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Channel: たるーの島唄まじめな研究
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くいちゃー踊り

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くいちゃー踊り くいちゃーぶどぅるぃ kuichaa budurï ◯くいちゃーの踊り 語句・くいちゃー 「【‘声合わせ’の意か】宮古歌謡の一種」「またそれに伴う集団踊り」【琉球語辞典】。この説明にある通り「クイチャー」とは宮古歌謡、あるいは踊りのことである。八重山民謡にそれが持ち込まれたものなのか、どうしてこの曲名になったのか、いつ頃のものか、不明。・ぶどぅるぃ 踊り。「るぃ」の発音は(rï)であらわし、、「中舌母音」という。(「鷲の鳥節」を参照。 「すぃ」(sï)は、「し」を発音する唇(ただし唇を横に引かない)、顎の形で、舌を少し引いて「す」というつもりで発音すると近い。同様に、 「るぃ」(rï)は、「り」を発音する唇(ただし唇を横に引かない)、顎の形で舌を少し引いて「る」というつもりで発音すると近い。 ※歌詞は「八重山古典民謡工工四 下巻」(大濱 安伴編著)を参考にした。 一、くいちゃー踊るぃぬ出でぃたつぁば 今年ぬ世や世果報 来年ぬ世や めーひん勝らし給り (ハーリヌオーヤッサイ マタリヌ オーヤッサイ オーリケラ ウタイバブドゥラディ イヤサッサ ハイハイ) くいちゃぶどぅるぃぬいでぃたつぁば くとぅすぃぬゆーや ゆがふ えんぬゆーや めーひんまさらしたぼり (はーりぬおーやっさい またりぬおーやっさい おーりけら うたいばぶどぅらでぃ いやさっさ はいはい) kuicha budurï nu 'iditatsaba kutushï nu yuu ya yugahu eN nu yuu ya meehiN masarashi tabori (haari nu ooyassai matari nu ooyassai oorikeera 'utaiba buduradi 'iya sassa hai hai) ◯くいちゃー踊りが出てきたら今年の暮らしは五穀豊穣 来年の暮らしは、よりもっと豊作にしてください 語句・いでぃたつぁば 出てきたら。<いでぃ<いでぃん 「出る」【石垣方言辞典】(以下【石辞】と略す)。+たつぁ <たつん 「立つ」【石辞】。+ば ならば。・めーひん よりいっそう。なお。 現在は「めへん」【石辞】。沖縄語では「なーひん」・まさらし すぐれさせて。まさらせて。<まさるん 「優れる。勝る」【石辞】。の使役。 ニ、今年作たる稲粟や やらぶぬ実るぃざぎなりひるか とーらん大家ん造りして 俵ばひだみばしー くとぅしちくたるいにあわや やらぶぬなるぃざーぎなりひーるかー とーらんうふやーんちくりして たーらばひだみばしー kutushi chikutaru 'ini'awa ya yarabu nu narïzaagi narihiiru kaa tooraN 'uhuyaaN chikurishite taara ba hidamibashii ◯今年作った稲や粟は ヤラブ(テリハボク)の実がなるようになってくれるなら 台所も母屋も作って 俵を積み上げて境に置いて 語句・やらぶ 「木の名。テリハボク。材質が良いので家具、挽物等に用いられる。和名としても、ヤラブ、ヤラボなどとも言う」【石辞】。八重山諸島では防風林として植えられて、直径4cmほどの実がたくさんなる。食用ではないが油を抽出して薬や、化粧品に使われることもある。・ざーぎ 「さえ。すら。」【石辞】。「~ほどに・~のように」【精選八重山古典民謡集】という意味もあるようだ。が、その使い方は辞書では確認できなかった。・ひーる  ひーるん 「くれる。与える。」【石辞】。・か 標準語の「『~たら』『~なら』に当たる」【石辞】。接続助詞。「っかー」という形で現在は使われる。「か」と短縮されているのは、歌詞の中では長母音(ー。伸ばす音)や促音(小さい「っ」などで表す音)は省略することが許されることから(詩的許容 と呼ばれる)。・とーら 台所。「『髙倉(たかぐら)の転訛とも」【石辞】。 沖縄語は「とぅんぐゎ」。八重山では「母屋と台所は別棟であった」【精選八重山古典民謡集】。・て 沖縄本島では「てぃ」となる「~して」が八重山では「って」となる。・ひだみ 「隔て。境。間隔」【石辞】。 ひだみばしー、境に置いて。 三、ばかけらぬ願よーた 弥勒世や給られ 今夜ぬ夜ぬ明きるんけー踊り遊ば ばがーけーらぬにがよーた みるくゆーやたぼられ にかぬゆーぬあきるんけーぶどぅりあすぃば bagaa keera nu nigayoota mirukuyuu ya taborare nika nu yuu nu 'akiruNkee buduri 'ashïba ◯私たちが皆願った五穀豊穣の暮らしを下さって 今夜の夜が明けるまで踊り遊びましょう 語句・ばがーけーら 「我々皆。我々一同」【石辞】。・にがよーた にがうん 願う。+ よーるん 「敬意を表す。『おーるん』(おられる)の変化した語」【石辞】(一部発音記号省略)。・あきるんけー あきん<あきるん 明ける。+ んけー<んけん 「『~すると』『~する間』『~まで』などの意を表す」【石辞】。 「んけん」はあるが「んけー」という語句は【石辞】には見当たらない。  四、一夜抱ぎば一俵 二夜抱ぎば二俵 三夜抱ぎば三俵 俵ばひだみばしー ぷぃとぅゆーだぎば ぷぃとぅたーら ふたゆだぎばふたたーら みーゆだぎば みすぃたーら たーらばひだみばしー pïtuyuu dagiba pïtutaara hutayuu dagiba hutataara miiyuu dagiba mishïtaara taaraba hidamibashii ◯一晩抱けば一俵 二晩だけば二俵 三晩だけば三俵 その俵を境に積み上げて 語句・ぷぃとぅ ひとつ、の八重山方言。 【この曲について】 ▲音源では「祝い歌」(宮良康正) ▲「精選八重山古典民謡集」(CD第一巻)にある。 曲は八重山の「六調」とほぼ同じ音階で、早弾き。とてもリズミカルで明るい調子である。 歌詞も八重山に五穀豊穣を願い、歌い踊るというもの。 宮古の「くいちゃー」との関係はよくわかっていない。 四番の歌詞が、一〜三番んまでの五穀豊穣を祈る歌詞とは少し趣が変わっていて面白い。 「◯夜抱く」という表現がどういう行為を示しているのか今後の検討課題としたい。 【精選八重山古典民謡集について】 今回、この唄の文法的理解をするにあたって「精選八重山古典民謡集」(當山善堂 編著)を参考にした。 私がいつも八重山民謡理解で参考にしている「石垣方言辞典」の作者宮城信勇氏が監修をされている。 四巻にまとめられたこの本にはCDもついており、音源を聴いたり参考にしたりするうえでとても重宝する。 また、歌詞の発音で、八重山独特の「中舌母音」が問題になることが多いが、この本では「い段中心の中舌音表記」と「う段中心の中舌母音表記」とにわざわざわけて、二通りの表記を丁寧に記載されている。 「い段中心の中舌音表記」とは「りぅ」、「しぅ」のように中舌母音の表し方を「い段のひらがな」+「ぅ」というふうに表すやり方。 口は「り」や「し」の形で「る」、「す」と発音すると八重山方言の中舌母音に近くなる。 もうひとつの「う段中心の中舌音表記」は、「るぃ」、「すぃ」と表すやり方。 中舌母音は世界の言語や、日本語においても地方には残っている発音であるが、表記の方法がまちまちで統一されたものがなかったことと、とくに八重山民謡の歌詞を表記するうえでさまざまな方法がとられていることから混乱もあった。 上のように二種類の表記が必要になるのもそのためである。 ちなみに私は「う段中心」の表記をすることが多い。その理由はまた別に書きたい。 八重山民謡を勉強するうえで、この中舌母音の発音は欠かせないものであるので、この本はとても参考になり、八重山民謡を勉強する上で強力な「武器」になることは間違いない。

ザークビー物語

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ザークビー物語 ざーくびーむぬがたい zaakubii munugatai ◯座峠の物語 語句・ざーくびー 国頭村の半地(はんじ)という字(あざ)にある小高い丘の呼び名。「座峠」という字が当ててある。「座」は「座る」の意味で、昔は毛遊びが盛んな場所だったと地元の方に教えられた。「くびー」は「峠」を意味するとする文献もある。 (この歌は沖縄北部方言【国頭方言】で歌われていて、その方言での表記は筆者の力量を超えていることをご容赦頂きたい。できるだけその土地の方言に近づけるよう努力はしているので、ご指摘があればコメントを頂ければ幸いです。) 作詞 金城久司 1、ラクサ落水に アユぬ魚登て ラクサ落水ぬ光い美さ らくさうちみじに あゆぬゆーぬぶてぃ らくさうちみじぬひちゃいつらさ rakusa 'uchimiji ni 'ayu nu yuu nubuti rakusa 'uchimiji nu hichai tsurasa ◯(比地川の)ラクサ(堰)から落ちる水にアユが登って跳ねるときのラクサから落ちる水の輝きの美しいことよ! 語句・らくさ 堰。辞書にはないが国頭村半地あたりでは「比地川(下の地図を参照)に昔は石積みで海水の逆流を防ぐ堰を作った。それをラクサ(落差の意味)と呼んだ。」と現地の方に伺った。・ゆー 魚。原詩にはふり仮名で「ユー」とあり国頭方言と思われる。「いゆ」【沖縄語辞典】。・ひちゃいつらさ 光が美しいことよ!。原詩には「ヒチャいツラさ」とふり仮名がある。首里語、南部方言では「ふぃちゃいちゅらさ」。 2、ザークビーぬ森に 美風寄して みやらびぬ笑 時ん捨てて ざーくびーぬむいにつらかじゆしてぃ みやらびぬわれーとぅちんしてぃてぃ zaakubii nu mui ni tsura kaji yushiti miyarabi nu waree tuchiN shititi ◯座峠の森に美しい(気持ち良い)風が吹いて、娘の笑い声に時を忘れて 3、ザークビーぬ水路に 水車ぬして サーターぬ香さ 童とみさ ざーくびーぬいんずに みじぐるま ぬしてぃ さーたーぬかばさ わらびとぅみさ zaakubii nu 'iNzu ni mijiguruma nushiti saataa nu kabasa warabi tumisa ◯座峠の水路に水車をかけて サトウキビの香りがいいので 子どもが求めるよ 語句・いんず 水路。国頭方言と思われる。・とぅみさ 求めるよ。<とぅめーゆん 求める。+さ よ。 4、山ぐらし終て かやぶちぬ長屋 ザークビーぬやどに しばしやどら やまぐらしうわてぃ かやぶちぬながや ざーくびーぬやどぅにしばしやどぅら yamagurashi 'uwati kayabuchi nu nagayaa zaakubii nu yadu ni shibashi yadura ◯山暮らし(戦争からの疎開)を終えて茅葺の長屋 (避難民収容所)座峠の宿にしばし泊まろう 5、戦世ん終て 身心んゆどり 松下ぬ花に 想い散らち いくさゆーんうわてぃ みーくくるん ゆどぅり まちしちゃぬはなに うむいちらし 'Ikusa yuuN 'uwati miikukuruN yuduri machishicha nu hana ni 'umui chirashi ◯戦争が終わって、身も心も夕なぎのようになごみ 松下の花(料亭の女性に)想いを寄せて 語句・まちしちゃ この座峠の近くにあった「松乃下」という料亭のこと。「花」とは女性と解釈できる。・ ゆどぅり 夕なぎ。風がない夕方の凪。戦争が終わって、身も心も安心している様子。 6、半地劇場に人波ぬ寄してぃ 映画歌しばい 肝にすみてぃ はんじげきじょーにひとぅなみぬゆしてぃ えいがうたしばい ちむにすみてぃ haNjigekijoo ni hitunami nu yushiti [eiga]'uta shibai chimuni sumiti ◯半地劇場に人波が寄せるほど集まって 映画歌芝居で心も染めて 語句・はんじげきじょー 半地劇場。国頭村の字半地にあった映画や芝居を上演していた劇場。「げきじょー」という表記はおかしい気もするが「joo」をそのままひらがなにしたものなので、私のブログでは御我慢頂きたい。・えいが ウチナーグチでは「映画」は「かーがーうどぅい」(影踊り)というが本土の発音の影響だろう。・すみてぃ 染めて。<すみゆん。染める。 7、美水んかりて 美風んとまて 黄金田ぶっくわ 夢がやたら つらみじんかりてぃ つらかじんとぅまてぃ くがにたーぶっくゎいみがやたら tsura mijiN kariti tsura kajiN tumati kugani taabukkwa 'imi ga yatara ◯美しい水も枯れて 気持ち良い風も止まって 実り豊かな田園風景は夢だったのか 語句・たーぶっくゎ 田んぼ。「黄金」(くがに)は、稲穂が黄色く実った様子だろう。「大切な」という意味もある。・やたら だったのか。 8、昔はねーちゃる 美森るやしが 時世に流さりて 道路に変わて んかしはねーちゃる つらむいやしが とぅちにながさりてぃ みちにかわてぃ Nkashi haneecharu tsuramui yashiga tuchi ni nagasariti michi ni kawati ◯昔は華やかな美しい森であったが 時代の流れに流されて道路に変わってしまった 語句・はねーちゃる 「①色つやが美しくでる。つやが出て美しくなる。芭蕉布などに酸類をいれてつやが出る場合などにいう。②花やかになる。③花やかに美しくする」【沖縄語辞典】。ここでは、華やかだった、と昔の賑やかな様子を表現している。 最近この歌と出会った。 この歌には曲はない。別にナークニーにのせて歌ったわけでもないそうだ。 私達は「沖縄の民謡」というと必ず三線がかなでられ、決まった歌詞を歌うものだと思いがちだが、和歌、俳句、川柳などと同じように定型句に今の自分の想いや情景を織り込んだ「琉歌」(うた)というものを楽しむ沖縄の人々の存在はあまり知られていない。 曲に乗せないで作られる琉歌(うた)も多い、ということをあらためて認識した。 「ザークビー物語」で歌われているのは 国頭村の半地という村で、ザークビーという村はずれにある「峠」(くびー)や比地川を中心にした昔の情景と、戦争が終わって捕虜収容所から出てからの戦後の暮らしと、想いである。 現在は国道58号線、国頭村の比地川にかかる比地橋から南側に行ったあたりにザークビーがある。 (写真は岩渕そよさんからご本人の了承を得て掲載しました。) ザークビーとは、一般に村と村の境には、少し高い丘と森、そして人が歩けるだけの道があって、それが隣村との境界をも意味したようである。 このザークビーの「ざー」は「座る」であり、昔は毛遊び(もーあしび)が盛んな場所だったと地元の方に教えてもらった。 昔は隣村との婚姻が禁止されていて、当然毛遊びでの交流も出来なかったが、ザークビーが村境に近いことで、それが可能だったとも地元の方から。 現在は、国道58号線によってザークビーの半分はなくなり、人が歩けるほどの道が国道に変わっている。少しの森と丘が残るだけである。 また比地川は、上流の滝とリュウキュウアユが生息しているということで有名な川。 (写真は呉屋俊光さんからご本人の了承を得て掲載しました。) 歌にでてくる「ラクサ」という堰を越えた水を登って行く魚、とくにアユの眺めは良かったと地元の方が言われる。 川の水は稲作にもつかわれるし、魚以外にもカニやエビなども採れ、さらには水車を置いてウージ(サトウキビ)を圧搾して黒糖蜜を絞り出す。 子供でなくても魅力的な環境だったようだ。 そしてあの凄惨な沖縄戦の後は捕虜収容所が置かれたそうだ。 そこを出ての戦後の暮らし。 半地劇場や松乃下料亭の賑わいが目に浮かぶようだ。 この「ザークビー物語」は金城久司さんという方が十年ほど前に、ご自分が生まれ育った故郷を思い出して作った琉歌(うた)で、ある本に掲載されていたものをその方の息子さんが見つけられて、意味が知りたいということで、回り回って私のところにやってきた。 (経過は「たるーの島唄人生 ザークビー物語) ▲この歌が掲載されている本の写真。 Facebookの友人からの依頼だったが、同じFacebookの「うちなーぐち講座」という所でいろいろな情報を寄せて頂いた。ネットの力は凄い!と実感した。 情報を頂いた中には、国頭村の道の駅の方、国頭村役場の字史編纂室の方も。 また「松乃下」の経営者のお孫さん。 この歌を作った金城久司さんの弟さんの金城正治さんには比地川の様子、とくに「ラクサ」についてや、そこにかかる水車のこと、そしてこうして歌を作ることへの想いなどを電話で教えていただいた。 またその娘さんはザークビーのお写真を撮って下さった。 それ以外にも多くの皆さんから情報やご意見が寄せられました。 この場をお借りして御礼申し上げます。

