
そこで「琉球船の目印松」を目当てに「行屋の浜」(じゅやぬはま;「下り口説」にあり。)で船を降り、「琉球館」へ。
「行屋」は現在のJR鹿児島駅前あたりになります。
琉球館で二、三ヶ月滞在したでしょうから、この琉球船のすぐ右側にある「芝居小屋」で行われていた「人形浄瑠璃」や「能」などを堪能していたのだろうと思います。彼らはそれも仕事のうちでしたから。大和文化の吸収。
九月に薩摩を出港するために鹿児島城下から、おそらく薩摩藩の護衛や引率の役人、武士らとともに陸路を一日ほどかけて川内、久見崎港まで。まだ暑い時期だったことでしょう。
(沖縄県史ビジュアル版8 近世より)
久見崎からは江戸上りの時期によって停泊する港も変わっているようです。
九州北西部の港伝いに北上した薩摩船団は下関から瀬戸内海へ。瀬戸内海から大坂(現在の大阪)に到着。
そこから淀川を遡上して伏見まで行きました。しかしあの薩摩藩の船団は多くが大型の船であるので川舟に乗り換える必要があるのです。
こんな絵図が巻物として存在していました。
(「中山王来朝図」より)
見えづらいですが上に「賀慶使便乗艇 山口藩」とあります。
正面には「中山王府」「賀慶正使」つまり琉球使節の「正使」が乗っているのです。後ろには山口藩の旗印が見えます。
他にも薩摩藩の船はもちろん廣島藩などの船もあり、それらは帆が無い川舟でした。
こうやって周囲の藩も便乗して琉球使節を江戸に送り出すシステムだったことがわかります。
(「琉球人来朝之図」国立国会図書館蔵)
そして陸路では、薩摩藩からの要請(命令)で中国風の衣装を着けて路地楽(るじがく)を演奏する琉球使節の楽士たち。
薩摩藩は外国、琉球を「従えている」と江戸までの道々で示したかったようです。
このあたりは今回鹿児島への旅で得られたものの範囲を少し超えてしまいましたが、これまでの琉球使節が江戸上りで辿ったルートと、その姿のイメージがはっきりとしてきました。
私なりの薩摩と琉球との関係についてのイメージも固まってきたかのようにも思います。
中国との関係も維持しつつ薩摩藩、幕府の「江戸上り」の要請にも応じ、吸収するものは吸収をする。
「日琉同祖論」を唱えた羽地朝秀や、その後を継いた蔡温などの政治は、強大な薩摩藩の影響を意識しつつ、中国との関係も維して琉球王府の支配を維持しようとしたものでした。
他方で薩摩藩からの重い貢租(琉球の財政の三分の一に匹敵)については人頭税で厳しく先島などから徴収することで乗り切っています。
薩摩との関係は深めざるを得ない舵取りを、積極的にしてきた琉球王府の姿も見て取れます。
一泊二日でまだまだ見ていない部分もたくさんあるようです。
次回もし行けるならもう少し詳しく琉球使節の顔が見えるようにあちこち巡ってみたいと思いました。
最後までお読みくださってありがとうございます。
(鹿児島弁で、よくおいでくださいました!)
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アカバンタ
あかばんた
語句・あかばんた 沖縄県南城市佐敷手登根にある丘の上にある広場の名前。「はんた」は「端。はしっこ」「崖のふち。また崖」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。崖に面した場所を指す。昔は「毛遊び(もーあしび)」という青年男女の交遊が行われた。
【作曲 宮城鷹夫 作詞 松田弘一】
(歌詞は1〜3は佐敷手登根の歌碑から、4は筆者CDから聴き取り)
《歌詞、その読み方、簡単な発音記号('は声門破裂音)、そして意味。語句の説明と続く》
一、 むかし名にたちゅる 野遊のハンタ 佐敷手登根のアカバンタやしが 云語れやあても (今の世になれば 恋の枯れ草に 歌声だけ残て)
んかしなーにたちゃる もーあしびぬはんた さしちてぃどぅくんぬ あかばんたやしが いかたれやあてぃん (なまぬゆーになりば くいぬかりくさに うたぐぃだきぬくてぃ)
Nkashi naa ni tachuru mooashibi nu haNta sashichitidukuN nu 'akabaNta yashiga 'ikataree ya 'atiN (nama nu yuu ni nariba kui nu karikusa ni 'utagwi daki nukuti)
【括弧は繰り返しなので以下省略する】
◯昔有名だった毛遊びをした崖のふち 佐敷手登根のアカバンタであるが 男女の契りはあっても今の世になれば 恋の(終わったかのような)枯れ草に歌声だけが残っている
語句・なーにたちゅる 有名な。・いかたれー 「男女の契り。男女の語らい。」【沖辞】。「い」は「云」の当て字がされるが「美称の接頭辞。名詞に付き、意味に特別な価値を添える」【沖辞】とある。「かた」は「語らい」の意味だけでなく「仲間になる」とい意味を含む。「味方」の「かた」と同じ。
二、 三線小ぬ弦に 恋の歌かけて 肩抱ちゃいともて 思い寄る二才小 うり振たるあば小 今の世になれば 恋の枯れ草に 歌声だけ残て
さんしんぐゎーぬ ちるーに くいぬうたかきてぃ かただちゃいとぅむてぃ うみゆゆるにせーぐゎー うりふたるあばーぐゎー
saNshiN gwaa nu chiruu ni kui nu 'uta kakiti katadachai tumuti 'umi yuyuru niseegwaa 'uri hutaru 'abaagwaa
◯三線の弦に恋のウタをのせて 肩を抱こうと思って愛を寄せる青年 それを振った姉さん
語句・ちるー 弦。元は植物の「ツル」から。・にせーぐゎー「にせー」は青年、の意。南九州地方の方言「にせ」と共通。・あばーぐゎー 姉さん。「姉。ねえさん。農村で用いる語。」
三、 マガイ小の遊び アカバンタ遊び 手さじ小や肩に ひっかけてからに ちやねることなたが 今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て
まがいぐゎーぬあしび あかばんたあしび てぃーさじぐゎーや かたに ひっかきてぃからに ちゃねるくとぅなたが
magaigwaa nu 'ashibi 'akabaNta 'ashibi tiisaji ya kata ni hikkakiti karani chaaneeru kutu nata ga
◯マガイ小での遊び、そしてアカバンタでの遊び 手ぬぐいを肩にかけてどんなことになったやら
語句・まがいぐゎー アカバンタの北西に位置する海岸に近い場所を指す。地名では仲伊保。つまりアカバンタとマガイ小と二ヶ所が大きなモーアシビの場所だった。・ちゃーねーる (ちゃー)どんな(ねーる)ように。
四、 アカバンタひらん マガイ小ぬあとぅん 毛遊びぬ花や 松んかりはてぃてぃ みるかたやねさみ 今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て
なまぬよになりば
'akabaNta hiraN magai gwaa nu 'atuN mooashibi nu hana ya machiN karihatiti mirukata ja neesami
◯アカバンタの坂もマガイ小の跡も モーアシビの花(女性)も松(男性)も枯れ果てて みる所もないのだ
語句・ひら 坂。古事記でも「比良」という。・さみ 「…なのだぞ。…なんだよ。」【沖辞】。ねー(ない)さみ(のだよ)。
【歌碑にある琉歌より】
アカバンタ坂や手登根の腰当て 花も咲き美らしゃ島も清らしゃ
あかばんたひらや てぃどぅくんぬ くさでぃ はなんさちじゅらさ しまんちゅらさ
'akabaNta hira ya tidukuN nu kusadi hana N sachijurasa shima N churasa
◯アカバンタの坂は手登根の後ろにある聖地 花も咲いて美しい 村も清らかだ
語句・くさでぃ 当て字は「腰当て」とあるように、「くし」は背中や腰を指している。後ろ側という意味でも使われる。沖縄では昔から「◯◯やくさでぃ たぶくめーなち」と言い、村の後ろ側に高い丘や山があることで豊かな水が得られて、その前にある田んぼでは豊作となる、という考えがある。理にも叶っている。その聖地を守るように御嶽が麓に置かれていたりする。高台はハンタと呼ばれ、若者たちのモーアシビの舞台ともなった。つまり「くさでぃ」は聖地とも言い換えられる。
(解説)
「アカバンタ」は手登根出身の宮城鷹夫さんが作詞され民謡歌手の上原正吉さんが歌っている。
明治末期まで続いたモーアシビは地元の青年たちの文化活動と自由な恋愛を支えた。そのモーアシビが行われた記憶を残そうと地元の有志の方々が中心となって、2017年にアカバンタの歌碑を完成させた。
モーアシビは「毛遊び」とか「野遊び」と当て字がされるが、「もー」というのは耕作地ではない草むらのこと。本ブログにおいて、本部ミャークニーや今帰仁ミャークニーの解説で繰り返し書いたように、明治末期までは続いた村の青年たちの異性交遊の場であり、ウタが生まれた「文化の揺りかご」のような場所だったと言える。
多くはハンタと呼ばれる村の高台、崖の上などのような場所で、集落から少し離れていた。
月夜の晩に、草むらを踏みつけて場所を作り、酒や料理を持ち寄り、三線や太鼓があればそれを弾き叩き、歌い、踊ったという。ウタは交互に唄って、即興で歌詞をつける。上の句をあるものが歌えば、下の句を別のものが唄う。気に入ったもの同士で気持ちを確かめたりもしたと古老から聞いた。
アカバンタの歌詞では一番から三番にかけて、その様子がうたいこまれている。
そして現在はもうみられなくなったモーアシビへの郷愁感、惜別の想いが「今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て」という繰り返されるサビによって引き立っている。
四番は歌碑にはなく、上原正吉さんが唄うものからの採譜だが、その寂寞の想いを改めて歌い上げている。
現在はアカバンタは生い茂った木々を整理して広場のようになっている。
地域のイベントとして「モーアシビ」を再現するようなものも行われているようである。
「マガイ小ぬ遊び」がわからず南城市の教育委員会からアカバンタ有志の会の方にお電話をさせていただいた。上にあるようにアカバンタ以外のモーアシビの場所だということだった。
実際にアカバンタの歌碑がある場所に皆さんも足を伸ばして欲しい。この歌碑と見える景色とで、そこで繰り広げられたモーアシビの昔の姿が見えてくるかもしれない。
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アカバンタ
あかばんた
あかばんた
'akabaNta
語句・あかばんた 沖縄県南城市佐敷手登根にある丘の上にある広場の名前。「はんた」は「端。はしっこ」「崖のふち。また崖」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。崖に面した場所を指す。昔は「毛遊び(もーあしび)」という青年男女の交遊が行われた。
【作曲 宮城鷹夫 作詞 松田弘一】
(歌詞は1〜3は佐敷手登根の歌碑から、4は筆者CDから聴き取り)
一、 むかし名にたちゅる 野遊のハンタ 佐敷手登根のアカバンタやしが 云語れやあても (今の世になれば 恋の枯れ草に 歌声だけ残て)
んかしなーにたちゃる もーあしびぬはんた さしちてぃどぅくんぬ あかばんたやしが いかたれやあてぃん (なまぬゆーになりば くいぬかりくさに うたぐぃだきぬくてぃ)
Nkashi naa ni tachuru mooashibi nu haNta sashichitidukuN nu 'akabaNta yashiga 'ikataree ya 'atiN (nama nu yuu ni nariba kui nu karikusa ni 'utagwi daki nukuti)
【括弧は繰り返しなので以下省略する】
◯昔有名だった毛遊びをした崖のふち 佐敷手登根のアカバンタであるが 男女の契りはあっても今の世になれば 恋の(終わったかのような)枯れ草に歌声だけが残っている