かいされー (3)

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かいされー 語句・かいされー 八重山口の「かいしゃ」(美しい)から来ていて、「美しければ」(kaisha +ri+ba)という歌詞から来ている、という説がある。沖縄語辞典、琉歌大成にはない。 歌三線 嘉手苅林昌 一、風や北吹ちゃ小 歌小流ちゃしが 風ぬ持ち流し 無蔵が聴ちゅみ かじやにしぶちゃーぐゎー うたぐゎーながちゃしが かじぬむちながち んぞがちちゅみ kaji ya nishibuchagwaa 'utagwaa nagachashiga kaji nu muchi nagachi Nzo ga chichumi ◯風は北風 それに歌を流したが 風が持って流して 彼女は聴くまい 二、歌声聞ち分ち 出ぢてぃ来らやしが 今でぃ来んむぬやちゃーさがやー 来んどあがや うたぐぃー ちちわかち んじてぃ ちゅらやしが なまでぃくんむぬや ちゃーさがやー くんどぅあがやー 'utagwii chichiwakachi 'Njiti churayashiga namadi kuN munu ya chaa sa ga yaa kuN du 'aga yaa ◯歌声を聞き分けて出てくるだろうけれど 今になっても来ないからどうしようか 来ないってあるかね 語句・んじてぃ 出て <んじゆん。出る。・なまでぃ 今まで。・むぬ から。・ちゃーさがやー どうするかねえ。<ちゃー どう。+ さ する。+ が 疑問の助詞。+やー ねえ。 三、花やてぃん里前 枝かじね咲かんで 情きある枝に頼てぃ咲ゅさ はなやてぃんさとぅめ ゆだかじねーさかんでー なさきあるゆだにたゆてぃさちゅさ hana yatiN satume yuda kaji nee sakaN dee nasaki 'aru yuda ni tayuti sachusa ◯花だって、あなた 枝毎(全部)には咲かないよ 情けのある枝に頼って咲くよ 語句・ゆだ 枝。「ゐだ」ida とも言う。・かじ 「ごと。たび。ごとに。たびに。」例として「っちゅかじ」(人ごとに)「ちねーかじ」(家、家庭ごとに)【沖縄語辞典】。・ねー には。<に+や 融合して。否定形に。 四、別りてぃや行ちゅい 何志情きさびが 唄に声かきてぃ 情きさびら わかりてぃやいちゅい ぬーしなさきさびーが うたにくいかきてぃ なさきさびら wakariti ya 'ichui nuu shinasaki sabiiga 'uta ni kui kakiti nasaki sabira ◯別れて行くのに 何を別れの情けにしましょうか 唄に思いを込めて情けにしましょう 語句・さびーが しますか?<さ する。+あびー <あびゆん します。敬語。+が 疑問の助詞。・くいかきてぃ 直訳では「声を掛けて」だが、歌の世界では「想いを込める」ということに使われることが多い。 五、里が張てぃ呉てるムンジュルぬ笠小 かんでぃわん涼さ 縁がやたら さとぅがはてぃくぃてる むんじゅるぬかさぐゎ かんでぃわんしださ ゐんがやたら satu ga hatikwiteeru muNjuru nu kasagwaa kaNdiwaN shidasa yiN ga yatara ◯貴方が作ってくれたムンジュル(麦わら)笠 こんなにも涼しい!二人は縁があるのかしら 語句・はてぃ 「傘を作る」【沖辞】。・むんじゅる <むんじゅるー 麦わらで編んだ笠。「むんじゅる」・かんでぃわん こんなにも。<かん こう。かく。+でぃ<んでぃ の省略。と。+わん わも。強調。 六、雨やちょん降りば 雨になじきゆい さやか照る月に 何なじきゆが あみやちょんふりば あみになじきゆい さやかてょるちちに ぬーなじきゆが 'ami ya chooN huriba 'ami ni najikiyui sayaka tiru chichi ni nuu najikiyuga ◯雨さえも降れば雨に口実をつけるのに あかあかと照る月になんの口実をつけようか 語句・ちょん <ちょーん 「すら。さえ。」【沖辞】。・なじき 口実。何の口実かは、この歌詞ではわからない。・さやか あかあかと。 この曲に決まった歌詞はない。 歌われる嘉手苅林昌さんも、歌う度に歌詞が変わっている。 林昌先生は、ステージのリハーサルで歌った歌詞は本番では決して歌わなかったというエピソードがあるくらい無数の歌詞を持っていらっしゃった。 宮古根のチラシ(続けて歌う事)での「かいされ」もあるし、このように単独でうたわれることもある。 曲を楽しむというより、もう「語り」に近いとおもう。 歌詞の上句と下句を変えたり、人の作った琉歌をわざといれたり、即興も飛び出したりして、聴く人々にも楽しみを与える技も昔の歌者ならではだろう。 ただ、モノマネして最近の人が歌うのも聴くが、これほどワクワクさせる技量を備えた方の「かいされ」は、なかなか聴けなくなっているのではないだろうか。 歌詞が違うが、かいされ、林昌先生の歌を貼っておく。

チバリヨー

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チバリヨー ちばりよー chibari yoo ◯頑張れよ 語句・ちばりよー 頑張れよ。<ちばゆん。の命令形。九州の「きばれ」と関係がある。 作詞 作曲 照喜名朝一 〈歌詞参照 「生命燃えるうた 沖縄2001」〉 一、南ぬ風吹きば(ヨー) 我肝わさみかち 海山に出じてぃ 遊ぶ手立てぃ (チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー) ふぇーぬかじふきば(よー)わちむわさみかち うみやまにんじてぃ あしぶてぃだてぃ (ちばりよー ちばりよー ちばりよーちばりよー ) hwee nu kaji hukiba (yoo) wachimu wasamikachi 'umi yama ni 'Njiti 'ashibu tidati (chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo) ◯南風が吹くと私の心をざわめかせ 海山に行って遊ぶ準備を(頑張れよ 頑張れよ 頑張れよ 頑張れよ) 二、踊い技仕込でぃ(ヨー) 太鼓打ち交じり 若者や いちん いそさばかい(チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー) うどぅいわざいくでぃ (よー)てーくうちまじり わかむんやいちん いそーさばかい (ちばりよー ちばりよー ちばりよーちばりよー ) udui wazashikudi (yoo) teeku 'uchi majiri wakamuN ya 'ichiN 'isoosa bakai (chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo) ◯踊りの技を仕込んで太鼓を打ち交じり 若者はいつも嬉しいばかりだ 語句・いちん いつも。ライナーノーツ(CDの中にある歌詞、解説)には「いふぃん」とあったが、ご本人のCDで確認したらこう歌われていらっしゃるので変更しました。 ばかい <沖縄語では普通、「びけい」「びけーん」 ばかり。九州では「ばかい」を使う。「ばかり」と歌っているものもある。 三、振い下るす撥ん(ヨー) 心あるさらみ 向かてぃ行く先に ひちみすゆさ(チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー) ふいうるすばちん(よー)くくるあるさらみ んかてぃいくさちに ひちみすゆさ (ちばりよー ちばりよー ちばりよーちばりよー ) hui 'urusu bachiN (yoo) kukuru 'aru sarami Nkati 'iku sachi ni hisami suyu sa (chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo) ◯振り下ろす撥も 心があるのだろう 向かっていく先に 流し目をするよ 語句・さらみ であろう。・ひちみすゆさ 流し目をするよ。<ひちみ<ふぃちみ。「横目。流し目」【沖縄語辞典】。+すゆ <すん。する。+さ。よ。 四、はねーち鳴いすゆる(ヨー) ちばり華太鼓 見聞ちする人ぬ肝に残ち(チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー) はねーちないすゆる(よー)ちばりはなでーく みちちするふぃとぅぬちむにぬくち (ちばりよー ちばりよー ちばりよーちばりよー ) haneechi naisuyuru (yoo) chibari hanadeeku michichi suru hwitu nu chimu ni nukuchi (chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo) ◯にぎやかに鳴っている 頑張れ 華やかな太鼓 見聞きする人の心に残って 五、太鼓撥主とぅ(ヨー) 三人はい揃てぃ 語る云言葉ん パランポロロン(チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー チバリヨー) てーくばちぬしとぅ (よー)みっちゃいはいするてぃ かたるいくとぅばん ぱらんぽろろん(ちばりよー ちばりよー ちばりよーちばりよー ちばりよー ちばりよー ちばりよーちばりよー) teeku bachi nushi tu (yoo) micchai hai suruti kataru 'ikutubaN paraNpororoN (chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo chibari yoo) ◯太鼓、撥と主(太鼓叩く人)三人揃って 語る愛の言葉もパランポロロン 「生命燃えるうた 沖縄2001」〈商品番号:COCJ-35018 発売日:2008/06/18 発売元:日本コロムビア(株)〉に収録されている。 解説には、 「昭和六十一年、照喜名朝一作詞・作曲、佐藤太圭子振り付け『チバリ太鼓』で琉球放送第二回創作芸術祭の奨励賞を受賞。ノリのいい曲にパーランクー(片面張りの太鼓)を持って踊る」 とある。

マーラン船

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マーラン船 まーらんしん maaraN shiN ◯マーラン船 語句・まーらんしん 「馬艦船」と書き「まーらんしん」と読み、または「山原船」(やんばらーぶに)とも呼ばれた物資運搬を主とする帆船。琉球国内、日本との交易、運送などのために近世まで使われた。中国のジャンク船(四角い帆を持つ帆船)の建造技術で18世紀頃琉球で作られたといわれている。 作詞・作曲 久米仁 唄三線 仲宗根 創 一、昔マーラン船や与那原出てぃ (※ヨンサー ヨンサー)瓦積どーてぃ (※繰り返す) 汀間んかい (やさ 汀間んかい ※) んかしまーらんしんや ゆなばるんじてぃ (よんさー よんさー)かーらちどーてぃ (よんさー よんさー)てぃーまんかい (やさ てぃーまんかい よんさー よんさー) Nkashi maaraNshiN ya yunabaru 'Njiti (yoNsaa yoNsaa )kaara chidooti (yoNsaa yoNsaa )tiima Nkai (yasa tiima Nkai yoNsaa yoNsaa ) ◯昔マーラン船は与那原を出発し(※は囃子言葉なので省略)琉球瓦を積んで 汀間へ(そうだ 汀間へ ※省略) 語句・んかし 昔。・ゆなばる かつては島尻ー大里間切。現在は与那原町。中城湾に面して天然の良港があった。特産は赤瓦。・かーら 瓦。与那原の特産品。・ちどーてぃ 積んで(いて)。<ちぬん 積む。・てぃーま 国頭ー久志間切。現在は名護市字汀間。 二、夏や南風 千鳥ん嬉さ (※)冬や北風 (※) 波荒さ (やさ波荒さ ※) なちやふぇーかじ ちどぅりんうりさ ふゆやにしかじ なみあらさ nachi ya hweekaji chiduriN 'urisa huyu ya nishi kaji nami 'arasa ◯夏は南風吹き 千鳥も嬉しいことよ 冬は北風 波は荒いことだ 語句・ふぇーかじ 「南」を「ふぇー」と言う。・ん も。強調する時なども使う。・うりさ 嬉しいことだ! <うりさん。うりしゃん。琉歌で形容詞の体言止めは感嘆する気持ちを表現することが多い。「うりさ」は「うれしさ」と訳すと気持ちが弱い。・にしかじ 「北」は「にし」と呼ぶ。「北」を「にし」と呼ぶ理由については諸説ある。「北風」を「にし」と呼ぶことからという説。「去〔イニ〕」説。「子(にー)」説(二ヌファブシ=北極星)など。【琉球語辞典】では「私見」と断った上で[本来ニシは西であったが(幅のある)北西方面からの風の総称に転じた後」ゆるやかな捉え方から「北」を「にし」と呼ぶようになった]とある。 三、ありや阿麻和利 勝連城 (※) くりや平安座ぬ (※) 八太郎 (やさ 八太郎 ※) ありやあまわりかちりんぐしく くりやふぇんざぬ はったらー 'ari ya 'amawari kachiriN gushiku kuri ya hweNza nu hattaraa ◯あれは阿麻和利の勝連城 これは平安座のハッタラー 語句・あり あれ。・あまわり 阿麻和利。15世紀に悪政を敷いた前按司(領主)を倒し勝連城の按司となり、民衆を助けたという人物。・くり これ。・ふぇんざ 中頭ー与那城間切。現在はうるま市に属し、海中道路で勝連半島と結ばれている。昔の発音は「ひゃんざ」hyaNza である。・はったらー 昔、平安座島にいたとされる大男で力持ちの人物名。 四、船や汀間ぬ港に繋ぢ(※)姉小志情き (※)瓶ぬ酒 (やさ瓶ぬ酒 ※ ) ふにやてぃーまぬ んなとぅにちなじ あんぐゎーしなさき びんぬさき huni ya tiima nu Nnatu ni chinaji 'angwaa shinasaki biN nu saki ◯船は汀間の港に繋ぎ 娘さんの情けがつまった瓶の酒 語句・あんぐゎー 「①姉。ねえさん。平民についていう。②ねえさん。娘さん。娘。平民の若い娘をいう」【沖縄語辞典】。時と場合によるが、ここでは汀間の若い娘をさすだろう。 五、薪 砂糖 積み荷ん済まち (※) 戻るマーラン船や (※)真帆上ぎてぃ (やさ真帆上ぎてぃ ※ ) たむん さーたー ちみにんしまち むどぅるまーらんしんや まふあぎてぃ tamuN saataa chimini ni shimachi muduru maaraNshiN ya mahu 'agiti ◯薪(たきぎ)と黒砂糖を積み荷にして 戻るマーラン船は追い風をうけて一杯に張った帆をあげて 語句・たむん 「たきもの。たきぎ。まき。」【沖縄語辞典】。汀間は汀間川が深くマーラン船も奥まで入ったという。ヤンバルからの薪や竹を船に積んだ。・ちみに 積み荷。・しまち 済ませ。<しますん。しましゅん。済ます。終わらせる。・まふ 風をうけていっぱいに張った帆。または、二つある帆を両方あげている状態という意味もある。 沖縄の若手で新進気鋭の唄者、仲宗根創さんが唄っている「マーラン船」。 歌をつくられたのは「島々美しゃ」や「娘ジントーヨー」の作詞をした久米仁さん。 仲宗根創さんのアルバム「歌ぬ糸」に収録されている。 「ヨンサー」という囃子言葉がくりかえし出て来て、ゆったりと風に乗って進むマーラン船に乗っているかのような気持ちになる名曲。昔の情景が織り込まれている。 YouTubeに仲宗根創さんが歌う「マーラン船」がある。 (たるーが描いたマーラン船)

裏座小

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裏座小 うらざぐゎー 'uraza gwaa ◯裏座敷 語句・うらざ 「裏座敷。女部屋。婦人の居間。遊郭では、女郎が客をとる部屋。」【沖縄語辞典】。・ぐゎー 沖縄語辞典によると「小」をつける場合は幾つかのケースがある。たとえば①小さいことを表し、またその愛称。 ②子供の名について愛称となる。③少量であること。 ④軽蔑の意。 ⑤分家の意。とある。歌の名前を呼ぶ時に「宮古根小」(なーくにーぐゎー)などと、「小」をつけたるする場合、すこし卑下した感じを受ける時がある。愛情があるのだが人前では卑下する④の「小」でないか、と推測する。本土で「・・小唄」とつけるようなものではないだろうか。 作詞/照屋 林助 作曲/喜納 昌永 一、(男)無蔵が裏座や ぬくぬくとぅ 冬ん春風 吹ちがすら 梅とぅ桜ぬ 花活ちてぃ 一鉢に咲かち 眺みぶさ んぞがうらざやぬくぬくとぅ ふゆんはるかじ ふちすがら んみとぅさくらぬ はないちてぃ ちゅばちにさかち ながみぶさ Nzo ga 'uraza ya nukunuku tu huyuN harukaji huchisugara 'Nmi tu sakura nu hana 'ichiti chubachi ni sakachi nagamibusa ◯貴女の裏座はぬくぬくと 冬も春風が吹いているのか 梅と桜の花を活けて一鉢に咲かせてみたいものだ 語句・んぞ 男性が愛する女性を呼ぶ時の呼称。形容詞「んぞーさん」から。九州にも「んぞらしい」(可愛い)という語があり関連している。「無造作」から来ているという説も。・ふちがすら 吹いているのか。<ふちゅん。ふち+が 「疑わしさを表す文に用いて、文の疑わしい部分に付く」。+ すら しているのか? ニ、(女)互にかながな語る夜や 冬に夜長ん なぎ足らじ 時計ぬ針ん 押し戻ち まじゅん朝寝 しち見ぶさ たげにかながなー かたるゆや ふゆにゆながん なぎたらじ とぅちーぬはーいん うしむどぅち まじゅんあさにーしちみぶさ ◯互いに仲良く語る夜は冬の夜長であっても長さ足らないだろう。 時計の針を戻して一緒に朝寝をしてみたいわ 語句・かながな 仲良く。<かながなーとぅ。・なぎ 長さ。・たらじ 足らないだろう。「じ」は打消し推量。「ないだろう」。 三、(男)どぅくから止みてえ 呉んなよう 明日ん明後日ん 有いどぅする 行くなんでぃ 云ゆる 汝やかにん 行ちゅる我がる 苦りさしが どぅくからとみてーくぃんなよー あちゃーんあさてぃん あいどぅする いくな んでぃ いゆる やーやかにん いちゅるわーがる くりさしが ◯ひどく帰るのを止めてくれるなよ 明日も明後日もあるのだから 行くなと言うお前は こんなにも行く私こそ苦しいのだけど 語句・どぅく「過度に、余りに(も)ひどく」【沖辞】。・んでぃ ・・と。・かにん かに+ん 「かように」も。 ・わーがる 私こそ。私のほうが。<わーがどぅ。 ・くりさしが 苦しいのだけど。<くりしゃん。くりさん。苦しい。+しが。だが。 四、(女)里前やらち うぬ後や 枕ぬ一ち けえ余てぃ まあが行ぢょうら 今時分のー ちゃあし暮すが 我ん一人 さとぅめーやらち うぬあとぅや まくらぬてぃーち けーあまてぃ まーがんぢょーら なまじぶのー ちゃーしくらすが わんひちゅい ◯貴方を行かせてその後は 枕が一つ余って どこに行っているのやら 今時分にはどうやって暮らそうか 私一人 語句・さとぅめ 貴方様。<さとぅめー <さとぅ。 女性が愛する男性を呼ぶ呼称。+めー 様。「尊敬の意を表す接尾辞」【沖辞】。・やらち 行かせて。<やらしゅん。やらすん。「遣る。つかわす。行かせる」【沖辞】。・けー ちょっと。・まー どこ。・んじょーら 出て行っているのやら。<んじ<んじゅん。出る。 五、(女)かんし毎夜通いねえ 噂ぬ立ちゅんでぃ 知りなぎな (男)何がやら行逢らね やしまらん (男女)あんしん愛さる 二人が仲 かんしめーゆるかゆいねー うわさぬたちゅ んでぃ しりなぎな ぬーがやらいちゃらねーやしまらん あんしんかなさる たいがなか ◯こんなに毎夜通うなら噂が立つと知りながら 何故か会わないと心が休まらない それほども愛している二人の仲 語句・かんし「かように。こんなに」【沖辞】。<かん(こう)+し<っし(して) ・かゆいねー 通うなら。<かゆゆん、かゆいん(通う)の語尾と「ば」が融合して「ねー」となり、仮定を表す。 ・んでぃ…と。 ・なぎな ながら。しているのに。「逆説の場合に用いる」<なぎーな。 ・いちゃらね 会わないと。<いちゃゆん いちゃいん。(出会う)の否定形。いちゃらん。+ねー(仮定法)。 ・あんしん そんなにも。<あんし(そんなに)+ん(も)。 戦後の民謡界の重鎮二人が作詞作曲している人気の高い名作。 設定は遊郭の「じゅり」(女郎)と客の話であろうか。 ほのぼのとした曲調とお互いを深く思い遣る男女の機微が節々に込められている。 裏座小とは、沖縄の古民家において北側にある裏間取りのことである。 たいていは南向きに客間(一番座)、仏間(二番座)があり、それぞれの裏側にある部屋が裏座であった。 大抵は寝室として使う。 産室や若夫婦の部屋、子供部屋にも使われる。 体や心を病んだ者もこの裏座で治療したという。 遊郭では客を取る部屋であるが、「じゅり」が生活もできるようにしてあったという。 音源は喜納昌永の「芸歴70周年記念 沖縄民謡情歌特集」。 YouTubeでは、よなは徹とユイユイシスターズの山川まゆみが「第二回コザてるりん祭」で歌ったもの。

中立ぬミガガマ

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中立のみが小 なかだてぃぬみががま nakadati nu migagama ◯中立部落のミガ小(女性の名)の歌 語句・なかだてぃ 宮古島の「城辺町砂川の南側にあった部落」(「島うた紀行」第二集 宮古・八重山諸島編 仲宗根幸市 より)・みががま ミガちゃん。あるいはミガ小。「がま」は沖縄本島の「小」(ぐゎー)に対応。(参照)「漲水のクイチャー」。 一、中立ぬみががまよ(ササ)原立ぬどぅぬすみゃよ (デンヨー デンヨー シトゥルクデン ササ シターリヨーヌ ユイヤナ) なかだてぃぬ みががまよ(ささ)ぱるだてぃぬ どぅぬすみゃよ (でんよー でんよーしとぅるくでん ささ したーりよーぬ ゆいやな) nakadati nu migagama yoo (sasa)parudati nu du nu sumya yoo (deNyoo deNyoo shiturukudeN sasa shitaari yoo nu yui yana) 囃子言葉は以下省略 ◯中立のミガガマよ 原立の私の恋人よ 語句・どぅぬすみゃ 私の恋人。<どぅ<どぅー。私。+ぬ。の。+ すみゃ<染みゃー。心を染めたもの。恋人。 二、中立道ぬやなかちか あっつぁやふみまい通まちよ なかだてぃんつぬやなかちか あっつぁやふみまいかゆまちよ nakadati mtsu nu yana kachika attsa ya humimai kayumachi yoo ◯中立の道が悪ければ 下駄を履いて通いなさい 語句・んつ 道。・あっつぁ 下駄。 三、原立道ぬやなかちか 木ぬ葉や折りまい通まちよ ぱるだてぃんつぬやなかちか きぬぱやぶりまいかゆまちよ parudati mtsu nu yanakachika ki nu pa ya burimai kayumachi yoo ◯原立の道が悪ければ木の葉を折って置いて通いなさい   四、よなうす川んな布洗い 中立川んな糸洗い よなうすがーんなぬぬあらい なかだてぃがーんなかせあらい yonausu gaa Nna nunu arai nakadati gaa Nna kase arai ◯「世直す」井戸では布洗い 中立井戸では絹糸を洗い 語句・がー 井戸。「川」と当て字があるが「かー」は井戸であり、「川」は「かーら」。連濁により「がー」に。 宮古島の城辺町砂川の南側にあった部落、中立(なかだてぃ)に住んでいたミガ小さんと原立の役人(兼浜親)との恋を冷やかして歌われたものといわれている。 【歌詞について】 「島うた紀行」には、四番以下の歌詞も掲載されている。 四、世直りゃ井戸にん芋洗い 中立井戸んなかせ洗い 五、亀浜うやが手さずをば みががまいたむすみ 六、みががまがいたんむをば 亀浜うやが手さずどす 七、前立芋やうま芋よ 米芋やいばどうまかずよ という歌詞が紹介されていて、「亀浜親」となっている。 【囃子について】 「島うた紀行」では デンヨー デンヨー シトゥルクテン シターリヨーヌユイヤナ とあり、上掲の囃子とは少し違っている。 また宮古民謡について書かれた本によっては デンヨーデンヨーシタリタテン(サッサ) シターリヨーヌユーイヤナ と書かれたものもある。 【曲について】 本島の民謡「てんよー節」や、古典の「てんやう節」、それを元にして芝居などで歌われる「徳利小」の本歌だと思われる。 ちなみに古典の「てんやう節」は 庭の糸柳風にさそはれて 露の玉みがく十五夜御月  てんよ てんよ しとぅるとぅてん ささ はりよぬ ゆゐやな となっており、メロディーだけでなく囃子もそっくりである。