語句・なーにたちゅる 有名な。・いかたれー 「男女の契り。男女の語らい。」【沖辞】。「い」は「云」の当て字がされるが「美称の接頭辞。名詞に付き、意味に特別な価値を添える」【沖辞】とある。「かた」は「語らい」の意味だけでなく「仲間になる」とい意味を含む。「味方」の「かた」と同じ。
二、 三線小ぬ弦に 恋の歌かけて 肩抱ちゃいともて 思い寄る二才小 うり振たるあば小 今の世になれば 恋の枯れ草に 歌声だけ残て
さんしんぐゎーぬ ちるーに くいぬうたかきてぃ かただちゃいとぅむてぃ うみゆゆるにせーぐゎー うりふたるあばーぐゎー
saNshiN gwaa nu chiruu ni kui nu 'uta kakiti katadachai tumuti 'umi yuyuru niseegwaa 'uri hutaru 'abaagwaa
◯三線の弦に恋のウタをのせて 肩を抱こうと思って愛を寄せる青年 それを振った姉さん
語句・ちるー 弦。元は植物の「ツル」から。・にせーぐゎー「にせー」は青年、の意。南九州地方の方言「にせ」と共通。・あばーぐゎー 姉さん。「姉。ねえさん。農村で用いる語。」
三、 マガイ小の遊び アカバンタ遊び 手さじ小や肩に ひっかけてからに ちやねることなたが 今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て
まがいぐゎーぬあしび あかばんたあしび てぃーさじぐゎーや かたに ひっかきてぃからに ちゃねるくとぅなたが
magaigwaa nu 'ashibi 'akabaNta 'ashibi tiisaji ya kata ni hikkakiti karani chaaneeru kutu nata ga
◯マガイ小での遊び、そしてアカバンタでの遊び 手ぬぐいを肩にかけてどんなことになったやら
語句・まがいぐゎー アカバンタの北西に位置する海岸に近い場所を指す。地名では仲伊保。つまりアカバンタとマガイ小と二ヶ所が大きなモーアシビの場所だった。・ちゃーねーる (ちゃー)どんな(ねーる)ように。
四、 アカバンタひらん マガイ小ぬあとぅん 毛遊びぬ花や 松んかりはてぃてぃ みるかたやねさみ 今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て
なまぬよになりば
'akabaNta hiraN magai gwaa nu 'atuN mooashibi nu hana ya machiN karihatiti mirukata ja neesami
◯アカバンタの坂もマガイ小の跡も モーアシビの花(女性)も松(男性)も枯れ果てて みる所もないのだ
語句・ひら 坂。古事記でも「比良」という。・さみ 「…なのだぞ。…なんだよ。」【沖辞】。ねー(ない)さみ(のだよ)。
【歌碑にある琉歌より】
アカバンタ坂や手登根の腰当て 花も咲き美らしゃ島も清らしゃ
あかばんたひらや てぃどぅくんぬ くさでぃ はなんさちじゅらさ しまんちゅらさ
'akabaNta hira ya tidukuN nu kusadi hana N sachijurasa shima N churasa
◯アカバンタの坂は手登根の後ろにある聖地 花も咲いて美しい 村も清らかだ
語句・くさでぃ 当て字は「腰当て」とあるように、「くし」は背中や腰を指している。後ろ側という意味でも使われる。沖縄では昔から「◯◯やくさでぃ たぶくめーなち」と言い、村の後ろ側に高い丘や山があることで豊かな水が得られて、その前にある田んぼでは豊作となる、という考えがある。理にも叶っている。その聖地を守るように御嶽が麓に置かれていたりする。高台はハンタと呼ばれ、若者たちのモーアシビの舞台ともなった。つまり「くさでぃ」は聖地とも言い換えられる。
(解説)
「アカバンタ」は手登根出身の宮城鷹夫さんが作詞され民謡歌手の上原正吉さんが歌っている。
明治末期まで続いたモーアシビは地元の青年たちの文化活動と自由な恋愛を支えた。そのモーアシビが行われた記憶を残そうと地元の有志の方々が中心となって、2017年にアカバンタの歌碑を完成させた。
▲手登根にあるアカバンタの歌碑。
モーアシビは「毛遊び」とか「野遊び」と当て字がされるが、「もー」というのは耕作地ではない草むらのこと。本ブログにおいて、本部ミャークニーや今帰仁ミャークニーの解説で繰り返し書いたように、明治末期までは続いた村の青年たちの異性交遊の場であり、ウタが生まれた「文化の揺りかご」のような場所だったと言える。
▲歌碑の周りは、草が刈られ、今にでもモーアシビのウタが聞こえてきそうだった。
多くはハンタと呼ばれる村の高台、崖の上などのような場所で、集落から少し離れていた。
月夜の晩に、草むらを踏みつけて場所を作り、酒や料理を持ち寄り、三線や太鼓があればそれを弾き叩き、歌い、踊ったという。ウタは交互に唄って、即興で歌詞をつける。上の句をあるものが歌えば、下の句を別のものが唄う。気に入ったもの同士で気持ちを確かめたりもしたと古老から聞いた。
アカバンタの歌詞では一番から三番にかけて、その様子がうたいこまれている。
そして現在はもうみられなくなったモーアシビへの郷愁感、惜別の想いが「今の世になれば 恋の枯れ草に歌声だけ残て」という繰り返されるサビによって引き立っている。
四番は歌碑にはなく、上原正吉さんが唄うものからの採譜だが、その寂寞の想いを改めて歌い上げている。
現在はアカバンタは生い茂った木々を整理して広場のようになっている。
地域のイベントとして「モーアシビ」を再現するようなものも行われているようである。
「マガイ小ぬ遊び」がわからず南城市の教育委員会からアカバンタ有志の会の方にお電話をさせていただいた。上にあるようにアカバンタ以外のモーアシビの場所だということだった。
実際にアカバンタの歌碑がある場所に皆さんも足を伸ばして欲しい。この歌碑と見える景色とで、そこで繰り広げられたモーアシビの昔の姿が見えてくるかもしれない。
▲Google mapに大まかな場所を書き込んだ。アカバンタの歌碑は見つかりにくい。「カフェくるくま」の看板の近くにチェーンが張られた場所があり、そこから入っていく。地元の方に聞くのが一番なので手登根公民館や教育委員会に尋ねると良い。
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門たんかー
門たんかー
じょーたんかー
jootaNkaa
◯門向かい
語句・じょー 普通は家の「門」。他に「広い道路」「馬場」などの意味があるが、ここでは家の門で良い。・たんかー 「真向かい。正面」(【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)
作詞・作曲 知名定繁
一、門たんか美ら二才小やしがよ 七門八門越ちん縁ど選ぶ
じょーたんかーちゅらにせーぐゎー やしがよ ななじょーやーじょーくちん いぃんどぅいらぶ
jootaNkaa chura niishee gwaa yashiga yoo nanajoo yaajoo kuchiN yiN du 'irabu
◯門(の)正面(の)美しい青年だけど(私は)七門八門越えた(程遠くの)縁こそ選ぶ
語句・くちん<くしゅん。「越す。越える」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。くち(連用形)。越して。+ん。も。「越えても」の意味。・いぃん 縁。「yiN」「ゐん」と発音する。「'iN」(いん)という発音では「犬」となる。・いらぶ 選ぶ。<いらぶん。選ぶ。
二、からじ小に一惚り 目眉小に一惚り がまく小に一惚り ちんと三惚り
からじぐゎーにちゅふり みーまゆぐゎーにちゅふり がまくぐゎーにちゅふり ちんとぅみーふり
karajigwaa ni chu huri miimayugwaa ni chu huri gamakugwaa ni chiNtu mii huri
◯髪の美しい人にひと惚れ 目眉の整った人にひと惚れ 腰つきが良い人にひと惚れ ちょうど三人に惚れて
語句・ちんとぅ 「ぴったり。きっちり。ちょうど」【沖辞】。・からじぐぁー 「からじ」は「琉装の際の女性の正式の髪型」【琉球語辞典(半田一郎)】。「ぐぁー」は「くぁー」から。「小」は①小さいもの②愛称③強意④卑称化、などの用法があり、ここでは②の愛称と理解することもできる。直訳すれば「からじの人」だが、「からじの美しい人」とする。「みーぐぁー」と言えば「目の小さな人」と言いうと今帰仁で伺ったが、「みーまゆーぐぁー」は前後の関連から「目眉の美しい人」と訳す。「がまく」は「腰、ウエスト」だから「腰つきが良い人」くらいか。
三、サーびんた小やたらち まーかいめがウマニよ 赤野原ちゃん小やっち忍びが
びんたぐゎーやたらち まーかいめーが 'うまにーよ 'あかぬばるちゃんぐゎー やっちーしぬびーが
biNtagwaa ya tarachi maakaimee ga 'umanii yoo 'akanubaru chaNgwaa yacchii shinubiiga
◯耳の前に髪を垂らして どこにいくのですか奥さん 赤野原・喜屋武のにいさんに忍んで会いに
語句・びんた「鬢。耳の前に垂らした髪。また、顔のその部分」【沖辞】。・まーかいめーが どこに行くのですか?「まーかい」どこに?。+「めー」「行く」の敬語。+「が」疑問。・うまにー「兄嫁さん。または嫁に行ったねえさん。兄嫁・既婚の姉の総称。士族についていう。」「奥さん。既婚の士族の婦人の総称。」【沖辞】。ここでは「奥さん」にする。・やっちー にいさん。血縁関係がなくても使う。・が 「に。…するために。…しに。動詞の連用形に付く。」
四、我んね門に立てて チョンチョンと雨にぬだち あきて入りることならんばすい
わんねじょーにたてぃてぃ ちょんちょんとぅあみにんだち あきてぃいりるくとーならんばすい
waNnee joo ni tatiti chooNchooN tu ‘ami ni Ndachi ‘akiti ‘irirukutoo naraNbasui
◯私を門に立てて チョンチョンと雨に濡らせて 扉を開けて入ることはならないわけか
語句・んだち 「んでぃゆん」濡れる。「あしゅん」をつけると「〜させる」と使役になる。「濡らす」は「んだしゅん」となり、連用形で「んだち」となる。・くとー 「ことは」〜ならない、というふうに否定的な事柄を強調するときに使う。「くとぅ」+「や」→融合して。・ばすい 〜なるわけか。「ばす」は「訳」「理由」。文末の「い」は疑問の助詞。
五、サー太田ばんた毛遊び唄声小や 田佐原チル小 三味線小弾ちゅせ よがりうさ小
'うふたばんた もう'あしび'うたぐぅいぐゎーや たさばるちるぐわー さんしんぐゎーふぃちゅせー よーがり'うさぐわー
'uhutabaNta moo'achibi 'utagwii gwaa ya tasabaru thirugwaa saNshiNgwaa hwicusee yoogari'usagwaa
○太田バンタ(崖)での毛遊びの唄声は田佐原ツルちゃん 三線(を)弾くのは痩せたウサちゃん
語句・バンタ <はんた。崖や崖のふち。昔からモーアシビの場に使われることが多い。・ふぃちゅせー 弾くのは。<ふぃちゅん。弾く。+し。の。+や。は。「せー」は、この「し」と「や」が融合した形。
六、さー大田坂通て 為なたみアバ小よ 足駄鼻切らち 損どぅなたんで
うふたびらかゆてぃ たみなたみ あばぐぁーよ あしじゃばな ちらち すんどぅなたんでぃ
‘uhutabira kayuti taminatami ‘abagwaa yoo ‘ashijabana chirachi suNdu nataNdi
◯大田坂を通って為になったか?姉さんよ 下駄の鼻緒が切れて損になったと
語句・うふたびら 具志川の大田にある坂の名前。坂は「ふぃら」。連濁で「びら」。・なたみ なったか? 「なる」の意味の「なゆん」nayuNの最後の「N」を「n」に変えて疑問の助詞「i」をつけたもの。・なたんでぃ なったと。なたん<なゆん。過去。+んでぃ。〜と。