下千鳥 5

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下千鳥 さぎちじゅやー sagi chijuyaa 語句・さぎちじゅやー 舞踊曲「浜千鳥」(俗称;ちじゅやー)をくずして、恋や人や世の中の無常さ、遂げられない思いを歌詞に載せて歌う。何故「下げ」(さぎ)とつくかには、「弾き始めが低い音からなので」とか「リズムがゆっくりだから」などいくつか説があるが明確ではない。「弾き始め」を「浜千鳥」のように高い音からする歌者もいる。人気曲である「ちじゅやー」は「南洋浜千鳥」や「遊びちじゅやー」などのように、崩して歌われることが多い。 歌三線 山里ユキ 義理や苦しむぬ 我儘やららん ぬんでぃくぬ世界に義理ぬあゆが アキヨくぬ世界や情ねらん じりやくるしむぬ わがままやららん ぬんでぃくぬしけに じりぬあゆが あきよ くぬしけや なさきねーらん jiri ya kurushi munu wagamama yararaN nuNdi kunu shikee ni jiri nu 'ayu ga 'akiyoo kunu shikee ya nasaki neeraN ◯義理は苦しいもの わがままできない なんのためにこの世界に義理があるのか あわれ!この世界は情けはない 語句・じり 義理。「じり」を使った言葉には「じりだてぃ」(義理立て)。「じりざんめー」(義理や作法)【参考;「沖縄語辞典」国立国語研究所】(以下【沖辞】と略す)。・やららん できない。・ぬんでぃ なんのために。<ぬー 何。+んでぃ ための。 「んでぃ」には「①と。引用句を受ける」、「②ために」【沖辞】。の二つの意味がある。・しけー 世界。「世間」は「しきん」。・あきよ 「[文]ああ。あわれ。」【沖辞】。「あきさみよー」とか「あきよー」などの感嘆語の「あき」とも関連している。 飛び鳥やでぃかし 思れ自由なゆい 羽根ん無ん我身や 思たびけい ちりなさや我身ぬ姿 とぅびとぅいやでぃかし うむれーじゆなゆい はにんねーんわみや うむたびけい ちりなさや わみぬしがた tubi tui ya dikashi 'umuree jiyu nayui haniN neeN wami ya 'umuta bikei chirinasa ya wami nu shigata ◯飛ぶ鳥はうまくやってる 思えば自由になるもの 羽根もない私はただ思うだけ つれない事だよ 私の姿は 語句・でぃかし 「うまく行くこと。成功。利益を得ること、幸福を得ることなど」【沖辞】。・うむれー 思えば。・びけい ばかり。・ちりなさや つれないことだ。寂しいことだ、くらいの意味で、よく琉歌に使われる。 山里ユキさんは歌うときに「ヤレ」という囃子言葉を次のように入れて歌われている。 じりやくるしむぬ わがま(ヤレ)まやららん ぬんでぃくぬしけに じりぬ(ヤレ)じりぬあゆが アキヨくぬしけやなさきねらん とぅぶとぅいやでぃかし うむれ(ヤレ)じゆなゆい はにんねんわみや うむた(ヤレ)うむたびけい ちりなさやわみぬしがた YouTubeにアップされている。

ナークニー (嘉手苅林昌)

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宮古根 歌三線 嘉手苅林昌 (CD「おきなわの心」より) 《囃子言葉は全て省略》 今日ぬ夜ながたや遊でぃ暮らすしが 明日ぬ暁ぬ芋やちゃすが ちゅーぬゆながたや あしでぃくらすしが あちゃーぬあかちちぬ んむやちゃーすが chuu nu yunagata ya 'ashidi kurasushiga 'achaa nu 'akachichi nu 'Nmu ya chaa suga ◯今日は一晩中遊んで暮らすが 明日の明け方の芋はどうするか? 語句・ゆながた 「終夜。一晩中。夜通し」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す。)。 ねーとぅけーとぅやてれ ぬんでぃ我が泣ちゅが 無蔵がたきまさい やてるなちゅる ねーとぅけーとぅやてれ ぬーんでぃわがなちゅが んぞがたきまさい やてるなちゅる neetukeetu yateree nuuNdi waga nachu ga Nzo ga taki masai yateru nachuru ◯似合いであるのに なんで私が泣くのか お前が背の丈(格)が上だから それで泣いてる 語句・ねーとぅけーとぅ 「似合い。似たり寄ったり。同じ程度。甲乙なし。多くは、程度が低い場合にいう。」【沖辞】。・やてるなちゅる だからこそ泣いている。<やてぃ(…だから)+どぅ(強調。こそ。)+なちゅる(<なちゅん。泣く。の連体形。「どぅ」があると続く動詞は連体形になる「係結びの法則」。) 誰たゆてぃ咲ちゃが 奥山ぬ牡丹 人ん通わさん所なかい たるたゆてぃさちゃが うくやまぬぶたん ふぃとぅかゆわさんとぅくるなかい taru tayuti sachaga ukuyama nu butaN hwitu kayuwasaN tukuru nakai ◯誰を想って咲いているのか 奥山の牡丹 人も通わない所で 語句・なかい …に。の中に。 くぬでぃ生ちざまぬ ないるむんやりば 夫や取てぃどぅきてぃ 我妻すしが くぬでぃ いちざまぬ ないるむんやりば うとぅやとぅてぃどぅきてぃ わとぅじすしが kunudi 'ichizama nu nairumuN yariba utu ya tutidukiti wa tuji susiga ◯企てて呪うことができるものであれば (好んで生き方がなるものであれば)夫と別れさせて私の妻にするのだが 語句・くぬでぃ企てて。計画して。<くぬぬん。 「①考案する。立案する。計画する。」「②企てる。策謀する。」【沖辞】。あまりいい言葉ではなさそうだ。・いちざま のろうこと。「①生霊。生きている人の怨霊。恨みのある人にとりついてわざわいをなす。②のろい。のろうこと。」【沖辞】。つまり「企ててや呪いができるものであれば」。または、文字通り読んで「好んで生き様がなるもにであれば」とも取れる。 想てぃ呉てぃ果報し 他所知らち呉るな たんでぃ胸内にとぅみてぃたぼり うむてぃくぃてぃ かふーし ゆすしらちくぃるな んにうちにとぅみてぃたぼり 'umuti kwiti kahuushi yusu shirachi kwiruna taNdi Nni'uchi ni tumiti tabori ◯愛してくれてありがとう 他人に知らせないでくれよ お願いだから胸の内に止めておいてください 語句・かふーし 「ありがとう。目下への感謝の語。」【沖辞】。・たんでぃ 「どうか。どうぞ。たって。懇願・哀願する時に用いる」【沖辞】。・んに 胸。・とぅみてぃ 止める。宿らせる。<とぅみゆん。 雨ぬ降てぃ晴りてぃ 通ゆたしが前ぬ井戸 今や人ちりてぃ 身ぬ毛立ちゅさ あみぬふてぃはりてぃ かゆたしがめーぬかー なまやふぃとぅちりてぃ みぬきだちゅさ 'ami nu huti hariti kayutashiga mee nu kaa nama ya hwitu chirithi minuki dachyusa ◯雨が降っても晴れても 通ったけど 前の井戸 今は人がいなくなって 身の毛立つほど寂しい 語句・かー 井戸。「川」は「かーら」。 馬やむげーはきてぃ 牛や鼻ふがち 哀りてーひゃ山羊小 ま首くんち んまや むげー はきてぃ うしや はなふがち あわりてーひゃー ふぃーじゃーぐゎー まくびくんち 'Nma ya mugee hakiti 'ushi ya hana hugachi 'awaritee hyaa hwiijaa gwaa makubi kuNchi ◯馬はオモガイを着け、牛は鼻に穴をあけ、哀れなのはなあ 山羊で 首そのものを縛られて 語句・むげー「おもがい。馬具の一つ。馬の頭からくつわにかける組みひも。また駄馬には木製のものを用いる」【沖辞】。・ふがち 穴をあけ。<ふがしゅん。「(穴が)あく。ほげる(九州方言)。」【沖辞】。・ひーじゃーぐゎー 山羊。・ま 真の。「まくび」直接、首に、くらいの意。・くんち 強く縛られて。 山原ティーマトゥー やんばる てぃーまとぅ yaNbaru tiima tu ◯山原の「汀間と」 語句・やんばる てぃーまとぅ「汀間と」は有名な舞踊曲だが、民謡としてこの曲を使い、即興に歌詞をのせる遊び歌を「山原ティーマトゥー」と呼ぶ。 毛遊び小すしや延ばち二月までぃ霜月になればあんまふぃれ小 もーあちびぐゎー すしや ぬばちたちちまでぃしむちちになりば あんまふぃれーぐゎー moo'ashibigwa sushi ya nubachi tachichi madi (yoo) shimuchichi ni nariba 'aNma hwireegwaa ◯毛遊びをすることは延ばしても二ヶ月まで 11月になれば お母さんとの付き合い(みたいな感じに) 語句・しむちち 霜月。旧暦の11月。・ふぃれ 交際 つきあい <ふぃれー。「あんまふぃれーぐゎー」とは、恋人との付き合いではなく「お母さんとの付き合い」みたいになるという意味か。 石川比嘉恩納 伊野波と嘉手苅と楚南 山城知花松本越来美里屋良嘉手納野国野里 いしちゃ ふぃじゃ うんな ぬふぁ とぅ かでぃかる とぅ すなん やまぐしく ちばな まちむとぅ ぐぃーく んじゃ とぅ やら かでぃな ぬぐん ぬじゃとぅ 'ishicha hwija 'uNna nuhwa tu kadikaru tu sunaN yamagushiku chibana machimutu gwiiku 'Nja tu yara kadina nuguN 'nujatu ◯石川比嘉 恩納伊野波と嘉手苅と楚南山城 知花松本 越来美里 屋良嘉手納 野国野里 語句・すべて地名。沖縄では地名を二つ連ねて呼ぶ習慣がある。ここでは15の地名があり、二つの組に分けると「嘉手苅」だけが独立する。歌い手が「嘉手苅林昌」だからという洒落か?そう言えば、この歌詞、他の歌手が歌ったものを私は知らない。 北谷からやしが 遊ばすみ桑江ぬ前 遊ばさんありば 戻てぃ行ちゅさ ちゃたんからやしが あしばすみ くぇーぬめー あしばさんありば むどぅてぃいちゅさ chataN kara yashiga 'ashiba sumi kwee nu mee 'ashiba saN'ariba muduti 'ichusa ◯北谷からの者であるが 遊ぶかい 桑江の前で 遊ばないというのなら戻っていくよ 語句・あしばすみ 遊ぶかい?・くぇー 桑江。北谷の隣村。  汝がマクなりば トートーメー小ちゃーすが あとぅや一門ぬ とぅいどぅさびる やーがまくなりば とーとーめーぐゎーちゃーすが あとぅや いちむんぬ とぅいどぅさびる 'jaa ga maku nariba tootoomee gwaa chaasuga 'atu ya 'ichimuN nu tui du sabiru ◯お前が腕白な奴になれば御位牌はどうするのか? 後は御一族の皆様が取ってくれるはず 語句・まく 「腕白。勇猛な者乱暴者。また、大したやつ。相当な者。有能な者。」【沖辞】。・とーとーめーぐゎー 「先祖の位牌」【沖辞】。通常は「嫡子」、長男がこの「とーとーめー」を引き継ぐ。 (CD「おきなわの心」)

スーキカンナー 2

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スーキカンナー 2 すーきかんなー suuki kaNnaa ◯惣慶、漢那(地名) 語句・すーきかんなー 惣慶と漢那。 共に金武間切(まじり。「村」に相当。)にある惣慶(すーき)と漢那(かんなー)という二つの地名を合わせて呼んだもの。沖縄では隣接する地名の「併称」はよくある。山内諸見里、越来美里・・等。似た地名が多いため、隣接する地名を二つ、三つとつなげて呼ぶことが多い、という説がある。 歌 知名定男 囃子 登川誠仁 (YouTube http://youtu.be/AWVzX-Jh2Es より筆者が聴き取り) 1、惣慶、漢那、金武からやいびーしが 我ーソーキん小こんそーらね 汝がソーキん小や わたゆい悪っさぬ 我バーキん小 こーんそーれー すーきかんなーちんからやいびーしが わーそーきんぐゎーこんそーらね やーがそーきんぐゎーや わたゆいわっさぬ わんばーきーんぐゎーこーんそーれー suuki kaNnaa chiN kara yaibiishiga ưaa sookiNgwaa kooNsooranee 'yaa ga sookiNgwaa ya watayui wassanu waN baakiiNgwaa kooNsooree ◯惣慶、漢那、金武から来ましたが私のソーキ(丸い笊)をお買いくださいますように。お前のソーキは「わたゆい」(不明)悪いので、私のバーキを買ってください。 語句・そーきんぐゎー 「ざる。竹を縦横に編み、回りを縮めた、丸いざるをいう。底が丸い。主として、野菜・穀物を入れるのに使い、目は比較的密なものが多い」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)(以下【沖辞】と略す)】。《図1》。そーき(笊)+ん(軽い強調)+ぐゎー(小さいもの、かわいいもの、軽蔑的なものにつく。接尾語)。「そーき」は竹で編んだまるいザル。野菜や穀物を入れるもの。目は密・こーんそーらね お買いくださいますように。こー<こーゆん「買う」。+ みそーら<みせーん 「なさる」の未然形。 +ねー。「(・・する)ように。(・・した)ごとく」。強くせまる言い方のようだ。・わたゆい 不明。笊(ざる)を編むときの竹の背(竹の外皮側)と腹(はら。わた。;内側)からきているのか。・わっさぬ 悪いので。<わっさん(形) 悪い。形容詞が「ぬ」で終わる時は原因の意味、「・・なので」。・ばーき「ざる。かご。底が四角で底を中心に丸く竹で編み上げたざるをいう。穀物・芋を入れる。目は密なものと粗なものといろいろある。」【沖辞】。《図2》。 2、我んや本部ぬ瀬底どぅやいびーしが ムンジュル笠小こんそーらね 汝が うぬ笠小や曲ぐいぬ悪っさぬ 我んクバ笠小こーんそーれー わんやむとぅぶぬしすくどぅやいびーしが むんじゅるがさぐゎーこんそーらね やーが うぬかさぐゎーや まぐいぬわっさぬ わんくばがさぐゎー こんそーれー waN ya mutubu nu shiiku du yaibiishiga muNjurugasagwaa kooNsooranee 'yaaga 'unu kasagwaa ya magui nu wassanu waN kubagasagwaa kooNsooree ◯私は本部の瀬底の者なんですが、ムンジュル(麦わら)笠をお買いくださいますように。お前のその笠は曲げ方が悪いから私のクバ笠を買ってください。 語句・むんじゅるがさ ムギワラ、麦藁で作った笠。《図3》・まぐい 曲げ方。 ・くばがさ クバの葉であんだ笠。《図4》「くば」とは「びろう(蒲葵)。しゅろ科の植物で、枝は無く、広い葉が長い柄につく。葉で、みの、笠、扇などを作る。霊地拝所に多い。biNrooとは似ているが、別種。」【沖辞】。 3、我んやコザぬアイスケーキ屋やいびーしが アイスケーキこんそーらね 汝や冬でぃん売りらん かまりみ 我ーアイスボンボンこーんそーれー わんやこざーぬ [あいすけーき]や やいびーしが [あいすけーき] こんそーらね やーや ふゆでぃん うりらん かまりみ わー [あいすぼんぼん] こんそーれー (括弧[]は外来語) waN ya koza nu aisukeekiya yaibiishiga aisukeeki kooNsooranee 'yaa ya huyu diN 'uriraN kamarimi waa aisuboNboN kooNsooree ◯私はコザ(現沖縄市)のアイスケーキ屋ですが アイスケーキをお買いくださいますように。お前は冬でも売られない 食べられまい?私のアイスボンボン買ってください。 語句・ふゆでぃん うりらん かまりみ ここが筆者はよく聞き取れず、意味もよくわからない。 4、我んや勝連、照間どぅやいびーしが 寝座敷筵こんそーらね 汝が筵小や わたあみ悪っさぬ 我んにくぶく小こんそーれー わんや かっちん てぃるまどぅやいびーしが にざしちむしろーこんそーらね やーが むしるんぐゎーや わたあみわっさぬ わん にくぶくぐゎーこんそーれー waNya kacchiN tiruma du yaibiishiga nizashichimushiroo kooNsooranee 'yaaga mushiruNgwaa ya wata'ami wassanu waNnikubukugwaa kooNsooree ◯私は勝連は照間の者なんですが寝座敷ムシロをお買いくださいますように。お前のムシロは「わたあみ」(不明)悪いので、私の猫伏買ってください。 語句・にざしちむしろー 寝座敷ムシロは。むしる。+や。→むしろー。《図5》。・にくぶくぐゎー 猫伏。「藁縄で編んだむしろ。農家で用いる。」【沖辞】。本土では「ねこ、ねこ座、ねこぶく、ねこぶき、にくぶく」などともいう。沖縄では昔、この上に寝座敷ムシロをひいて寝たり、また泡盛の原料のタイ米を蒸してこの上に置いて黒麹をまいたりした。《図6》。 5、我んや呉屋村 上地どぅやいびーしが ミーバーラーん小こんそーらね 汝がミーバーラーん小 曲いぬ悪っさぬ 我ウーバーラー小こんそーれー わんやぐやむら いいちどぅやいびーしが みーばらんぐゎーこんそーらね やーが みーばらんぐゎー まぐいぬ わっさぬ わーうーばーらーぐゎーこんそーれー waN ya guya mura 'wiichi du yaibiishiga miibaaraaNgwaa kooNsooranee 'yaa ga miibaaraaNgwaa magui nu wassanu waa uubaaraa gwaa kooNsooree ◯私は呉屋村の上地の者ですが、ミーバーラー(目の荒い竹かご)を買わないですかね。お前のミーバーラーは曲げ方が悪いので、私のウーバーラー(芭蕉の糸を入れる竹かご)を買ってください。 語句・みーばーらー「目のあらい竹かご。目かご。鶏を飼う場合などに用いる。」【沖辞】。《図7》。・うーばーらー 「芭蕉布を績(う)んで入れる竹のかご。haaraは竹で編んだかご。」【沖辞】。《図8》 6、我んやマチうてぃ履物売やーやいびーしが 雨靴小こんそーらね 汝が雨靴小やどぅくはに悪っさぬ 我革サバ小んこんそーれー わんや まちうてぃ はちむんうやーや やいびーしが [あまぐつ]ぐゎーこんそーらね やーが[あまぐつ]ぐゎーや どぅくはにわっさぬ わんかーさばぐゎー こんそーれー waN ya machi uti hachimuN 'uyaa ya yaibiishiga 'amagutsugwaa kooNsooranee 'yaa ga 'amagutsugwaa ya duku hani wassanu waN kaasabagwaa kooNsooree ◯私は市場で履物売りですが、雨靴を買わないですかね?お前の雨靴はひどく(水の)撥ねが悪いので、私の革ぞうりを買ってください。 語句・まち 市(いち)。・どぅく「あんまり。ひどく。過度に。」【沖辞】。・かーさば 「革ぞうり。雪駄」【沖辞】。 7、山内諸見里ぬ桃売い姉小やいびーしが 山桃小やこんそーらね 汝が山桃小やあおさぬかまらん 我ん赤桃小こんそーれー やまちむるんざとぅぬ むむういあんぐゎー やいびーしが やまももぐゎーやこんそーらね やーが やまむむぐゎーや あおさぬ かまらん わんあかむむぐゎーこんそーれー yamachi murumizatu nu mumu'ui'aNgwaa yaibiishiga yamamumugwaa ya kooNsooranee 'yaaga yamamumugwaa ya 'aosanu kamaraN waN 'akamumugwaa kooNsooree ◯山内、諸見里の桃売り娘ですが山桃をお買いくださいますように。お前の山桃は青くて食べられない。私の赤桃を買ってください。 語句・むむういあんぐゎー 「楊桃(むむ)を売る娘。宜野湾村の大山、真志喜あたりの娘たちが買い出しに行き、首里・那覇などを売り歩いた。」【沖辞 】。「楊桃」とは「山桃」の事。中国語では「スターフルーツ」の意味となるので注意。参考;Wikipedia 山桃。「ヤマモモ」《図9》・あおさぬ ウチナーグチでは「おーさぬ」だが、知名少年は「あおさぬ」と歌っている。青いので。<おーさん。青い。未熟。の原因形。 8、我んや小禄ぬ肉売いアバ小やいびーしが 我ん牛肉小こんそーらね 汝が牛肉小やくふぁさぬかまらん 我んウチナガニー小こんそーれー わんや うるくぬ ししういあばーぐゎーやいびーしが わん[ぎゅうにく]ぐゎーこんそーらね やーが[ぎゅうにく]ぐゎーや くふぁさぬ かまらん わんうちながにーぐゎーこんそーれー waN ya 'uruku nu shishi 'ui 'abaagwaa yaibiishiga waN gyuunikugwaa kooNsoorane 'yaa ga gyuunikugwaa ya kuhwasanu kamaraN waN 'uchinaganiigwaa kooNsooree ◯私は小禄の肉売り姉さんですが私の牛肉をお買いになりますように。お前の牛肉は固くて食べられない。私のロース肉を買ってください。 語句・あばーぐゎー「姉。ねえさん。農村で用いる語。首里では、士族については?Nmii、平民については?aNgwaaという」【沖辞】。ここでは直訳のまま。・しし 「多くは食肉をいう」【沖辞】。本土でも古代「肉」のことを「しし」と呼び、肉を食べる動物を表す語に転じた。沖縄では現在でも「肉」を意味する。・くふぁさぬ 固いので。<くふぁさん。固い。・うちながにー 「牛・豚の背にある上等な肉。背肉。ロース。」【沖辞】。沖縄県畜産振興公社のホームページでは「ヒレ」とある。ロースとヒレ、どちらであろうか。《図10》 9、我んやゆに村塩売やーややいびーしが 我ん塩ん小こんそーらね 汝が塩ん小やしぶからじゅーさぬ 黒砂糖小こんそーれー わんや ゆにむら まーすうやーやいびーしが わんまーすんぐゎー こんそーらね やーがまーすんぐゎーや しぶからじゅーさぬ くるざーたー ぐゎーこんそーれー waN ya yunimura maasu'uyaa yaibiishiga waN maasuNgwaa koNsooranee 'yaa ga maasuNgwaa ya shibu kara juusanu kuruzaataagwaa kooNsooree ◯私は米村(場所は不明)塩売りですが、私の塩をお買いになりますように。お前の塩は渋辛いので黒砂糖買ってください。 語句・まーす まーしゅ、とも言う。・しぶからじゅーさぬ ぴたりのウチナーグチが見つからない。「しぷからさん」(塩辛い)。「からさん 」=「辛い。刺激性の辛さ(唐辛子・わさびなど)をいう。塩味についてはsipukarasaN、塩味が強いことはsjuuzuusaNという。」【沖辞】。「しぶさん」(渋い)。「しゅーじゅーさん」 (塩辛い)。いろいろあるのだが。。・くるざーたー黒砂糖。 10、我んや糸満 魚売い姉小やいびーしが グルクン小やこんそーらね 汝がグルクン小や匂いぬ悪っさぬ 我ん飛びイカ小こんそーれー わんや いちまん いゆういあんぐゎーやいびーしが ぐるくんぐゎーや こんそーらね やーが ぐるくんぐゎー や にうぃぬわっさぬ わん とぅびーいちゃぐゎーこんそーれー waN ya 'ichimaN 'iyu'ui'aNgwaa yaibiishiga gurukuNgwaa ya kooNsooranee 'yaaga gurukuNgwaa ya niui nu wassanu waN tubiichaagwaa kooNsooree ◯私は糸満 魚売り娘ですが、グルクンをお買いになられますように。お前のグルクンは匂いが悪いので、私の飛びイカを買ってください。 語句・いゆ 魚。・ぐるくん 「魚の名。たかべに似て、やや大きい。肉が豊かで柔らかく、美味」【沖辞】。たかさご。 [フエダイ科タカサゴ属の熱帯魚]形も味もアジに似ている。腹部が赤い。新鮮ならば刺身、カラアゲにすると旨い。・とぅびいちゃーぐゎー 飛イカ。トビイカ 。とぅび(飛び)+いちゃー(イカ。烏賊)アカイカ科。 海面を20メートル以上も飛ぶそうだ。写真は「スーキカンナー」参照。 【 歌の背景 】 「スーキカンナー」 1958年、知名定男さんが13歳の時に録音したもの。 これが知名定男さんの衝撃的デビューだったらしい。 登川誠仁さんが「素人のど自慢大会」で歌う知名定男少年を見つけた時のエピソード。 その時の審査員には登川誠仁さん以外に嘉手苅林昌さんがいた。二人で話し合って「二位にしよう」と。一位にすると話題になってどこかに引き抜かれる恐れがあったからだという。 歌い終わって二位にさせられた定男少年をちゃっかり連れて帰ったのは登川さんだった。 さて、この「スーキカンナー」は登川誠仁さんが古い曲を早弾きに作り直して、さらに歌詞を変え付け加えている。 普通に歌われている本歌「スーキカンナー」の歌詞と訳はこちら http://taru.ti-da.net/e726476.html。 【 疑問点 】 YouTubeのものを筆者が聴き取りしたり、いろいろな方に教えていただいて上のように訳したが、まだしっくりいかないところがある。 ご意見があれば伺いたい。 1番 わたゆい おそらく、本歌の「スーキカンナー」でも「まぐい」(曲げ方)、「縁うち」(縁の処理の仕方)などという表現がでてくるように、製作過程やできた状態の様子を言っているのだろう。 箕(みー)は割った竹で編むのだが、竹の腹側のザラザラした方を表面にすることで摩擦を生み、穀類などの殻と実を分けるのに使う。その腹側の事を「ワタ」というようである。 (箕。これはマドゥヒと呼ばれている。「沖縄の民具」(上江洲均著)を参考に筆者描画) 「わたゆい」はこの「ワタ」(竹の内側)の「結い方」の意味かもしれない。 4番 わたあみ こんどは「筵」(ムシロ)についてであるが、照間のムシロは現在も作られていて、 原料は「い草」である。現在は「畳表」も多く生産されている。 この畳表を作っている生産者に電話で、「わたあみ」という工程ないし言葉をご存知か伺ってみた。 帰ってきた回答は「ない」ということだった。 ちなみに、昔はこのムシロも畳表(「琉球畳」と名のつくもの)も、「七島藺」(しちとーいー)というい草の種類から作られていたが、今ではほぼ沖縄で栽培されていない。 代わりに大分など九州での栽培が盛んになっている。 その大分の畳表生産者にも電話で伺ってみたが 「聞いたことはない。昔の沖縄の生産方法ではなく独自の方法で生産しているから」 という回答だった。 「わたあみ」と聞き取れるこの部分も明確にはわからない。 おそらく、上述の「わたゆい」と似たような工程や状態の呼び名なのだろう。 【 歌中の売り物のイメージ 】 この歌を工工四に採譜して歌っているが、歌詞に出てくる「ソーキ」や「バーキ」、「ムンジュル笠」などの古民具のイメージがないと歌えない。 それで「沖縄の民具」(上江洲均著)などを参考に、歌詞に出てくるもののイメージを描いてみた。(図1〜図8までが「沖縄の民具」を参考にした。) (図1)ソーキ 「ソーキはカラ竹(まだけ)や苦竹(ほうらいちく)で作り、一般には洗った野菜や米をあげるのに用いられる」(同書) 「ソーキ」という名前は「『出雲 隠岐の民具』(石塚尊俊編)の中にも同じ名称で紹介されていることからすれば、沖縄本来のものではなく、外来のものである感じが強い」(同書)。 中国語にも米を研いだり野菜を洗ったりするための竹製品を呼ぶ時に「筲箕 shāojī」(シャオジャー)という言葉があると屋良卓也氏から教えていただいた。 ちなみに「沖縄の民具」にはいろいろな呼称が紹介されている。 宮古 サウキ 竹富 ソーギャー 与那国 ティースギ 奄美諸島 名瀬市 ソーケ 徳之島伊仙町、沖永良部島 セー 名護 ユンヌ(ユンヌとは与論島の事。与論島から来たものという意味か) 宮古島のサウキ、竹富のサウジャーの呼称が、中国語のシャオジャーとの深い関連を彷彿とさせるが、「ソーキ」の語源が中国語にあるのかどうかは専門家の研究を待ちたい。 豚肉のあばら肉を「ソーキ」というのは、この竹細工の形に肋骨が似ているからである。 (図2)バーキ 「バーキは頭上運搬具として使用することが多く沖縄本島大部分や宮古八重山へかけて広く用いられている。」 「目が粗いので、主にイモを入れて運び、あるいは洗うのに用いる。」(「沖縄の民具」より) (図3)ムンジュル笠 「ムンジュル、ムンズル、ムンジャラは麦ワラのことで、麦ワラ製の笠をムンジュルガサといっている。」「日笠として利用され、雨笠にはむかない。」(「沖縄の民具」より) (図4)クバ笠 「クバの葉製の笠は、今も広く用いられていて、北は奄美トカラから南は与那国波照間まで、まさに琉球全域で使用されている。」(「沖縄の民具」より) (図5)ムシル 「一般に藺筵《いーむしる》は三角藺《さんかくいー》すなわち七島藺《しちとーいー》でつくるが、畳表にはビーグ(備後藺)を用いた。筵用はすべて七島藺で、イーまたはビー、ウィーなどといった。古くはこの藺草を二つに割いて畳表に用いたようで、これを裂藺と呼ぶが、そのせいひんを『琉球畳』といった。」(「沖縄の民具」より。《》のよみがなは筆者。) 「琉球畳」は「縁が無い畳」という分類が最近はされているようだが、昔はこの七島藺を使っているものだけをそう呼んだ。 沖縄での七島藺栽培は現在ほとんど無いらしいが、照間の畳生産者の方は栽培を試みて本物の「琉球畳」の復活を目指しているともおっしゃっていた。 (図6)ニクブク 「ニクブクは、敷物または干物用の代表的存在であった。藁でつくるが、職人を要するもにで、注文で買ったり、雇って作らしたりした」(「沖縄の民具」より) (図7)ミーバーラー 「養鶏用籠で、主にタウチー(軍鶏)用である。」(「沖縄の民具」より) (図8)ウーバーラー 「ウンゾーキ、ウーバーラーの『ウー』は、苧芭蕉すなわち糸芭蕉のことで、『そーき』『ハーラ』は竹籠のある形態をあらわす名称である。」(「沖縄の民具」より) (図9)ヤマムム ヤマモモ科ヤマモモ属の木。6月頃に甘酸っぱい赤黒い実がなる。果実酒にしたりする。 (図10)ウチナガニー 公益財団法人 沖縄県畜産振興公社ホームページhttp://ma-san.jp/ ここでは「ヒレ」と書いてある。