七、からじ小てーげー小 目眉小んてーげー小 がまく小に我んね ちんと惚りて
からじぐわーてーげーぐゎー みーまゆぐわーんてーげーぐゎー がまくぐゎーにわんねーちんとぅ ふりてぃ
karaji gwaa teegeegwaa miimayugwaaN teegeegwaa gamakugwaa ni waNnee chiNtu huriti
◯髪が綺麗な人もまずまず 目眉の綺麗な人もまずまず(でも)腰くびれが魅力的な人に私はドンピシャ惚れて
語句・てーげーぐゎー 「大概」に対応したウチナーグチ。「大概。たいてい。おおよそ」「相当」【沖辞】というように、状況に応じて使い分けが効く言葉だ。思ったよりも状態が良くなくても、良くても使う。ここでは、しかし「まずまず」くらいにしておこう。
(コメント)
作者は知名定繁。知名定男の父。
出生地は具志川。幼少から三線を弾き、青年となって横浜や大阪へ。そして太平洋戦争中は筑豊で働き、戦後は兵庫県尼崎へ。そして沖縄に密航で戻り、民謡協会の設立や古典湛水流の研究なども手がけた。
この曲はナークニー系の毛遊びの唄で、知名定繁の生まれたシマ(里)のモーアシビの情景が歌いこまれているので「具志川小唄」という異名もある。
しかし、ナークニー系といっても琉歌形式のサンパチロク(8886文字)には厳密にはなっていない歌詞もある。
また「今帰仁ミャークニー」のように歌い出しが「サー」で始まり上ぎ吟(あぎじん)のような歌唱法もある。実に複雑な構造である。
上の歌詞は、七番を除いて、うるま市の知名定繁顕彰碑に掲示されている歌詞を取り上げた。
一番は、たとえイケメンであっても隣近所ではダメ、少し離れたご縁を選ぶ、と当時の女性の気持ちを表しているのだろうか。
二番、三番、飛んで五番は野外での芸能を交えた男女異性交流、すなわちモーアシビの情景が歌いこまれる。
四番は、女性の家に通ってきた男性が入れてもらえない恨み節。「通い婚」という婚姻が長く続いた沖縄ならではの情景。
六番は遠方のモーアシビに通った娘に何も得ることはなかっただろうと語りかける。
七番は二番との繋がり、対応を感じさせる歌詞だ。
若者たちのモーアシビや通い恋愛を軽く描いた歌詞ながらも、三線のテクも高く、歌い込みをしないと歌えない難曲の一つで、ウタ者たちは競ってこれを歌ったりもする。
知名定繁顕彰碑がうるま市の川田交差点にある。
非常に立派な歌碑であり、この方への多くの方の敬意の高さを物語る。
この「門たんかー」の歌詞も刻まれている。
ここに記された文章は以下の通りである。
「知名定繁の碑 「門たんかー」
「門たんかー」は、知名定繁作品百節を代表する節名である。
知名定繁は、大正5年、具志川村大田(現うるま市川田112番地)に生まれた。幼少にして歌三絃をよくし、仲喜洲尋常高等小学校高等科を卒業。20歳に関西へ。その間、琉球民謡の重鎮普久原朝喜と共に演奏活動をする傍ら創作に勤しんだ。昭和32年帰郷。
知名定繁は、琉球筝曲、殊に湛水流工工四編纂に深く関わり、その発刊の序文に、古典音楽家池宮喜輝師(明治19年~昭和42年)は、概要、次のように記している。
「昭和15年、湛水流師範中村孟順、古典音楽研究者世礼国男共著『声楽譜附工工四』の出現をみたが、今度更に中村孟順、箏研究家知名定繁両氏によって、湛水流筝曲工工四の上梓を見たことは、同流保存発展上、欣快に堪えない。中村・知名両氏は、筝曲工工四の原案が出来上がるや、その調閲を池宮喜輝、幸地亀千代両氏と演奏。最良と判断し発刊に至った。」
知名定繁氏の作品は、一般に「定繁ぶし」と言われ、弟子筋のみならず、愛好者の定本となっている。また、人をそらさない人柄、語るような歌唱は聞く人の心をとらえてはなさず、代表作「門たんかー」と共に、その名も永遠に人々の心に刻まれるであろう。平成5年7月24日没。享年77才。
平成17年7月17日
知名定繁歌碑建立期成会
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谷茶前
谷茶前
taNcha mee
たんちゃめー
◯谷茶の前
語句・たんちゃめー 谷茶前の浜、が正式な呼び名である。「の浜」が省略されている。
一、谷茶前の浜に(よー)スルル小が寄ててんどー(ヘイ)(ナンチャマシマシ ディアンガ ソイソイ)
たんちゃめーぬはまに(よー)するるぐぁーがゆてぃてぃんどー(へい)(なんちゃましまし でぃー あんぐぁー そいそい)
taNchamee nu hama ni yoo sururugwaa ga yutitiN doo (hei naNca mashimashi dii aNgwaa soi soi)
◯谷茶(の)前の浜に きびなごが集まっているぞー
語句・するるぐぁ 「小魚の名。きびなご。体長10センチたらずで、かつおの釣り餌に用いられる」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・なんちゃましまし でぃあんぐぁーそいそい 囃し言葉。囃し言葉は拍子を揃えたりするものも多い。また昔の囃し言葉が伝搬する間に別の語句と入れ替わったりもする。この場合「なんちゃ」は「たんちゃ」と歌われる曲もある。「ましまし」は「むさむさ」とも。「でぃーあんぐぁー」は意味がはっきりしているので変化がほとんど見られない。「でぃー」は「さあ」であり、「あんぐぁー」は平民の「お姉さん」だ。「そいそい」は「やくしく」(約束)となったりもする。
二、スルル小やあらん大和ミズンど やんてんどー
するるぐぁーやあらん やまとぅみじゅんどぅ やんてぃんどー
sururugwaa ya 'araN yamatu mijuN du yaNtiN doo
◯きびなごではない ヤマトミズン(ニシンの一種)だぞ
語句・やまとぅみじゅん 鰯。「(奄美以南に分布する)鰯の一種」【琉球語辞典(半田一郎)】(以下【琉辞】)。
三、兄達や うり取いが あん小や かみてうり売いが
あふぃーたーや 'うりとぅいが あんぐぁーや かみてぃ'うり'ういが
'ahwiitaaya 'uri tuiga 'angwaaya kamiti 'uri 'uiga
◯兄さんたちはそれを採るために 姉さんたちは頭に乗せて売るために
語句・あふぃーたー 兄さん達。「あふぃー」は「平民の兄さん」。「あっぴー」とも言う。ちなみに士族は「やっちー」。・とぅいが 取りに。「が」は「〜しに」の意味。したがって、この後に「いちゅん」(行く)が省略されている。・かみてぃ頭に載せて。<かみゆん。 「頭上に載せる」【琉辞】。
四、うり売て戻いぬアン小が 匂いぬしゅらさ
'うり'うてぃもぅどぅいぬ 'あんぐぁーが にうぃぬしゅらさ
'uri 'uti mudui nu 'angwaa ga niwi nu shurasa
◯それを売って戻った姉さんの 匂いのかわいらしいことよ
語句・しゅらさ かわいらしいことよ!<しゅーらーさん。「かわいい」【琉辞】。形容詞の体言止め(〜さ)は「とても〜なことよ!」という感嘆の意味がある。
五、うり取ゆる島や 謝名と宇地泊
'うりとぅゆるしまや じゃな とぅ 'うちどぅまい
'urituyuru shima ya jana tu 'uchidumai
◯それを採る村は 謝名と宇地泊
語句・しま 「島」つまりアイランドではなく村などの地名を指す。・じゃなとぅうちどぅまい
(コメント)
沖縄は北部、西海岸の恩納村谷茶(たんちゃ)。そこに伝わる漁村ののどかな男女の風景を歌にしたもの。
明治初期に舞踊の名人といわれた玉城盛重が谷茶に伝わる古謡を元に振り付けをして人気を博した。
最初は女の手踊りだけだったが、やがて女がバーキ(竹籠)を、男がウェーク(櫂)を持って踊る雑踊り(ぞう うどい zoo udui)と言われる現在の型が生み出されて行く。
三線では三下げ(さんさぎ saNsagi)で、沖縄音階ほぼ100%の曲。
早弾きで、タッタタ、タッタタのリズムで弾くことで躍動感に満ちている。
(注意点)
・谷茶前 地名は「谷茶」のみで「前」は、「前の浜」(meenuhama)という慣用の語句。
・谷茶は恩納村と本部町にある。一般的には恩納村が発祥とされているが本部町だとする説もある。
・ヤマトミズン、ニシンの一種であるが、明治初期はこの部分は「スク」であったようだ(仲宗根幸市氏)
・三番、「うりとぅいが」「うりういが」のそれぞれの後に「いちゅん 'icuN」が省略されている。「・・を採り・・を売り」とリズム良く歌えるようにしてある。
・四番「しゅらさ」は舞踊曲の場合で、民謡では「ひるぐささ」(臭さ)であるという(仲宗根幸市氏 島うた紀行 第1集)
魚を一日中頭に乗せて売っていたら魚臭くなるでしょうね。
いろいろな歌詞もあるし、時代によりそれも変わる。
民謡の運命(さだめ)である。
人々の口を介して、いいものが残り、変えられてよいものになる。
時代の好みに合わせて変わり、人々は、よくないものは捨てていく。
捨てられたものは戻ってこない。
新しい歌詞が加えられて、元の姿は、見えなくなる。
谷茶前もそういう運命をたどり、今日私たちに、進化した姿を見せてくれるのである。
(歌碑)
昔の谷茶前の歌碑は、少しわかりにくい行きずらい場所にあった。
現在は浜の近くにできたという。(私自身はまだ見たことがないのでFacebookの友人からお借りした)
次回はこの歌碑の歌詞を取り上げたい。
(2018年2月11日 加筆修正)
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谷茶前 2
谷茶前
たんちゃめー
taNchamee
語句・たんちゃめー 谷茶前の浜、が正式な呼び名である。「の浜」が省略されている。
※歌詞は「琉球列島 島うた紀行 第1集」(仲宗根幸市編著)の「谷茶前」より。
一、谷茶前ぬ浜に スルル小が寄ててんどぅ(ヘイ) スルル小が寄ててんどぅ(ヘイ)
(ナンチャムサムサディアングヮソイソイ ナンチャマシマシ ディアングヮヤクスク)(括弧の囃子と繰り返しはは以下省略)
たんちゃめーぬはまに するるぐゎーがゆてぃてぃんどー
taNchamee nu hama ni sururu gwaa ga yutitiN doo
◯谷茶(の)前の浜に きびなごが集まっているぞー
二、スルル小やあらんよ 大和ミズンど やんてんどー(繰り返し略)
するるぐゎーやあらん やまとぅみじゅんどぅ やんてぃんどー
sururugwaa ya 'araN yamatu mijuN du yaNtiN doo
◯きびなごではない ヤマトミズン(ニシンの一種)だぞ
三、アヒー達やうりとぅいが アングヮやかみてうり売りが
あひーたーや うりとぅいが あんぐゎーや かみてぃうりういが
'ahiitaaya 'uri tuiga 'angwaa ya kamiti 'uri 'uiga
◯兄さんたちはそれを採るために 姉さんたちは頭に乗せて売るために
語句・あひーたー 兄さん達。「あふぃーたー」とも言う。
※三番までは前回の「谷茶前」とほぼ同じなので語句などはそちらを参照。
四、読谷山ぬシマから スルル小や買んそーらに
ゆんたんじゃぬしまから するるぐゎーや こーんそーらに
yuNtanja nu shima kara sururugwaa ya kooNsoorani
◯読谷の村から(来たが)キビナゴをお買いになりませんか
語句・ゆんたんじゃ 「読谷」は昔こう呼ばれた。「ゆんたんざ」とも。・からウチナーグチでは 「から」を①通過の場所(〜から)。②通行の場所(〜を)。③通行の手段(〜で)で用いる。【琉辞】。ここでは②の通貨の場所。読谷村を(歩いていて)こーんそーらに、と売り声をだした。・こーんそーらに お買いになりませんか。<こー。<こーゆん。買う。+んそーらに。<んそーゆん。=みそーゆん。〜してください。敬語。
五、谷茶大口スルル小 まぎさみふどぅいいとぅみ
たんちゃ うふぐち するるぐゎー まぎさみ ふどぅ ゐーとーみ
taNcha ‘uhuguchi sururugwaa magisami hudu wiitoomi
◯谷茶の大口のキビナゴは大きいか? 大きさは育っているか?