あやぐ節

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あやぐ節 あやぐぶし 'ayagu bushi 語句・あやぐぶし または「宮古ぬあやぐ」(みゃーくぬあやぐ)とも呼ばれる。「あやぐ」は「美しい言葉」つまり「うた」。「[綾言〔あやごと〕美しく妙なる詞]あやぐ〔宮古島の伝統歌謡〕aaguとも;Toogani 'ayaguなど」【琉球語辞典】(半田一郎著)。だから「あやぐの歌」と訳すと「歌の歌」となりおかしい事になる。 歌 知名定男 (「島唄百景 Disk 1 祝儀曲・舞踊曲」 より筆者聴き取り) 一、道ぬ美らさや 仮屋ぬ前 あやぐぬ美らさや 宮古ぬあやぐ イーラヨー マーヌヨー 宮古ぬあやぐ エンヤラースーリ みちぬちゅらさや かいやぬめー あやぐぬちゅらさや みゃーくぬあやぐ (いらよーまーぬよー)みゃーくぬあやぐ(えんやらーすーり) michi nu churasa ya kaiya nu mee 'ayagu nu churasa ya myaaku nu 'ayagu ('ira yoo maa nu yoo )myaaku nu 'ayagu (eNyara suuri) 《()は囃子言葉。以下省略する》 ◯道が美しいのは仮屋の前 歌が美しいのは宮古の歌 語句・ちゅらさ 「美しい。きれいである。また、清潔である。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。「清らさ」(きよらさ)が変化して出来た言葉である。 二、手拭ぬ長さや まち長さ 庭に植てるガジマル木ぬ 下葉ぬ長さ てぃーさじぬながさや まちなげさ にわにうぃーてるがじまるぎぬ しちゃふぁぬながさ tiisaji nu nagasa ya machi nageesa niwa ni 'wiiteeru gajimaru gii nu shichahwaa nu nagasa ◯手ぬぐいの長さは待ち長さ(と同じ)。庭に生えているガジュマル木の下葉(気根)の長さのようだ 語句・てぃーさじ 手ぬぐい。昔は女性が織って好きな男性に渡した「恋の証」。・まち 待つ。「なぎ」(長さ)と歌ったものもよくある。・うぃーてーる 生えている。<うぃーゆん。①植える。②「成長する。発育する。大きくなる」【沖辞】。ここでは②であろう。・しちゃふぁー 下の葉、つまりガジュマルの枝や幹から下にのびる気根(ヒゲのような根)だろう。「しちゃばー」という歌詞もある。 三、うばが家とぅ ばんたが家とぅ隣やりば 今日ん見り 明日ん見り かなし里よ うばがやーとぅ ばんたがやーとぅ とぅないやりば ちゅーんみり あちゃーんみり かなしさとぅよ 'uba ga yaa tu baNta ga yaa tu tunai yariba chuuN miri 'achaaN miri kanashi satu yoo ◯あなたの家と私の家が隣どうしならば 今日も見えて(会って)明日も見えるのに 愛しい貴方よ 語句・うば お前、あなた。<「っゔぁ」。宮古語、ミャークフツのウチナーグチ表現。発音記号で「vva」と表される。「図説 琉球語辞典」(中本正智著)によると、宮古語で「 あなた」ないし「君」に当たる語句は「ゥ゛ゥ゛アー」vvaaとも記されている。・ばんた 私達。宮古語、ミャークフツで「私達」。・が の。・かなし 愛しい。 四、宮古から 船出じゃち 渡地ぬ前ぬ浜に しぐはいくまち みゃーくからふにんじゃち わたんじぬ めーぬはまに しぐはいくまち myaaku kara huni 'Njachi wataNji nu mee nu hama ni shigu hai kumachi ◯宮古島から船を出し 渡船場の前の浜にすぐ走りそこに居続けて 語句・んじゃち 出して。<んじゆん。出る。・わたんじ 「①渡し場。渡船場。②[渡地]那覇にあった遊郭の名」 【沖辞】。ここでは那覇三大遊郭の一つの「渡地」というより、一般的な渡船場のことだろう。・しぐ すぐ。・はい すぐに。はゆん(走る)の意味か、はい(早い)の意味か曖昧だが、「すぐに」と訳した。・くまち 籠って。居続けて。<くまゆん。籠る。居続ける。 五、沖縄いもらば 沖縄ぬ主 うてぃんだぬ水に あみさますなよ ばんたがかじゃぬ 美童匂いぬ うてぃがすゆら エンヤラースリ うちなーいもらば うちなーぬしゅ ウ亭だぬみじに あみさますなよー ばんたがかじゃぬ みやらびにういぬ うてぃがすゆら 'uchinaa 'imooraba 'uchinaa nu shu 'utiNda nu miji ni 'amisamasuna yoo ◯沖縄に行かれましたら沖縄の主 落平の水で行水をしてさまないでね。私たちの匂いが、娘の匂いが落ちるかもしれないから。 語句・ ・あみさますな 浴びてさますな。あみゆん。「水浴する。水浴びをする。行水する。」【沖辞】。+ さますな。<さましゅん。覚ます。冷ます。酔いをさます。の否定命令。・かじゃ 「におい。niwiともいう。」・みやらび 「娘。おとめ。『めわらべ』に対応する。農村の未婚の娘をいう。」【沖辞】。「美童」は当て字。「み」は「女」の意味。・うてぃがすゆら 落ちるのではないか。「が」は「疑わしさを表す文に用いて、文の疑わしい部分につく。あとを推量の形(aで終わる)で結ぶ。」【沖辞】。 六、なかんガラシぬ 声聞きば 生りらん先からぬ 縁がやたら なかんがらしぬ くいちきば んまりらんさちからぬ いんがやたら nakaN garashi nu kui chikiba 'NmariraN sachi kara nu yiN ga yatara ◯鳴かないカラスの声を聞いたので あなたとは生まれる前からの縁があったのでしょうか 語句・がらし 「からす。凶鳥とされ、夕方家の上を鳴いて飛ぶのを見ると、iikutu katari(よいことを語れ)と呪文をとなえる」【沖辞】。・いんがやたら 縁であったのか。「縁」(いん、ゐん、yiN, 声門破裂音無し)は発音に注意し「犬」(いん、'iN、声門破裂音有り。)と区別する。 「宮古のあやぐ」とも呼ばれる。 ここではCDのタイトルに従い「あやぐ節」とした。 宮古島の民謡ではなく、本島民謡として歌われている。 エイサーの地謡曲としても歌われることが多い。 宮古民謡の工工四にもすこし違う歌詞で載っているものもあるので そちらはまた別に取り上げたい。 【歌の背景】 「沖縄ぬ主」つまり沖縄から来た役人または船員の男性と、宮古島の「みやらび」(娘)たちとの熱い恋の思いを歌ったものである。 この「あやぐ節」は「トーガニアヤグ」を基にしてつくられたと書かれたものがある。 作者、時代が明確でない場合それを証明するのは困難である。 それはあきらめて、曲がどれだけ似た音階でできているかを見ることにしよう。 沖縄民謡、宮古民謡、八重山民謡には 【沖縄音階】;ドミファソシ(レとラが無い)の音で構成されたもの。 【律音階】;ドレファソラ(ミとシがない)。 そしてそれが混合されたもの、また大和の民謡音階のものもある。 例えば、沖縄音階100パーセントの曲(遊びションガネ、だんじゅかりゆし、など)もあれば、 ほぼ沖縄音階でできているが、時々「レ」などの音が入り個性的な曲(アッチャメー小など)になっているものもある。 「宮古民謡工工四」(與儀栄巧編)で「トーガニアヤグ」の三線のツボ(ツィブドゥクル)を調べると 四を(ド)として、中(ミ)、工(ファ)、五(ソ)、七(シ)、八(ド) 一個だけ例外として、上(レ)が入っている。 工工四に表示されたツボ数66個に対し1個が例外。1.5%。 音階から見ると「トーガニアヤグ」は宮古民謡で数少ないほぼ沖縄音階の曲である。 では「あやぐ節」はどうか。 同様にツボを見ると、上が5個入っている。 ツボ数100に対し例外が5個。5%。 音階を見るとトーガニアヤグもあやぐ節もほぼ沖縄音階でできた曲だといえる。 さらに、歌持ち(前奏)だけを見てみよう。 一見違う曲のように聞こえるが (トーガニアヤグ 中 工七`五 七 四 五七`四 (あやぐ節) 四 上中`工 中 五 七 四 五七`四 後半の《五 七 四 五七`四》が同じである。 音階、歌持ちにおいて二つの曲はよく似た曲であるということは言える。 ちなみに、沖縄本島の「ナークニー」が「トーガニアヤグ」からきているという説も、音階からみると説得力が出てくる。 ナークニーを代表する曲の一つ、「本部ナークニー」を見ると、 曲調として「二つの山」があって 《七、八》という部分が二箇所あり、歌もここが一番高くなる。 「トーガニアヤグ」では《八◯八》が二箇所、 同様に歌も一番高い部分である。 「あやぐ節」では《七四八四八》、《七四八四七》という部分が出てくる。 曲の構成を見ても、よく似た作りをしている。 (もっとも、一節が上句、下句でできているから二つの山があるという曲は少なくない) そして「あやぐ節」が本島の伝統芸能エイサーの曲として人気が高い要因のひとつに 沖縄音階の濃さもあるのかもしれない。 【仮屋ぬ前】 一番で「道ぬ美らさや 仮屋ぬ前 」と歌われている「仮屋」とは、ここだといわれている。 (Google MAPより) 那覇港のすぐ近くにある。 薩摩藩在番奉行所跡 《那覇市西1ー2ー16》 そこには説明板がある。 (2014年10月筆者撮影) そこにはこう書かれている。 《在藩仮屋、大仮屋ともいう。1609年の島津侵入の後薩摩藩が出先機関として1628年に設置した。以来1872年までの250年間、琉球支配の拠点となっていた。在番奉行や附役など約20人が常勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理に当たった。1872年の琉球藩設置後、外務省ついで内務省出張所となり、1879年沖縄県設置(廃藩置県)で仮県庁、1881年から県庁となって1920年に泉崎(現在地)へ移転するまで県政の中心となっていた。 奉行所の前は(道の美らさや仮屋ぬ前」と唄われ、那覇四町の大綱引きもこの通りで行われた。掲げた「那覇綱引き図」の中央が奉行所で見物する役人が書かれている。》 【落平の水】 五番で、 《沖縄いもらば 沖縄ぬ主 うてぃんだぬ水に あみさますなよ ばんたがかじゃぬ 美童匂いぬ うてぃがすゆら 》 と歌われている「落平ぬ水」は、現在も那覇市、奥武山公園の西側の山下町大通りに面した斜面の下にある樋川跡である。 筆者はそこに行ったことがないので、Googleのストリートビューで。 そこにある説明板にはこう書かれている。 《 那覇港湾内の奥武山(おうのやま)に向かい合う小禄(おろく)の垣花(かきのはな)にあった樋川(ヒージャー)跡。樋川とは、丘陵の岩間から流れ落ちる湧水を、樋を設けて取水する井泉のこと。  落平は崖の中腹から流れ出て、小滝のように崖下の漫湖(まんこ)の水面に注いでいた。また、落平とその背後の丘陵の松林は、漢詩や琉歌で詠まれるなど那覇の名勝で、楊文鳳(ようぶんほう)(嘉味田親雲上光祥(かみたペーチンこうしょう))は、「落平瀑布(ばくふ)」と題する漢詩を詠んでいる。  那覇港に出入りする船は、朝から夕方まで落平に参まり、取水のため、先を争って口論が絶えなかったという。中国からの冊封使(さっぽうし)一行の来琉を控え、落平を調べると、樋が壊れ、水量が減っていたため、泉崎村(いずみざきむら)の長廻筑登之親(ながさくチクドゥンペーチン)雲上等36人の寄付によって、1807年に落平の樋を修理し、さらに60間(約108m)程東に、新しい樋を設け、新旧2本の樋で給水に供したという(「落平樋碑記(ひひき)」)。  浮島(うきしま)と呼ばれた那覇は、周りを海に囲まれているため、井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかったという。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、県庁所在地として人口が増加した那覇では、水問題が一層深刻となっていた。そのため、大きな水桶2 ~ 3個に注いだ落平の水を伝馬船(てんません)で那覇に運び、それを女性がてんびん棒にかついで売り歩く水商売が繁盛したという。明治期以来、水道敷設計画は何度も持ち上がっていたが、1933年(昭和8)に至って念願の水道が敷かれ、水道普及により、水商売も姿を消していった。  終戦後、米軍の軍港整備にともない、那覇港南岸の垣花が敷き直されたが、そこから出た土砂や、那覇港浚渫(しゅんせつ)の土砂を用いて、1957年(昭和32)頃、落平と奥武山の間約4,000坪が埋め立てられ、陸続きとなった。水が湧き出る落平の岩肌は残されたものの、一帯は宅地化が進んだため、落平の水量も減少した。現在では、岩肌からしみ出る程度となっており、1807年に新たに造られた樋川は、拝所となっている。》 落平の水が現在ではわずかな水量らしいが、昔はかなりの水量があったようである。 次回の訪沖ではここには必ず行かねばならない。 「あやぐ節」に出てくる「仮屋」の跡地と、そこからそう遠くはない「落平の水」を見ながらこの歌に込められた思いをもう一度味わってみたいものだ。