語句・うふぐち 谷茶の浜にあるリーフの名称。そこに裂け目があり、船などが往来した。・まぎさみ 大きいか?形容詞は、まぎさ(おおきさ)+ん<あん(あり)と言う構造になっているが、疑問文にする時は「N」(ん)を「m」にして疑問の助詞「i」をつける。・ふどぅ 大きさ。「背丈、身長」【琉球語辞典(半田一郎)】(以下【琉辞】)。・ゐーとーみ 成長しているか? <ゐーゆん 成長する。(「老いる」の意味もある。)→ゐーとーん (成長している)の疑問文。
六、むっちくーわ 姉小たー 一碗ちゃっささびーが
むっちくーわ あんぐゎーたー ちゅーまかい ちゃっささびーが
mucchi kuuwa ‘aNgwaataa chuu makai chassabiiga
◯持ってこいよ 姉さん達 お碗に一杯いくらしますか
語句・むっちくーわ 持ってこいよ。持ってきてよ。動詞「むちゅん」(持つ)の連用形(もって)は「むっち」、それに「ちゅん」(来る)の命令形「くー」(来い、来て)に「わ」(「や」の変化したもの。意味は「よ」)。・ちゅひとつ。・まかいどんぶり。茶碗。・ちゃっさ どれほど。値段を聞く時などの「いかほど」。・さびーが しますか?さ。<すん。する。+びー<あびーん。丁寧な「ます」。疑問文では「あびーが」となる。
七、うり売てぃ戻いぬ 姉小たーにういぬひるぐささ
うりうてぃ むどぅいぬ あんぐゎーたー にうぃぬ ひるぐささ
‘uri ‘uti muduinu ‘aNgwaataa niwi nu hirugusasa
◯それを売って戻った姉さん達の匂いのなんと生臭いことよ!
語句・むどぅいぬ 直訳では「戻っての〜」。戻った。・にうぃ 匂い。発音に注意。・ひるぐささ 生臭いことよ。<ひるぐささん。生臭い。形容詞の体言止めなので感嘆(なんと〜なことよ!)の意味。
谷茶前の原型を求めて
前回の本ブログで現在舞踊曲などで楽しまれている「谷茶前」の歌詞を検討したが、今回は舞踊曲になる前の民謡として親しまれていた頃の歌詞を検討する。「琉球列島 島うた紀行 第1集」(仲宗根幸市編著)に掲載されている歌詞である(「島うた紀行」にある「明治初期の歌詞」については次回検討する)。
雑踊りとしても民謡としても人気が高い「谷茶前」の歌詞にはいくつか相違点があることはよく知られている。
恩納村の谷茶村に伝承されていたこのウタを元に、明治初期に舞踊の名人といわれた玉城盛重が明治20年頃に振り付けをして那覇で人気を博したという(「琉球舞踊入門」宜保栄治郎著)。
そして人気を博した雑踊りの舞踊曲は出羽(んじふぁ;一曲目の入場曲)につかわれた「伊計はなり節」とともに多くの人々に愛され演舞されるうちに、より躍動的で楽しませるものに変化していった。
変化した点はまた明治期の谷茶前の歌詞を検討しながら見ていきたい。
現在の舞踊曲などの谷茶前では四番以降は例外を除いてあまり歌われない。
四番から五番までの歌詞が実に生き生きとした情景描写で民謡の本領を発揮しているように感じる。つまり魚を兄さんたちが獲って姉さんたちがそれを買い、他のシマに物売りに行くのだ。そしてこうしたやりとりがおこなわれる。
「谷茶の大口のスルル小は大きいか、育っているか?」と
それなら「じゃあ持って来てくれ、ひと椀でいくらだ?」
「そして儲けて帰ってきた娘らは頭に魚を乗せて売り歩いたから魚臭くなっていた」と。
恩納村から読谷村まで売りに歩いた様子がうかがわれる。そして谷茶の大口のスルル小は人気もあったのだろう。
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谷茶前 3
谷茶前(明治初期)
たんちゃめー
taNcha mee
※歌詞は「琉球列島 島うた紀行 第1集」(仲宗根幸市編著)の「谷茶前」より。
一、谷茶前の浜にスルル小が寄たぅたん なんちゃましまし
たんちゃめーぬはまに するるぐゎーが ゆとーたん なんちゃましまし
taNchamee nu hama ni sururu gwaa ga yutootaN naNcha mashimashi
◯谷茶(の)前の浜に きびなごが寄っていた なるほど 良い良い
語句・ゆとーたん 寄っていた。ゆゆん。寄る。→ゆとーん。寄っている。→ゆとーたん。寄っていた。語句・なんちゃ なるほど。<んちゃ。「なるほど。全く。ほんとに。はたして。予想にたがわず」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まし 「まし。一方よりまさること。一方より良いこと」【沖辞】。比較した結果の「まし」ではなく直に「良い。好き」という使い方もあるようだ。この歌詞でも何かと比較するものはない。だから「良い」とする。
二、スルル小やあらん まじく小どやんてんどぅ よくもましまし
するるぐゎーやあらん まじくぐゎーどぅ やんてぃんどー ゆくんましまし
sururugwaa ya 'araN majiku gwaa du yaNtiN doo yukuN mashimashi
◯キビナゴではない マジク(タイワンダイ、ヨナバルマジク。鯛の一種)だぞ もっと良い良い
語句・まじく タイワンダイ、ヨナバルマジク。鯛の一種。しかし「琉球列島 島うた紀行 第1集」(仲宗根幸市編著)の中で「あれはキビナゴでなくまじく(シク=アイゴの稚魚)だよ」と訳されている。これについては後述する。・ゆくん 「さらに。なお。もっと。一層」【沖辞】。
三、谷茶前の浜やスルル小も寄よい まじく小も寄よい でかよいかいか
たんちゃめーぬはまや するるぐゎーん ゆよーい まじくぐゎーんゆよーい でぃかよー いかいか
taNchamee nu hama ya sururu gwaaN yuyooi majikugwaaN yuyooi dikayoo ‘ika ‘ika
◯谷茶(の)前の浜に きびなごが寄ってきていて マジクも寄って来ていて さあ!行こう行こう
語句・ゆよーい寄ってきていて。<ゆゆん。寄る。・でぃかよー 「いざ。さあ。」【沖辞】。・いか 行こう。<いちゅん。行く。→いか。希望。呼びかけ。
四、でかよ押しつれて獲やい 遊ばすくて遊ば すくてとらとら
でぃかよーうしちりてぃ とぅやいあしば すくてぃあしば すくてぃとぅらとぅら
dika yoo ‘ushichiriti tuyai ‘ashiba sukuthi ‘ashiba sukuti tura tura
◯さあ、一緒に連れだって獲ったりして遊ぼう!すくって遊ぼう すくって獲ろう獲ろう!
語句・うしちりてぃ 一緒に連れ立って。・とぅやい獲ったり。<とぅゆん。獲る。・あしば 遊ぼう。希望。呼びかけ。・とぅら獲ろう。希望。呼びかけ。
五、月も照り清らさできゃよう押し列れて でかよでかでか
ちちんてぃりぢゅらさ でぃきゃよーうしちりてぃ でぃかよーでぃかでぃか
◯月も照って美しいことよ!さあ一緒に連れてさあ、さあさあ!
語句・ちちんてぃりぢゅらさ 月も照って美しいことよ!。「でかよ押しつれて」と共に琉歌にはよく使われる句である。・でぃかでぃか 「さあさあ。いざいざ。」【沖辞】。
谷茶前の原型を求めて
「谷茶前」には舞踊などで使われる歌詞以外にもいろいろな歌詞が存在していることは周知の通りである。
本ブログで取り上げた「琉球列島 島うた紀行 第1集」(仲宗根幸市編著)【以下「島うた紀行」と略す】には二つの「谷茶前」が紹介してあり、どちらも現在のものとは異なる点があるのだが、特に今回の「明治期の谷茶前」の歌詞は異なる点が多いだけでなく実に興味深いものがある。
「明治期の谷茶前」の特徴と気づき
①「島うた紀行」では二番が上掲の歌詞の三番となっている。上掲の二番の歌詞は一番の後に続いている。これが単なる誤植なのかどうかは不明だが、ここでは二番に「スルル小やあらん。。。」の歌詞を当てることにする。当時どのように歌われていたのか不明なので、歌詞の長さから判断した。
②「まじく小」を「スク」(アイゴ=エー小:エーグヮーの稚魚。刺身やスクガラスにする。)を意味する、と書かれている。これによって「島うた紀行」での谷茶前の解説では『明治初期の「谷茶前」は歌詞からして「シク」(スク)の歌であったことがわかる。原歌では「真じく小」であったが、「大和ミジュン」に改作されていく」(「島うた紀行」p145)とまで言いきられている。果たして「まじく小」は「スク」なのか。
現在ウチナーグチで「マジク」といえば「タイワンダイ」または「ヨナバルマジク」のことを意味する。つまり「鯛の一種」である。しかし「谷茶前で出てくる魚は群れる魚だ。鯛だとおかしい」という意見もあるだろう。確かにスクは群れる魚ではあっても、「谷茶前」は群れる魚の漁を歌ったものとは限らない。
「島うた紀行」でいわれるように「マジク」は「マ・シク」であり、地元では「スク」の呼び名であるという事なら話は別である。それについてはもう少し調べてみる必要はあるだろう。
③現在の舞踊曲としての谷茶前も明治初期のものも琉歌形式(8886文字の定型句)ではないところから、元歌は古い可能性がある。
④囃し言葉は、現在のもの(「ナンチャマシマシ ディーアングヮーソイソイ」または「タンチャマシマシ」や「ディアングヮーヤクスク」など)は歌詞の内容とは関係なく、後からつけられた(変えた)感があるが、明治期の囃子は歌詞に対応して意味がはっきり理解できる。
《囃子》 《意味》
「ナンチャ マシマシ」 (なるほど良い良い)
「ユクン マシマシ」 (もっと良い良い)
「ディカヨー イカイカ」 (さあ行こう行こう)
「スクティ トゥラトゥラ」 (すくって獲ろう 獲ろう)
「ディカヨーディカディカ」(さあ さあさあ)
「マシマシ」「イカイカ」「トゥラトゥラ」「ディカディカ」。いずれも二音節の畳語表現で素朴で率直だが、生き生きとした情景を囃子にしている。
一方これら明治期の囃子とは異なる現在の囃子も検討してみよう。
《囃子》 《意味》
「ナンチャン ムサムサ」 (なるほど 騒がしい?)
「ディーアングヮー」 (さあ、姉さん)
「タンチャマシマシ」 (谷茶騒がしい?)
「ディーアングヮーヤクシク」 (さあ姉さん 約束)
「ムサムサ」は「ムサゲーユン」(「賑やかに騒ぐ、ざわめく」【琉辞】)からきていると想像できる。明治期の囃子とは変わって付け加えらたり、長く変化させたり、リズムをより複雑にして面白く発展させたいるように見える。
「島うた紀行」に掲載された明治期の「谷茶前」の歌詞がどこからの出典なのかはわからないが、前回、前々回と本ブログで取り上げた歌詞などと比べても囃子は素朴で率直な点が特徴といえよう。それに対してよりリズム感をあげ面白く発展しているのが現在の「谷茶前」の囃子だと言える。
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安里屋ゆんた
新安里屋ゆんた
しんあさどやゆんた
語句・しん 「新」をつけるのは八重山民謡としての「安里屋ゆんた」などと区別するためである。・あさどや 元歌の「安里屋ゆんた」で最初に歌われる女性の屋号が「安里屋」だったことから。その名は「クヤマ」(1722ー1799年)で竹富島に実在したとされる。元歌の竹富島では「あさと」と読んで濁らない。・ゆんた 八重山で唄われるウタの形式の一つで仕事唄。長編の叙事詩が多い。「読み歌」から来ているという説がある。
作詞 星 克 作曲 宮良長包
1、(さー)君は野中のいばらの花か(さーゆいゆい)暮れて帰れば(やれほに)ひきとめる(またはーりぬ つんだらかぬしゃまよ)
(括弧の囃子言葉は以下省略。又発音も省略)
〇君(女性)は野に咲くイバラの花か 日も暮れてきたので帰ろうとすると引き止める 愛しいあなたよ
語句・さー囃子言葉。調子を整える。・ゆいゆい 囃子言葉。「ゆい」という労働形式で歌われたゆえんなのか、独自の意味があるのか不明。本土の民謡の「よいよい」と似ている。・やれほに 意味は「やれ ほんに」つまり「本当に」。「やれほんに」と歌っても間違いではない。・またはーりぬ 「また」は繰り返す時の囃子。「はーりぬ」は諸説あるが定説はない。「はり」が「晴れ」「ハレの日」との関連があるという説がある。・つんだら<つぃんだら。かわいらしい。 かわいそうである。<つぃんだーさん。・かぬしゃま <かぬしゃー 「男性からいう女性の恋人。『愛(かな)しき人』の意。『かぬしゃーま』ともいう。」
2、嬉しはずかし浮名を立てて 主は白百合 ままならぬ
〇嬉しくもあり恥ずかしくもあるが 貴方との噂が立って 貴方はまるで白百合 わたしにはままならない
3、田草とるなら十六夜(いざよい)月夜 二人で気兼ねも 水いらず
〇田の草(雑草)を取るなら十六夜の月がいい 誰もいないので気兼ねもせず二人で居られる
4、染めてあげましょ 紺地の小袖 かけておくれよ情けのたすき
〇染めてあげましょう 貴女の小袖を紺地に だから 私の肩にかけておくれよ 愛のこもった手ぬぐいを
解説
【概要】
1934年9月、八重山の安里屋ゆんたを観光ソングとして改作したもので、現在「安里屋ゆんた」といえばこれを指す場合も多いが、元歌と区別するために「新・安里屋ゆんた」という場合もある。この歌詞には元歌の「クヤマ」も役人も出てこない。普通の恋歌である。
作詞をしたのは星克(1905ー1977年)。彼は石垣島の白保尋常高等小学校(現・石垣市立白保小学校)代用教員だった。作曲は宮良長包(1883ー1939年)。沖縄師範学校で音楽教師をしていた。この二人がコロンビアレコードの依頼で制作し、発表されたことで全国に広まった。戦争中は囃子の「つんだらかぬしゃまよ」を「死んだら神様よ」と戦争に都合よく歌い変えられるという悲しい時代もあった。
「新安里屋ゆんた」は標準語のウタであり、私のブログでは沖縄・琉球語の歌を主に解説してきたので取り上げてこなかった。しかし標準語とはいえ70年以上も前のウタとなると「意味がわかりにくい」という声も聞く。そこでわかりやすい意訳にもしながら解説することにする。
「安里屋」がついた八重山民謡は大きく分けると以下のようになる。(それぞれ「たるーの島唄まじめな研究」とリンクされているので詳しくはそちらを参照)
1、竹富島の安里屋ゆんた
2、石垣島などの安里屋ゆんた
3、八重山古典(節歌)としての安里屋節
4、琉球古典としての安里屋節(早弾き)
5、新安里屋ゆんた
おそらく1、竹富島の安里屋ゆんたが一番古く、それが石垣島や古典、節歌へと形を変えていったと思われる。最も新しいのが「新安里屋ゆんた」ということになる。
【詳細の検討】
4番に加えて次の歌詞が付け加えられて歌われることもある。というより現在では5番までが普通となっている。
5、沖縄よいとこ一度はおいで 春夏秋冬緑の島よ
〇沖縄は良いところ 一度はいらっしゃい 一年中緑あふれる島だから
「新安里屋ゆんた」は標準語の歌詞ではあるが、琉球時代から続く風習を下敷きにした歌詞であり、決して現代の生活感覚からは導き出せない歌意も含まれているように思う。
1番から見ていこう。
例えば「暮れて帰れば(囃子)引き止める」の部分は男性が女性を訪ね、そして帰るという様子であるが、八重山諸島だけでなく琉球では古くから明治、大正期まで「通い婚」が行われていた。男性が女性の家に通い結婚した後も子どもができるまで通ったという婚姻制度だ。だがそれは夜のこと。「暮れて」とあるので昼間の逢瀬だ。そういう制度があったことを頭に入れて歌詞を理解することも無駄ではない。
2番に出てくる「主」とは「男性」のことを意味する。「白百合」とあるので女性と勘違いする方も少なくない。男性を「主」と呼ぶのは「男女差別」だという方の気持ちもわからないでもない。その場合は逆に「女性」だと解釈しても何の差し支えもないと思う。
3番
何故、田草をとるには十六夜の月夜がいいのか。十六夜とは当然十五夜の翌日の月のことであるが、一般に「満月より柔らかい明るさ」「少し遅れて出てくる」などが特徴。また十五夜の日は一日とともに御願(ウガン)が行われたり年中行事も多い。また十五夜の月夜にはモーアシビ(野外での青年たちの遊び)も行われた。十六夜はその翌日で作業も休日になることも歌詞を考える材料になる。
4番
紺地の着物は琉球時代、結婚した夫人の正装であり、そこから「紺地に染める」とは結婚を意味する。「情けのタスキ」とは八重山のミンサー織りの手ぬぐいを女性が男性に渡して、男性の求婚に応えたという歴史を反映している。したがって、男性が女性に向かって歌っていると解釈できる。
以上はあくまで筆者の「新安里屋ゆんた」の解釈である。
▲「新安里屋ゆんた」にクヤマさんは出てこないが、「安里屋」は使われている。クヤマさんに敬意を込めて、お墓の写真を掲載しておく。
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さらうてぃ口説
さら落てぃ口説
さらうてぃ くどぅち
sara 'uti kuduchi
〇新入り女郎の口説
語句・さらうてぃ 「あらたに女郎に身を落とした者」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。「さら」は「新しい」という意味の接頭語。「うてぃ」は「落ち」から。「新入り」と訳しておく。・くどぅち 室町・江戸時代に流行した「口説」(くどき)は歌舞伎、浄瑠璃などで情景や叙事、悲哀や恨みなどを一定のメロディーで繰り返して「説く」ものだったが、17世紀以降薩摩藩の琉球支配の時代に、それが琉球に伝わり七五調で大和言葉(のウチナーグチ読み)を使ったものになった。
唄三線 嘉手苅林昌
一、さてぃむ此ぬ世に 我んぐとぅる 哀りする人 またとぅ居み 先ぢや親子ぬ 名を隠ち
さてぃむ くぬゆに わんぐとぅる あわりするひとぅ またとぅうみ まじや うやくぬなゆかくち
satimu kunuyuu ni waNgutu ru 'awari suru hitu mata tu wumi maji ya 'uyaku nu na yu kakuchi
〇それにしてもこの世に私のように哀れな者が他にいるだろうか まずは親子の名前は伏せて
語句・さてぃむ 「なんとまあ」「それにしても」。古語の「さても」に対応。・ぐとぅる〜のように。「る」は「どぅ」で、強調。
二、口説に口説かば 聞ちみそり 生まり出ぢたや 首里御国 山川さかいぬ ゆかっちゅぬ
くどぅちに くどぅかば ちちみそり んまりんじたや しゅいうぇーぐに やまがーさかいぬ ゆかっちゅぬ
kuduchi ni kudukaba chichimisoori 'Nmari ’Njita ya shui ’weeguni yamagaa sakai nu yukkacchu nu
〇口説で説明するのでお聞きください 生まれた所は首里御国の山川境の士族の
語句・うぇーぐに 「[親国]御国。位の高い国を敬っていう語。首里以外のいなか、山原(janbaru)などからは、首里を敬ってsjui weeguni[首里親国]といった。」【沖辞】。・ゆかっちゅ「士族。」さむれー、とも言う。
三、産子真牛どぅ やいびしが 七ち頃から 苧繋ぢ 十ぬ年にや 加勢役ぬ
なしぐゎーもーしどぅ やいびーしが ななちぐるから うぅーちなぢ とーぬとぅしにや かしーやくぬ
nashigwaa mooshi du yaibiishiga nanachi guru kara uu chinaji too nu tushi ni ya kasiiyaku nu
〇我が子は真牛と申しますが七歳の頃から苧(うー)を繋ぎ 十歳の時には加勢役に
語句・なしぐゎー 自分が産んだ子供。ここでは我が子。・うぅーちなじ 芭蕉布を織る作業において、苧(うー)とは糸芭蕉から取り出した繊維だが、それを結んで繋ぐこと。芭蕉布の製造工程では「苧績み(うーうみ)」という。・かしーやく加勢、つまり手伝いをする役目。
四、糸ん掛きたい 布織たい 親ぬ手助きする内に 最早年頃 なりぬれば
いとぅんかきたい ぬぬうたい うやぬてぃだしき するうちに むはやとぅしぐるなりぬりば
'ituN kakitai nunu 'utai 'uya nu tidashiki suru 'uchi ni muhaya tushiguru nari nuriba
〇糸を掛けたり布を織ったり 親の手助けをするうちに 早くも年頃になったので
語句・かきたい掛けたり。「い」は標準語の「かけたり」の「り」に対応する。(例)「うたたい もーたい」(歌ったり踊ったり)。・なりぬりば なったので。口説は大和の影響を受けた形式なので日本語の古語「なりぬれば」(なったので)から。「ぬり」は「ぬれ」のウチナーグチ読み。
五、ねえとぅけえとぅぬ 夫持ちゃい 朝夕布織てぃ 暮らち居し 妻が働らち行く末ぬ
ねーとぅけーとぅぬ うとぅむちゃい あさゆーぬぬうてぃ くらちうし とぅじがはたらちゆくすいぬ
neetu keetu nu utu muchai 'asayuu nunu 'uti kurachi ushi tuji ga hatarachi yuku sui nu
〇似合いの夫を持って 一日中布を織って暮しており 妻が働く結末は
語句・ねーとぅけーとぅ「似合い。似たり寄ったり。同じ程度。甲乙なし。多くは程度が低い場合にいう。」
六、家内ぬたちばぬ ならんでぃち 夫や船乗い 思い立ち 互に働らち 銭金ぬ
ちねーぬたちばぬ ならんでぃち うとぅやふなぬいうむいたち たげにはたらち じんかにぬ
chinee nu tachiba nu naraNdiichi utu ya hunanui 'umuitachi tagee ni hatarachi jiNkani nu
〇家庭が安定しないと言って 夫は船に乗ることを思い立ち 二人で働いて銭金の
語句・ちねー 家庭。・たちば 下駄の二つの歯。<たちばー。「台に植えた二枚の歯をtacibaa(立歯)といったもの」【沖辞】。「家庭の立歯がならない」ということは「家庭が財政的に安定しない」こと。
七、不足ねんぐとぅ 暮ち居し 友ぬ誘いに 誘わりてぃ 芝居見物 いちゃびたが
ふしゅくねんぐとぅ くらちうし どぅしぬさすいにさすわりてぃ しばいちんぶち いちゃびたが
hushuku neeNgutu kurachi ushi dushi nu sasui ni sasuwariti shibai chiNbuchi 'ichabita ga
〇不足が無いように暮らしていて 友の誘いに誘われて芝居見物に行きましたが
語句・いちゃびたが 行きましたが。<いちゃ<いちゅん。行く。+あびら<あびーん。あびゆん。「・・します」の過去形。
八、戻てぃ役者ぬ 面影ぬ 目ぬ緒に下とてぃ 暮らさらん さらばさらばとぅ思切やい
むどぅてぃやくしゃぬ うむかじぬ みぬうーにさがとーてぃくらさらん さらばさらばとぅ うちみやい