宮古のあやぐ(宮古民謡)

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宮古のあやぐ みやくぬあやぐ miyaku nu 'ayagu (「宮古民謡工工四」與儀栄巧編から) 一、道ぬ美らさや假屋ぬ前 あやぐぬ美らさや宮古ぬあやぐ イラヨーマーヌユー 宮古ぬあやぐ エンヤラスゥリ みちぬちゅらさや かいやぬめー あやぐぬちゅらさやみやくぬあやぐ [いらよーまーぬゆー みやくぬあやぐ えんらやすーり] michi nu churasa ya kaiya nu mee 'ayagu nu churasa ya miyaku nu 'ayagu ['ira yoo maa nu yuu miyaku nu 'ayagu] ([ ]は囃子言葉。以下省略) ◯道が美しいのは仮屋(薩摩藩在番奉行所の事)の前。歌が美しいのは宮古の歌だ。 (詳細は「あやぐ節」を参照) 二、宮古女ぬ心情深さ 池間岬巡るまでん ただ立ちどうし みやくいなぐぬちむぶかさ いきまざきみぐるまでぃん ただたちどーし miyaku yinagu chimi bukasa 'ikimazaki migurumadiN tada tachidooshi ◯宮古女は思い遣りの深いことだ!池間岬を巡るまでもずっと立ち通しだ 語句・ ちむ 「心。心情。情。」【沖縄語辞典(国立国語研究所)】(以下【沖辞】と略)。・ふかさ なんと深いことよ!形容詞が「さ」で終わる時は感嘆の表現。・いきまざき この工工四には「いけまざき」とフリガナがあるが沖縄でも宮古でも「いきま」または「いちま」が「池間」の呼称だろう。この岬が「西平安名崎」を指しているのか、どこなのかは不明。「平安名崎」は、東も西も昔は「ピャウナザキ」と呼んだ(「地名を歩く」南島地名研究センター編著)。ちなみに「根間の主」には「池間岬(イキマザキ)」が出てくる。 三、沖縄参ば沖縄の主 うてんだぬ水やあみさますうなよ ばんた女童香ぬうてばやりやよ うきぃなんまゃばうきぃなぬしゅ うてぃんだぬみじや あみさますなよ ばんたがみやらびかざぬうてぃばやりやよ 'ukïnaa 'Nmyaba ukïnaa nu shu 'utiNda nu miji ya 'amisamasuna yoo baNta miyarabi kaza nu 'utiba yariya yoo ◯沖縄へ参られたら沖縄の貴方、落平の水は浴びないで。私たち娘たちの香りが落ちれば(私たちの恋は)破れるだろうからね 語句・うてぃんだ 那覇にある。こちらも「あやぐ節」参照。・やりやよ 破れるだろうからね。<やり。破れる。+や。<やん。である。+よー。ねえ。 「島うた紀行」(仲宗根幸市編著)の「〈第2集〉八重山諸島 宮古諸島」にはこの歌はない。 「宮古民謡工工四」(與儀栄巧編)にある「宮古のあやぐ」。 その解説にはこうある。 「今から五、六十年前は帆船で旅したものである。沖縄本島から宮古に来る場合は北風の節(九月十月頃)に来て翌年の三月四月頃南風が押すまで滞在するので船員たちは宮古で女を探していたものである。そしてその間情けをかけ交わした彼女達との別れの時が来ると船員たちは、沖縄に帰っても私たちのことを忘れないでくださいと歌ったものである。(歌詞一、二番は沖縄の主が歌ったもので、三番は宮古の女が歌ったものである)」 確かに一、二番はウチナーグチ(首里語)であり、三番は発音、語句には宮古語が使われている。 二番の歌詞が独自で、本島のものにはない。 曲ー工工四は「あやぐ節」とほぼ同じといっても良い。 これは二揚げ。「あやぐ節」は三下げで歌われることが多いが、二揚げのものもある。 曲が本島の「あやぐ節」とほぼ同じことから、宮古民謡の古謡「トーガニアヤグ」を元に本島で作られ流行った「あやぐ節」がまた宮古島に逆輸入され、二番が加えられたのではないかと推測する。 トーガニアヤグ→本島の「あやぐ節」→「宮古のあやぐ」(宮古民謡)。 次回は、「あやぐ節」、この「宮古のあやぐ」の本歌と言われる本島の「トウカニー節」を見る。