muduti yakusha nu 'umukaji nu mii nu uu ni sagatooti kurasaraN saraba saraba tu 'umichiyai
〇家に戻って役者の面影が目の前にちらついて離れなくて暮らしていけないほど。それならばそれならばと意を決して
語句・みーぬうー「目の緒の意。文語ではminuu。次の句で用いる。〜ni sagayuN. まぶたに浮かんで離れない。目の前にちらついて離れない。」【沖辞】。・うー 「緒。結ぶためなどに物に取り付けたひも」【沖辞】。
九、うりから役者ぬ 某しとぅ 夜ぬ夜々ぐとぅ 腕枕 情きぬ糸に 繋がりてぃ
うりからやくしゃぬ なにがしとぅ ゆるぬややぐとぅ うでぃまくら なさきぬいとぅに ちながりてぃ
'uri kara yakusha nu nanigashi tu yuru nu yaya gutu 'udimakura nasaki nu 'itu ni chinagariti
〇それから役者の何某と毎夜毎夜と腕枕 情けの糸に繋がれて
十、船ぬ入る日ん 知らなそてぃ 此ぬ事 夫に聞かりやい あわり身を置く 処なく
ふにぬいるひん しらなそてぃ くぬくとぅうとぅにちかりやい あわりみゆうく とぅくるなく
huni nu 'iru hiN shiranasooti kunu kutu utu ni chikarijai 'awari mi ju uku tukuru naku
〇夫の船が入る日も知らないでいて そのことを夫に聞かれてしまい 可哀想に身を置くところも無く
十一、足にまかせて道端ぬ 露に袂や濡りなぎな 巡り巡りとぅ 後道ぬ
ひさにまかしてぃ みちすばぬ ちゆにたむとぅや ぬりなぎーな みぐりみぐりとぅ くしみちぬ
hisa ni makashiti michisuba nu chiyu ni tamutu ya nuri nagiina miguri miguri tu kushimichi nu
〇足の向くまま歩いて 道端の露に袂(たもと)を濡らしつつ巡り巡って裏街道の
語句・ひさ 足。「ふぃしゃ」ともいう。・なぎーな ・・ながら。・くしみち 文字通りの「後ろの道」ではなく「裏街道」、つまり表には出せない生き方。
十二、弁口かかてぃ 暮らちうし さら落てぃ真牛とぅ あざむかり 仲前立たちゅる 客までぃん
びんぐち かかてぃ くらちうし さらうてぃもーしとぅ あざむかり なかめーたたちゅるちゃくまでぃん
biNguchi kakati kurachi ushi sara 'uti mooshi tu 'azamukari nakamee tatachuru chaku madiN
〇口がうまい人に引っかかって暮らしていて 新入り真牛だと軽蔑され 表の入り口に立たされている客にまでも
語句・びんぐち 【沖辞】には「びんくー」としてあり、「[弁口]能弁。口が達者なこと」とある。・あざむかり <あざむちゅん。「あざける。軽蔑してかかる」【沖辞】。いわゆる「あざむく」は「ぬずん」という。・なかめー 「遊郭では表の入り口をいう」【沖辞】。
十三、さら落てぃ真牛や 居らんがや 云ゃリる言葉ぬ我が肝に ヒシヒシ当とてぃ 暮らさらん
さらうてぃもーしや うらんがや いゃりるくとぅばぬ わがちむに ひしひしあたとーてぃくらさらん
sara 'uti mooshi ya uraNga yaa yariru kutuba nu waga chimu ni hishihishi 'atatooti kurasaraN
〇「新入り真牛は居ないかね」といわれる言葉が私の胸にヒシヒシと当たって辛くて暮らしていけない
十四、あきよ身代ぬ 御千貫情きある客 御賜みそち 元ぬ士族になち賜り
あきよどぅしるぬ うしんぐゎん なさきあるちゃく たぼみそち むとぅぬさむれーになちたぼり
'akiyoo dushiru nu 'ushiNgwaN nasaki 'aru chaku taboomisoochi mutu samuree ni nachitaboori
〇なんてことだ!身請けの金千貫を情けがある客は下さい 昔の士族になってください
語句・あきよ 感嘆語。「ああ、あれー」など。・どぅしる 「身代金。人身売買の金。」【沖辞】。・うしんぐゎん 千貫というお金の単位に「御」が付いている。「しんぐゎん」は20円。「当時一日の労賃は1貫(2銭)」【沖辞】。・むとぅ 昔。・なちたぼーり なってくださいね。
十五、神や仏に 手ゆ合わち 寝てぃん覚みてぃん 肝念願 しちょてぃ暮らすし 与所知らん
かみやふとぅきに てぃーゆあわち にてぃんさみてぃん ちむにがん しちょーてぃくらすし ゆすしらん
kami ya hutuki nu tii yu 'awachi nitiN samitiN chimu nigwaN shichooti kurasushi yusu shiraN
〇神や仏に手を合わせ 寝ても覚めても心から御願いをして暮らすことを他人は誰も知らない
【 概要 】
嘉手苅林昌先生が歌うこのウタはCD「嘉手苅林昌 唄遊び」に収録されている。コロンビアレコードに残っている音源から作られたCDで、他にも「道輪口説」「束辺名口説」「高平良万歳」「久志の万歳」「八重瀬の万歳」などの曲も盛り込まれている貴重なCDだ。
さて「さらうてぃ口説」は士族の娘についてその父親が語っている。まじめな娘が機織りの手伝いをして成長し、何の不自由もなく結婚生活を送っていたのに、夫は船乗りの仕事に就き、出航している間に芝居役者と恋仲になり、それが夫に知られて家を追い出されて女郎に「転落」していく、その娘を身請けする金を客に無心するウタである。
口説について
琉球において「口説」が作られ始めたのはおそらく薩摩藩の琉球侵攻があった17世紀以降で、琉歌も同時期に確立していったと考えられる。「上り口説」が屋嘉比朝寄(1716-1775)の作品だと言われている(根拠不詳)のは、彼が若い頃薩摩藩に派遣され日本の謡曲や仕舞を学び、琉球に戻ってからは琉球古典を学んだからだ。つまり「口説」は本土の芸能を下敷きにした琉球文化の一つである。
この「さらうてぃ口説」が作られた時代はわからないが、この例のように士族の娘が遊郭に、というのは琉球時代末期の話だろう。
恩納ナビーと並んで称される吉屋チルーという琉球時代の女流詩人は読谷に生まれ8歳のとき那覇仲島へ遊女として身売りされた。このように大半が地方の貧困層、つまり士族以外の平民の娘が身売りさせられた。女郎は琉球では「ジュリ」と呼ばれた。遊郭は自治制度があり女性だけで管理され、ジュリアンマー(女郎の抱え親)と呼ばれる人々が母子関係を結び、歌や三線、舞踊などの芸事を教えていった。
遊郭は各地にあったが、尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設した。背景には薩摩藩からの指示があったと推測されるが、遊郭の管理を王府として行う事で風紀の乱れを防止しようとした。そして琉球王朝が廃藩置県で沖縄県となり、太平洋戦争で米軍によって空襲を受けるまで辻、仲島の遊郭は存在し続けたのである。
沖縄語辞典(国立国語研究所編)には「辻」の項でこうある。
「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」
本土人とは主に薩摩藩の役人で、中国人とは冊封使のことである。それ以外、商人なども含まれる。遊郭で展開された琉球芸能は表に出ることがほとんどなく記録も非常に少ない。それでも琉球古典音楽や舞踊、さらには地方の祭祀や芸能も含め、琉球芸能の重要な部分を構成していたと言われている。琉球王朝の文化である古典音楽も含め遊郭の中で展開された芸能との関わりは無視できない。
▲「琉球交易港図屏風」(浦添市美術館蔵)に、18世紀頃の辻の遊郭とジュリの姿が描かれている。
鳥居の左横の村が辻村で、その周囲の派手な着物をまとった人々がジュリだ。この図屏風にはあちこちに薩摩藩の船や武士が描かれている。当時の関係の深さをうかがい知ることができる。
この絵図の解説はここに詳しい。
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今帰仁ミャークニー
今帰仁ミャークニー
なちじんみゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。・みゃーくにー宮古の青年が歌うアヤグを聴いた今帰仁の青年が今帰仁で作り変えたという伝承があるウタ。故に「宮古根」「宮古音」「宮古ニー」などとも書かれる。沖縄本島で愛される様々なナークニーの原型とも言われる。
歌三線 平良正男氏
(2017年末にお借りしたテープから筆者聴き取り。今までの今帰仁ミャークニーとは手もウタも少し違うもの。歌詞、訳には平良哲男氏からアドバイスを頂いた)
1、他所目まどぅはかてぃ 三箇村通てぃ(ヨ)月ぬ抜ちゃがてぃる 戻てぃいちゅさ
[(ヨ)は囃し言葉なので以下省略。]
ゆすみまどぅ はかてぃ さんかむらかゆてぃ ちちぬぬちゃがてぃる むどぅてぃいちゅさ
yusumi madu hakati saNkamura kayuti chichi nu nuchagati ru muduti 'ichu sa
◯人目を忍んで三つの村に通って、月が雲を抜けて上がったころには戻っていくよ
語句・ゆすみ 「よそ目。人目。他人に見られること。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まどぅはかてぃ すきを見はからって。つまり「ゆすみまどぅはかてぃ」で「他人の目のすきを見はからって」。・さんかむら 玉城村・岸本村・寒水村のアサギで、三つの村の存在を示すものである。三つの村は、明治36年に合併され玉城村となり、同41年に字玉城と改称され、現在に至る。・ぬちゃがてぃる 雲を抜けて上がって。<ぬちゃがゆん。「抜けて上がる。抜けて上に出る」【沖辞】。+る<どぅ。こそ。
2、月や抜ちゃがてぃん なま鶏や鳴かん 夜明け星見らん時ゆでむぬ
ちちやぬちゃがてぃん なだとぅいや なかん ゆあきぶし みらんとぅちゆでむぬ
chichi ya nuchagatiN naada tui ya nakaN yuuakibushi miraN tuchi yu demunu
◯月が上がってもまだ今はニワトリは鳴かない 夜明け星が見えない時間であるから
語句・でむぬ 「…であるから。…なので」【沖辞】。・ゆあきぶし 明けの明星。金星。
3、恋ぬ邪魔すゆる 悪魔ふくら木や 何時枯りてくぃゆが 年や寄たさ
くいぬじゃま すゆる あくまふくらぎや いちかりてぃくぃゆが とぅしや ゆたさ
kui nu jyama suyuru 'akuma hukuragii ya ’ichi kariti kwiyu ga tushi ya yutasa
◯恋の邪魔をする悪魔のようなきりんそう(親のこと)は いつ枯れてくれるだろうか 年もとったよ
語句・ふくらぎ <ふくるぎ。「きりんそう。多年生草本。」【沖辞】。「魚を捕るために水中に投入する毒物。hukurugi(きりんそう)の茎・葉を切って乳状に液が出たところをそのまま水中に投入する」【沖辞】。ここでは子どもの恋の邪魔をする憎い親への例え。
4、約束やしちょてぃ あてぃぬねん里前 月や山ぬ端にさがるまでぃん
やくしくやしちょーてぃ あてぃぬねんさとぅめ ちちややまぬふぁにさがるまでぃん
yakushiku ya shichooti 'ati nu neeN satume chichi ya yama nu hwaa ni sagarumadiN
◯ 約束はしているのに 当てにならない貴方 月が山の端に沈むまでも来ない
5、無蔵がさたすたる 中城ぶじょや 黒髭小立てぃてぃ うとぅな なたさ
んぞが さた すたる なかぐしく ぶじょーや くるふぃじぐゎーたてぃてぃ うとぅななたさ
Nzo ga sata sutaru nakagushiku bujoo ya kuru hwiji gwaa tatiti ’utuna natasa
◯ 貴女が噂をした中城奉行は黒ひげを立てて大人になったよ
語句・さたうわさ。・ぶじょー 奉行。平良哲男さんは「巡査」と訳されておられた。・うとぅな 大人。
6、むしるかちゃ引ちゃい 里まちゅる裏座 里や花ぬ島 恋の遊び
むしる かちゃ ふぃちゃい さとぅまちゅる うらじゃ さとぅやはなぬしま くいぬあしび
mushiru kacha hwichai satu machiru ’uraja satu ya hana nu shima kui nu ’ashibi
◯ 筵をひいて蚊帳を吊って貴方を待つ裏座 貴方は遊郭へ行って恋の遊びでもしてるのか?
語句・むしる 筵。むしろ。い草、アダン葉などを編んで作る。布団の代わりに使用。・かちゃ 蚊帳。蚊帳は吊るすが「ふぃちゅん」(引く)と言った。・うらじゃ 裏座。寝間。・はなぬしま 遊郭やモーアシビの盛んなシマのことをそう呼んだ。
7、寄る年ぬまたとぅ若くならりゆみ ただ遊びみそり 夢ぬ浮世
ゆる としぬまたとぅわかくならりゆみ ただあしびみしょーり いみぬうちゆ
yuru tushi nu matatu wakakunarari yumi tada ’ashibi misyoori ’imi nu ’uchiyuu
◯ 寄る歳は 再び若くなれまい?ただお遊びください 夢のようなこの世を
語句・ならりゆみ なれるか?という疑問文だが、「いや、なれない」という反語表現を含む。
8、誠一筋に生ちち来ゃる我身の 神ぬお助けに あるが嬉しゃ
まくとぅ ひとぅしぢに いちち ちゃる わみぬ かみぬ うたしきに あるが うりしゃ
makutu hwitushiji ni ’ichichi chaaru wami nu kaminu ’utashiki ni ’aru ga ’urisha
◯ 誠実に生きてきた自分に 神のお助けがあることが嬉しい
語句・うたしき 「お助け」の文語表現。
(解説)
これまで取り上げてきた「今帰仁ミャークニー」の続きである。
このウタとの出会いは偶然だった。2017年12月に平良哲男さん宅にお邪魔したときに平良正男さんが録音された多くのカセットテープの中から九本ばかりをお借りした。そのカセットのケースには「平敷の与那嶺盛カマさん」と書いてあったので、私はその方の歌三線だと思い込んでいた。これまでの正男さんの手や節が違っていたからだ。しかし平良哲男さんが正男さんに確認すると正男さんの歌だということが確認できた。
これまでの今帰仁ミャークニーとの違い
・「中出じゃし(なかんじゃし)」と呼ばれる歌い出し。
・高く上がっている時間が一拍多い、つまり長い。
・前半と後半の間(まー)が短い。
・しかし全体の拍数は全く同じ。手も似ている。
などが挙げられる。
参考のために二つの工工四を比べて掲載しておく。
《これでの今帰仁ミャークニー》
《今回のもの》
拡大したものはコチラ
モーアシビに結びついた歌詞
歌詞を見てみよう。その多くがモーアシビを連想させる歌詞になっている。
昔のモーアシビの情景はどうだったのだろう。あるものが歌えば、誰かが歌で返す、いわゆる歌垣(ウタガキ)が行われた。その歌で愛を語らう者がいたり、互いを褒めたり、揶揄したり、また神を讃えたりして、いわば芸能を磨き、男女の想いも強くしていったという。また力自慢の者たちは相撲をしたり、賭け事をしたり、若者たちの自由な娯楽の場であった。
自分のシマ(村)だけでなく他シマに出かけていくこともあったようだ。
平良正男さんによると、シマからシマへ移動する時には必ずミャークニーを歌ったという。それは夜中の道の寂しさに負けないためもあるし、元気をつけたり、退屈をしのぐためでもあったという。何時間もあるくので歌詞は無数に覚えなければなかったそうだ。即興もあっただろう。シマのモーアシビに参加すればウタによる勝負もあっただろう。 そうしてウタが鍛えられてきたのだ。
そんなモーアシビは1940年代には姿を消した。日本の軍国主義の台頭と共に吹き荒れた「風俗改良運動」の中で徹底的に警察、青年団、村組織をあげて一掃されてしまった。
こうしたモーアシビの受難は、さかのぼれば薩摩藩が琉球を軍事的に制圧した17世紀以降強まっていた。琉球王府は薩摩藩にも上納する租税を強化するとともにモーアシビや女性たちの神遊び(シヌグ)などを制限し、自由恋愛ではなく家父長制の下で親が認めた結婚が主流となるようにした。モーアシビは仕事にも影響がある、家父長制にとってもよろしくない、というわけだ。
もう失われたモーアシビの情景。しかしウタは残っている。ミャークニーに限らずモーアシビから生まれ、育てられたウタは多い。その情景は消えてしまったのにウタが継承されるかどうかは非常に厳しい状況にある。歌い手も高齢化しテクニックの継承や新たな歌詞なども生まれてくることは難しいのだ。
「ウタのゆりかご」のようなモーアシビの情景を浮かび上がらせる今帰仁ミャークニーもまた歌い継いでいけるかどうかの瀬戸際にあると言っても過言ではない。平良正男さんの御子息の平良哲男さんは歌い継いでいかれようとされている。
私も微力ながらそれを応援するとともに広島でも歌っていきたいと思っている。
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辻千鳥
辻千鳥小
ちーじ ちじゅやー
chiiji chijuyaa
◯辻の千鳥節
語句・ちーじ 「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・ちじゅやー 小鳥を口語で「ちじゅい」と呼び、「浜千鳥」(はまちどぅり)という舞踊曲を俗に「ちじゅやー」と呼んだ。このウタはその「浜千鳥」を早弾き調に変え、辻の遊郭の尾類(女郎)をテーマにしている。「遊び千鳥」(あしび ちじゅやー)とも呼ばれることがある。
作詞 登川誠仁 (原曲は「浜千鳥」)
一、 尾類ぬ身や哀り 糸柳心 風ぬ押すままに靡ち行ちゅさ 無蔵ぬくぬ世界や かにん辛さ
じゅりぬみや あわり いとぅやなじぐくる かじぬうすままに なびち (なびち)いちゅさ んぞぬくぬしけや かにんちらさ
juri nu mii ya 'awari 'ituyanaji gukuru kaji nu 'usu mamani nabichi 'ichusa Nzo nu kunu shikee ya kaniN chirasa
(括弧の繰り返しは以下略す)
◯女郎の身は哀れなものだで糸柳のよう 風が吹くままなびいていくよ。貴女のこの世界はこんなにも辛いことよ。
語句・じゅり 「女郎。遊女。娼妓。歌も歌い、三味線も弾くので芸者を兼ねている。」【沖辞】。 ・いとぅやなじ 「糸柳。しだれ柳」【沖辞】。 ・ぐくる <くくる。心。「〜のように」と言いたい時に使う。 ・んぞ 「男が恋する女を親しんでいう語」【沖辞】。 ・かにん かようにも。
二、 枕数交わす 尾類ぬ身ややてぃん 情きある枝る頼てぃ 頼てぃ咲ちゅる 思るままならんくぬ世界や
まくらかじかわす じゅりぬ みややてぃん なさきある ゐだる たゆてぃ さちゅる うむるまま ならんくぬしけや
makura kaji kawasu juri nu mii ya yatiN nasaki 'aru yida ni tayuti sacyuru umurumama naraN kunu shikee ya
◯枕数交わす 尾類の身であっても 情けある枝だけを頼って咲く。思うままならないこの世界は。
語句・まくらかじかわす 多くの客と接する。 ・る こそ。「どぅ」と同じ。「d」と「r」が入れ替わることがよくある。
三、 稲ぬ穂んあらん 粟ぬ穂んあらん やかりゆむどぅやが かかい しがい 連りなさや 世界ぬなれや
んにぬふんあらん あわぬふんあらん やかりゆむ どぅやが かかい しがい ちりなさや しけぬなれや
'Nni nu huN 'araN 'awa nu huN 'araN yakari yumu duya ga kakai shigai chirinasa ya shikee nu naree ya
◯稲の穂ではない 粟の穂ではないのに ずうずうしい嫌な鳥が付きまとう。連れないことよ 世界にはつきものだ。
語句・やかり 「(接頭)ずうずうしいやつ、太いやつの意」【沖辞】。 ・ゆむ 「いやな」 「(接頭)罵詈・嫌悪の意を表す接頭辞。」【沖辞】。 ・どぅや <とぅい。鳥。 ・かかいしがい「うるさくつきまとうさま。まつえありつくさま」【沖辞】。・ちりなさや 連れないことよ!情けないことだなあ。 ・なれ<なれー。「習わし。習慣」【沖辞】。常にあること。
四 、 夕間暮とぅ連りてぃ立ちゅる面影や 島ぬ親兄弟ぬ想いびけい 我が儘ならん世界ぬなれや
ゆまんぐぃとぅ ちりてぃ たちゅる うむかじや しまぬうや ちょでーぬ うむいびけい
わがままんならんしけぬなれや
yumaNgwi tu chiriti tachuru 'umukaji ya shima nu 'uya choodee nu 'umui bikei waga mama naraN shikee nu naree ya
◯夕暮れと連れて 立つ面影は 故郷の親兄弟の想い 想いばかり。私のままにならない世界の常よ。
語句・ゆまんぐぃ 夕暮れ。
五、 我が胸ぬ内や枠ぬ糸心 繰い返し返しむぬゆ 思てぃ 無蔵ぬくぬ世界や かにん辛さ
わがんにぬうちや わくぬ いとぅぐくる くいかいし がいし むぬゆうむてぃ んぞぬくぬしけや かにんちらさ
waa ga Nni'uchi ya waku nu 'itugukuru kuikaishi gaishi munu yu 'umuti Nzo nu kunu shikee ya kaniN chirasa
◯私の胸の内は 枠に巻いた糸のようなもの 繰り返し繰り返し 物思いにふけっている。貴女のこの世界はこんなにも辛いものだ。
語句・ んに 胸。・わく 「籰(わく)。手で回しながら糸を巻きつける織具」【沖辞】。一旦綛(かせ、ウチナーグチで「かし」)に糸を巻いてから、枠(籰)という少し大きな器具に糸を巻き直していく。この時点でで糸の長さなどを測ることができる。・いとぅぐくる 糸と同じようなもの、という意味。 ・かにん こんなにも。強調。
登川誠仁さんのCD「STAND」に収録されている。
「浜千鳥節」(ちじゅやー)を早弾き調に変え、尾類(ジュリ)のあり方の悲哀と情念を切々と歌い上げる。「遊び千鳥」(あしびちじゅやー)と銘打った工工四も登川誠仁さんの工工四集にはある。
ジュリについては「さらうてぃ口説」の項にも少し解説を書いているが、ここにも載せておく。
琉球の文化にとってジュリ(女郎)の果たした役割を無視するわけにはいかないからである。
(「さらうてぃ口説」の筆者解説より)
恩納ナビーと並んで称される吉屋チルーという琉球時代の女流詩人は読谷に生まれ8歳のとき那覇仲島へ遊女として身売りされた。このように大半が地方の貧困層、つまり士族以外の平民の娘が身売りさせられた。女郎は琉球では「ジュリ」と呼ばれた。遊郭は自治制度があり女性だけで管理され、ジュリアンマー(女郎の抱え親)と呼ばれる人々が母子関係を結び、歌や三線、舞踊などの芸事を教えていった。
遊郭は各地にあったが、尚真王の時代、羽地朝秀(1617ー1675年)が1672年、辻、仲島に遊郭を公設した。背景には薩摩藩からの指示があったと推測されるが、遊郭の管理を王府として行う事で風紀の乱れを防止しようとした。そして琉球王朝が廃藩置県で沖縄県となり、太平洋戦争で米軍によって空襲を受けるまで辻、仲島の遊郭は存在し続けたのである。
沖縄語辞典(国立国語研究所編)には「辻」の項でこうある。
「[辻]那覇にあった遊郭の名。本土人・中国人・首里・那覇の上流人を相手とした高級な遊郭であった。那覇にはciizi,nakasima[中島],wataNzi[渡地]の三つの遊郭があり、ciiziが高級で、nakasimaは首里・中島相手、wataNziはいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていた」
本土人とは主に薩摩藩の役人で、中国人とは冊封使のことである。それ以外、商人なども含まれる。遊郭で展開された琉球芸能は表に出ることがほとんどなく記録も非常に少ない。それでも琉球古典音楽や舞踊、さらには地方の祭祀や芸能も含め、琉球芸能の重要な部分を構成していたと言われている。琉球王朝の文化である古典音楽も含め遊郭の中で展開された芸能との関わりは無視できない。
▲「琉球交易港図屏風」(浦添市美術館蔵)に、18世紀頃の辻の遊郭とジュリの姿が描かれている。
鳥居の左横の村が辻村で、その周囲の派手な着物をまとった人々がジュリだ。この図屏風にはあちこちに薩摩藩の船や武士が描かれている。当時の関係の深さをうかがい知ることができる。
この絵図の解説はここに詳しい。
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じんだま
じんだま
作詞 上原直彦 作曲 松田弘一 唄 伊波 貞子
一、かなし銭玉小 綾色ん深く 肝にしみじみとぅ 染みてぃたぼり
かなしじんだまぐゎー あやいるんふかく ちむにしみじみとぅ すみてぃたぼり
kanashi jiNdama gwaa 'aya'iruN hukaku chimu ni shimijimi tu sumiti taboori
◯愛しい銭玉小(着物の柄の一種)よ 綾(模様)の色も深く心にしみじみと染めてください
語句・かなし 愛しい。<かなしゃん。かわいい。愛しい。・じんだまぐゎー 銭玉を模様化した琉球絣の柄のことを指す。穴の空いた硬貨を模している。・あや 本来は「縞」の意味。縦糸と横糸を織りなして作った模様。「美しい」の意味もある。・しみじみとぅ 沖縄語辞典にはない。「しんじんとぅ」(「しとやかにしているさま。静粛に控えているさま。しみじみとの転意か」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す))ならある。・たぼり 〜してください。<たぼーり。<たぼーゆん。「給う。下さる。」「口語としては命令形taboori(下さい)のみを用いる」【沖辞】
※サーサーしゅらし しゅらし銭玉よ
さーさー しゅらし しゅらし じんだまよー
saa saa shurashi shurashi jiNdama yoo
(囃子※は以下略)
◯かわいい かわいい銭玉よ
語句・しゅらし かわいい。<しゅらーしゃん。「しおらしい。かわいらしい。愛らしい」【沖辞】。
二、あねる銭玉小 着物綾どぅやしが 真肌はだはだとぅ 抱ちゃいくぃゆさ
あねるじんだまぐゎー ちんあやどぅやしが まはだはだはだとぅ だちゃいくぃゆさ
'aneru jiNdamagwaa chiN 'aya du yashiga mahada hadahada tu dachai kwiyu sa
◯そんな銭玉は着物の模様であるが 真肌(「はだはだとぅ」不詳)を抱いたりしてくれるよ
語句・あねる 「そんな。そのような」【沖辞】。・ちん着物。・はだはだとぅ 「肌」を強調したものか。不詳。・だちゃい 抱いたり。・くぃゆさ あげるよ。くれるよ。<くぃゆん。「くれる。与える。やる。また、(・・して)やる。(・・して)くれる。」【沖辞】。
三、銭玉小着やい 踊いうみかきら かなしうむや小ん 見じゅんでむぬ
じんだまぐゎーちやい うどぅいうみかきら かなしうむやぐゎーん んーじゅんでむぬ
jiNdamagwaa chiyai 'udui 'umikakira kanashi 'umuyaagwaaN NNzuN demunu
◯銭玉の模様の着物を着て踊りをお見せいたしましょう 愛しい恋人もみるのだから
語句・ちやい 着て。・うみかきら お見せいたしましょう。<うみかきゆん。「お目にかける。ご覧に入れる」【沖辞】。の希望形。・んーじゅん 見る。・でむぬ 「・・であるから。・・なので」【沖辞】。
四、銭玉小ぬ情 かりすみやあらん 命ある間ぬ綾ゆでむぬ
じんだまぐゎーぬなさき かりすみやあらん いぬちあるいぇだぬあやゆでむぬ
jiNdamagwaa nu nasaki karisumi ya 'araN 'inuchi 'aru yeda nu 'aya yu demunu
◯銭玉模様の情けはかりそめではない 命ある間の綾(模様)なのだから
語句・かりすみ かりそめ。【沖辞】にはない。・ゆ 不詳。文語では「を」。強調か。
この曲はCD「綾うた」に収録されている。
(正式な名称は「RBC創立四十周年記念盤 綾うた~上原直彦作詞集」)
YouTubeにあるのでリンクする。
https://youtu.be/_dOioyU_lQU
琉球絣の柄の一つ「じんだま」をテーマにしている。
絣の柄といえば、私などは自分が民謡を唄う時に来ている着物の柄やかりゆしウエアの柄を思い出す。
もちろんこれは本物の絣の織物ではなく、プリント生地を縫製したものだ。
では本物の絣とはどういうものか。
絣の柄とはどんなものかを見ていこう。
「織物のまち南風原町」のホームページがわかりやすい。http://www.haebaru-kankou.jp/texitile/ryukyu-kasuri.html
幾つかのサイトも参考にして絣というものについてすこしまとめてみた。
【絣の歴史】
絣(かすり)はインドで生まれた織物で東南アジアに広まった。
経糸(たていと)と緯糸(よこいと)をそれぞれ染めクロスさせることである模様(綾)を生み出す技法。
14〜15世紀頃大交易時代だった琉球にもたらされた。
琉球では庶民が着る着物は無地か縞柄(しまがら)だった。
一方で絣は王府に納める貢納布として、先島諸島や久米島、首里や那覇など各地のヒャクショー(平民)の女性たちの手によって織られた。決して自分達が着ることがないとわかっていても。
人頭税で納める米の代わりにこの絣が納められたこともある。
17〜18世紀には、さまざまな手法が生み出されて開花する。
その絣の柄は王府の絵図奉行の絵師たちの手によって「御絵図帳」(みえずちょう)にまとめられ宮古、八重山など先島諸島、各地での絣の柄を統制・指導する際に用いられた。
約600種類の柄が描かれているという。誰がそのデザインを生み出したのか、は不明。
しかしその御絵図帳で庶民が織った絣は王府、士族の女性たちの着物となった他は中国(明、清)への朝貢品として、また1609年の薩摩侵攻以後は薩摩、江戸への貢納品として使われた。
その事を通じて絣の技術や柄そのものが本土に広がっていき大きな影響を与えた。
【絣の種類や呼び名】
いくつか絣の綾(模様)をピックアップしてみよう。
(図は筆者が描いた)
まずはこのウタのテーマ「じんだま」
▲細長い形のものもある。
▲中央は四角形の穴である。
これらは実際に琉球で使われた貨幣の形を模したものだ。
▲大宜見、久米島のものは左上の細長い貨幣を模したものだろう。
「銭」つまり貨幣が使われ始めたのは琉球が統一される前の中山の察度王(1321〜1395年)と言われている。琉球が統一されて貨幣経済は琉球に広がって行った。
絣柄「ジンダマー」は現在では「ドーナッツ紋」とか「丸紋」と呼ぶこともあるようである。
また、自然を模した柄も多い。
▲トゥイグヮー、鳥あるいは小鳥。千鳥とかツバメとも最近は呼ばれるようだ。呼び名も時代とともに変化している。琉球時代より以前から「鳥」はあの世とこの世を結ぶ連絡係のようなもの、と信じられてきた。あの世からのメッセージであり、こちらから想いをあの人に伝える伝令のようなものだった。
その意味では鳥を模した柄にも琉球の精神世界の反映があるのかもしれない。
▲星を模したもの。星が身近なもので、方位や時間、季節を星で計っていたからだ。
航海や農業、遊び全般で星は重要な「時計」「カレンダー」代わりの役割があった。
▲星が五つ、かと思いきや、インヌフィサー、つまり犬の脚、足跡という意味だ。
ユーモラスでもあるが、どんな思いを込めていたのだろうか。
生活に使われた道具なども多い。
▲バンジョウ。番匠と書く。建築などを仕事とする大工が非常に大切にしたという直角になった金属の定規。直角が測れなければ正確な建築はできない重要な道具だ。
▲このバンジョウを組み合わせて作った芭蕉布の柄。なんとも清楚で美しい。昔は庶民の着物。しかしお値段は。。書くまい(笑)
▲ウシヌヤマ バンジョウと呼ばれる柄。牛のヤマとは、田や畑の土を掘り起こす時に使う犁(すき)のことで、牛(水牛)に引かせた。
▲ウシヌヤマ(「『沖縄の民具 』上江洲均著」を参考に筆者描画)
それとバンジョウの組み合わせなのかどうか解らない。この農具の形だけでもウシヌヤマバンジョウではある。どちらにせよ、両方とも生活では非常に必要度の高いものの組み合わせである。デザインとしても単調ではなく、アクセントが加わって柄も生き生きしてきそうだ。
ちなみに上の私のかりゆしウエアにもこの柄がある。
▲いわばS字フックである。台所や服をかけるときなど今でも何かと便利なものである。これも柄としては面白い。繋げても良いし単独でもいい。
▲豚の餌箱を模した柄。
それにミミ(取っ手だろうか)がつくと
▲もう現在ではフールー(豚小屋)が家にあるお宅などまずは無いと思うが、昔はよく見られた。ということでこの柄は現在では「虫の巣」と呼ばれるようである。
▲人間も動物も植物も水がなければ生きていくことができない。サンゴ礁の島琉球には大きな川も湖もあまりなく、水は湧き水、つまりカー(井戸)のお世話になってきた。そして水はいろいろな祭祀においても重要なアイテムとなる。
さらに井戸はその形によってもまたステキなデザインとなって人々を助けている。
【まとめ】
琉球王朝の「御絵図帳」には600種類の柄があるので到底全部を紹介するわけにはいかないが、上にあげたものだけでも、絣の柄が人々の自然と共にある暮らしや祭祀などの精神世界と密接に関係していることがよくわかる。
そう考えていくと、このウタ「じんだま」の四番
「銭玉小ぬ情 かりすみやあらん 命ある間ぬ綾ゆでむぬ」
を唄う時、また聴く時、感慨深いものが湧いてくる。
この絣の柄として人々の身体を覆ってきたジンダマを着て生活をし、
また踊る時、想いを伝えたい人への深い愛情を込めているのだということを。
本土の絣の文化に深い影響を与えただけでなく、世界にも広がっているという絣。
今も新しい絣を生み出し、それを楽しみ慈しんでいる沖縄の人々の文化の深さにも感銘するばかりである。
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謹賀新年2017
あけましておめでとうございます。
いっぺー、いい正月でーびるさい。
いつも「たるーの島唄まじめな研究」をありがとうございます。
昨年もいろいろお世話になりました。
個人的にはたくさんの勉強をさせていただいた一年だと思います。
2016年の3月に、今帰仁ミャークニーの唄者平良正男様、平良哲男様との出会いがありました。
ナークニーを学ぶものとしてはとても嬉しい出会いでした。なにしろナークニーの源流だと言われているウタだからです。
その前の年2015年には、本部ミャークニーに歌われた道を本部町教育委員会の方や元教育長、今帰仁歴史文化センターの館長(当時)に詳しく教えていただいて、さらにその唄者を探していたところでした。
また2015年から書いていたナークニーの成立をめぐる物語「糸音の旅」にとっても非常に価値のある出会いでした。
あちこちを巡ったり博物館や図書館を巡りながら「糸音の旅」の後編にも着手しています。
他にもまだ書き切れないことがありますが、自分なりの勉強を積み重ねてきて、これからの課題が少し見えてきて、それが小さな花を一つは咲かせたように思います。
ナークニー、ミャークニーに関連する場所を巡り、モーアシビの実情にも少し近づきながら、ウタの故郷をめぐる旅も続けています。
中城湾、和仁屋間の干潟を眺めては「伊計離節」「勝連節」に思いを馳せました。
そして、私の師匠嘉手苅林次先生のご指導を受けながらウタの勉強も続けさせていただいています。
昨年12月には琉球民謡協会の教師免許もいただきました。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
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