トウカニー節

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トウカニー節 とーかにーぶし tookanii bushi 語句・とーかにーぶし 不明。読み方は「とうかにー」なのか「とぅかにー」「とーかにー」なのか判別できない。だが、おそらく宮古民謡の「トーガニアヤグ」の「トーガニ」から来ているのではないかと思われる。「トーガニ」も意味は現在でも不明とされている。仲宗根幸市氏によれば「一説には『カニ』という唐(中国)帰りの美声の若者がうたいはじめたことからきているという。しかし、それだけでは疑問はつのるばかりである。タウガニ、トーガニ、トーガリ(ガレ)は語源的に未解明。」(「島うた紀行」第三集。仲宗根幸市編著) 唄・三線 多嘉良 朝成 (「沖縄民謡大全集」《四》より。) 一、あねるガジマル木ざぎどぅ いきばさち 石ば抱き ふどぅべいくよ うらとぅ我ぬとぅや うら抱きばぬ抱き ふどぅべいくよ あねるがじまるぎざーぎどぅ いきばさち いしばだき ふどぅべーいくよ うらとぅばぬとぅや うらだき ばぬだき ふどぅべーいくよ 'aneru gajimarugi zaagidu 'ikibasachi 'ishi ba daki hudubee 'iku yoo 'ura tu banu tu ya 'ura daki banu daki hudubee 'iku yoo ◯そんなガジュマルの木でさえもこれから行く先、石を抱いて育っていくよ。貴方と私とは、貴方を抱き私を抱き、育っていくよ 語句・あねる「そんな。そのような。」【沖縄語辞典(国立国語研究所)】(以下【沖辞】と略す)。八重山語(「沖辞」には「八重山群島方言」とあるが、現在ユネスコでは、日本における「危機的言語」の八つのうち、ひとつは「八重山語」として、一つの独立した言語とみなしていることにに準じた表記にする。)ならば「あねーるぃ」。・ざーぎどぅ 〜でさえも。これは八重山語である。「ざーぎ」でさえ。+どう。こそ。強調の助詞。・ふどぅべー 「成長して。育って」。八重山語の「ふどぅびん」(成長する)から。ウチナーグチでは「ふどぅ うぃーゆん」と言う。・いくよ いくよ。大和語の「行く」か、八重山語の「いくん」の活用形から。ウチナーグチ(「いちゅん」の活用形)ではない。・うら 八重山語で「貴方」。・ばぬ 八重山語で「わたし」。 二、うらとぅ我ぬとぅや 天からぬ 御定みぬ 縁がやたら 前から見らばん 後から見らばん 夫婦なりばし うらとぅばぬとぅや てぃんからぬ うさだみぬ いんがやたら まいからみらばん くしからみらばん みーとぅなりばし 'ura tu banu tu ya tiN kara nu 'usadaminu yiN ga yatara mai kara mirabaN kushi kara mirabaN miitu naribashi ◯お前と私とは天がお定めになった縁なのだろうか。前から見ても後ろから見ても夫婦であるよ 語句・うさだみ 「天命」【沖辞】。・まい 八重山語で「前」。ウチナーグチでは「めー」。・くし 後ろ。これはウチナーグチ。 三、沖縄から御状ぬ下りば 一筆啓上じょうたぬいきゆが スルバンぬ玉ゆはじきみたりば 三三が九ち うちなーから ぐじょーぬくだりば いっぴつけいじょー じょーたいぬいきゆが するばんぬたまゆはじきみたりば さざんがくくぬち 'uchinaa kara gujoo nu kudariba 'ippitsukeijoo jootanu 'ikiyuga surubaN yu hajikimitariba sazaN ga kukunuchi ◯沖縄からお手紙がくれば一筆啓上(じょーたいぬいきゆがー不明)算盤の玉をはじいてみたら三三が九 語句・いっぴつけーじょー 大和語。その後もおそらく大和語の影響が強い。意味も掴みかねる。 【「トウカニー節」はどこから】 前々回は本島民謡の「あやぐ節」、そして前回は宮古民謡の「宮古のあやぐ」を見てきた。 本島民謡として歌われている「あやぐ節」(または「宮古のあやぐ」)は、どこから来たのか、どういう流れで海を渡ってきたのか、非常に興味がある。 その問題意識で探している時にこの曲に出会った。 「昭和戦前・戦後 黄金期の名人が甦る 沖縄民謡全集」(以下「全集」と略す。)という12枚組CDの中に収録されている「トウカニー節」である。 「全集」のライナーノーツにある解説を引用しておこう。 「八重山民謡の『トーガニスーザー節』を元に、歌詞の後半は沖縄本島方言に書き換えられ、見事なまでに昇華させた名優、多嘉良 朝成(たから ちょうせい)(1884年〜1944年)の歌声である。この歌は後に『沖縄本島のあやぐ』『新宮古節』『中城情話』『奥山の牡丹』等すべてこの曲がもと歌であり、広い意味では沖縄民謡の代表曲『ナークン ニー』もこの曲が源である。昭和5年頃の収録。」 この「トウカニー節」が「あやぐ節」だけでなく 「ナーク ンニー」「ナークニー」などの元歌というのである。 しかも八重山民謡の「トーガニスーザー節」(八重山では「トーガニシゥザ節」)を元に作り変えられたものだという。 実は上の歌詞の多くは八重山語が含まれていて、 歌詞も「トーガニシゥザ節」の歌詞とそっくりなのである。 【トーガニシゥザ節との関係】 この歌「トーガニシゥザ節」は後日とりあげるつもりなのだが、 手元にある、當山善堂『精選 八重山古典民謡集』にある歌詞のうち(三)と(四)がそっくりである。 (三)あねーりぅがじまる木ざーぎぃとぅ ぴにば下れー石ば抱き 育(ふどぅ)べー行くさー うらとぅばんとぅや うらだぎばぬだぎ育べーいからー (四)貴方(うら)とぅ我(ば)んとぅやよ 天からどぅ夫婦なりで 標結い給れーる後(しー)から見りゃん前(まい)から見りゃん夫婦生りばしー そっくりというより、八重山の「トーガニシゥザ節」を沖縄語読みになおしたもののようにさえ思える。 「あやぐ節」にでてくる「がじまる木」の下葉(気根)は八重山の「トーガニシゥザ節」にははっきりでてくるのに、「トウカニー節」では「いきばさち」という語句に置き換えられている。その理由はわからない。 一番では、 トーガニシゥザ 宮古の美しい島から産まれたトーガニシゥザは素晴らしい。沖縄から八重山まで流行っているトーガニシゥザよ と宮古のトーガニを褒め称えている歌なのである。 つまり、宮古の「トーガニアヤグ」や「伊良部トーガニ」などがあり、そこから「トーガニシゥザ節」となり、そこから本島のこの「トウカニー節」が産まれた、あるいはそういう流れで変化してきたと考えることは自然だといえよう。 しかし、この「トウカニー節」が何時作られたものなのか、多嘉良 朝成氏ご自身が作られた(作り変えられた)ものかどうかは、わからない。(「演者」と書かれているだけで「作詞」などが書かれていない。) それはわからないが、この「全集」に収録されている多嘉良 朝成氏のほかの歌を聴くとき、この方の才能の深さ、また八重山、宮古民謡などへの造詣の深さをうかがい知ることができる。 ネットのコトバンクを引用すれば 多嘉良 朝成 《職業俳優 音楽家(声楽) 生年月日明治17年 出身地沖縄県 那覇市首里 経歴明治40年「球陽座」に入り、後に「中座」に入る。大正5年の琉球新報主催の「俳優人気投票」では20人中の1位となる人気を得る。大正11年平良良勝らと「若葉団」を結成したが、間もなく解散。その後「新生劇団」を結成。大阪から映画の撮影技師を招き、沖縄芝居の「連鎖劇」などを作り、また沖縄民謡をレコードに吹き込むなど、沖縄芝居の向上に尽くした。昭和12年に舞台から引退する。野村流音楽協会の教師を兼ねて舞踊研究所も開き、後進の指導に当たった。歌劇の二枚目に出演し、喜劇俳優としても活躍した。 没年月日昭和19年 (1944年) 家族妻=多嘉良 カナ(民謡歌手)》(引用終わり) またコトバンクに妻のカナ氏は、 多嘉良 カナ 《職業民謡歌手 女優 旧名・旧姓川平 生年月日明治32年 出身地沖縄県 平良市 経歴夫の多嘉良朝成と一座を率い、民謡歌手としてだけでなく沖縄歌劇の俳優としても活躍。東京・大阪などの国内から、朝鮮、台湾、ハワイ、アメリカ本土まで巡業を行ない、大阪のレコード店からレコードも出している。フランスのシャンソン歌手ダミアを引合いに“沖縄のダミア”ともよばれた。 没年月日昭和46年 (1971年) 家族夫=多嘉良 朝成(俳優)》(引用終わり) 「全集」で多嘉良 朝成氏は、「農民口説」、「百名節」、「伊集早作田節:中作田節」、「挽物口説」、「兼島節」(一名:伊良部トウガニー)、「歌劇 親アンマー」などの録音に参加している。 カナ氏は宮古島生まれということだけで、この「トウカニー節」が、宮古島の「トーガニアヤグ」、そしてそれが八重山につたわっての「トーガニシゥザ節」を元にして作り変えられた証拠にはならないが、それを強く示唆するものだろう。 ナークニーとの関連も含めて、とても興味深い。 次回は「トーガニシゥザ節」を見ることにする。

謹賀新年2015

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皆様、あけましておめでとうございます。 2015年が幕開けしました。 2005年の10月に始めたこの「たるーの島唄まじめな研究」も今年で 10年の節目 を迎えます。 広島の方言学者であり、当時私たちに「ウチナーグチ」を教えてくださっていた故胤森弘さんから、いろいろご指導をいただきながら始めたブログでした。 胤森さんは、広島で沖縄に関わる方々にはタンメー(士族のおじいさんへの敬意を込めた呼称)と呼ばれていましたが、2007年の9月に83歳で、ひっそりと亡くなられました。 このブログが意訳を避けたり、囃子の訳は省略したり、発音は「沖縄語辞典」(国立国語研究所)などに辞書に必ず依拠したりするスタイルは、胤森弘さんのスタイルを真似ています。 ご本人にも了承を得て、初期の頃は訂正もしていただきました。 胤森さんのご研究は幅も奥もとてつもなく深く、私たちの追随など許されるものではありません。 私は胤森さんがご存命中に、島唄の意味を質問していましたが、その度に手紙や直接お会いして多くのご教唆をいただいていました。 もうそれができなくなる前から、自分の唄三線の勉強にためにはじめたブログでした。 胤森さんは、グソー(あの世)でどう思われているでしょうか。 きっと泡盛をちびちびやりながら呉方言で 「関さんよー、まだまだじゃのう。勉強が足らんよ」 とおっしゃられているでしょう(笑) 色々な方にコメントやメールでご指摘やご教唆をいただきながら いままで取り上げた曲数はどれほどでしょうか(笑) 今度数えてみたいと思いますが、沖縄の歌の数は限りありません。 今年もコツコツと勉強を重ねていきたいと思います。 さて、私ごとになりますが、たるーは音楽活動もしています。 去年はYOU果報バンドとしてもあちこちで演奏させて頂きました。 震災復興支援活動に加え、昨年の8月の土砂災害の復興支援するコンサートもさせて頂きました。 また「広島けんみん文化祭」に世果報会として参加しました。 沖縄民謡の素晴らしさを伝えることはとても大切になってきている、と痛感します。 沖縄の文化には私たちが忘れてしまった「人の情け」「自然と人の共生」というテーマがあると感じます。 三線を中心にした歌と演奏を通して「人と人の繋がり」を作る小さな力になりたい、と願って微力ながら活動させていただいた2014年でした。 私個人的にも、今年は八重山、宮古への旅をさせてもらい、島唄の故郷を訪ねて、この「たるーの島唄まじめな研究」の充実にとっても実り多い、たくさんの勉強と体験をさせて頂きました。 たくさんの方々にお世話になりました。 どうか拙ブログの全ての読者の皆様。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 たるー拝

トーガニー

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トーガニー とーがにー 語句・とーがにー 八重山民謡の「とーがにしぅざ節」から。「トーガニ」の意味についてはよくわかっていない。前回も書いたがおそらく宮古民謡の「トーガニアヤグ」の「トーガニ」から来ているのだろう。「トーガニ」も意味は現在でも不明とされている。仲宗根幸市氏によれば「一説には『カニ』という唐(中国)帰りの美声の若者がうたいはじめたことからきているという。しかし、それだけでは疑問はつのるばかりである。タウガニ、トーガニ、トーガリ(ガレ)は語源的に未解明。」(「島うた紀行」第三集。仲宗根幸市編著) 唄三線 登川誠仁(CD「STAND!」より筆者聴き取り) 一、トーガニスーザーや 宮古ぬ美ら島から流行りるトーガニスーザーよ 沖縄ぬ先から宮古ぬ先までぃ流行りるトーガニスーザーよ とーがにすーざーや みゃーくぬちゅらしまからはやりる とーがにすーざーよ うちなーぬさちからみゃーくぬさちまでぃ はやりるとーがにすーざーよ tooganisuuzaa ya myaaku nu chura shima mara hayariru tooganisuuzaa yoo 'ukinaa nu sachi kara hayariru toogani suuzaa yoo ◯トーガニスーザーは宮古の美しい島から流行っている トーガニスーザーよ 沖縄の先から宮古の先までぃ流行っているトーガニスーザーよ 語句・スーザー 兄。兄さん、のこと。宮古語では「すざ」。八重山民謡では「しぅざ」(sïza)と中舌母音を入れて発音するが【石垣方言辞典】(宮城信勇著)(以下【石辞】)には「しじゃ」とある。本島、ウチナーグチの「しーじゃ」に対応。「トーガニスーザー」は歌の名前。一方、八重山民謡の「とーがにしぅざ節」の「しぅざ」を「精選八重山古典民謡集」では「羨ましいなあ・いいなあ・めでたい」などの意味だとも解釈している。どちらが正解なのか不明。 二、あねるガジュマル木さぎどぅ つるばうれー 石ばかい抱ぎ ぷるでいくから うらとぅ我ぬとぅや うら抱ぎ我ぬ抱ぎ ぷるでーいくそー あねるがじゅまるきーさぎどぅ つるばうーれー いしばかいだぎ ぷるでいくから うらとぅばぬとぅや うらだぎばぬだぎ ぷるでいくそー 'aneru gajumaru kii sagi du tsuru ba 'uree 'ishi ba kaidagi purude 'ikukara 'ura tu banu tu ya 'ura dagi banu dagi purude 'iku soo ◯あのようなガジュマルの木でさえもツルを降ろし 石を抱いて 育っていくので 貴方と私とは 貴方を抱き私を抱いて育っていくのだよ 語句・さぎどぅ でさえも。これは八重山語。「ざーぎ」でさえ。+どう。こそ。強調の助詞。・ぷるで 「成長して。育って」。八重山語の「ふどぅびん」(成長する)から。登川氏は「ぷるで」と歌われている。ウチナーグチでは「ふどぅ うぃーゆん」と言う。【石辞】には、現在では「ぷどぅーういるん」と言うとあるので、この歌詞は八重山語での現代読み。・いくそ いくのだよ。大和語の「行く」か、八重山語の「いくん」の活用形から。ウチナーグチ(「いちゅん」の活用形)ではない。+ そー。八重山語で「だよ」。念を押す終助詞。【石辞】・つる 八重山語で「つる」。ガジュマル木の気根、ヒゲ根のことだろう。ウチナーグチでは「ちるー」。・うら 八重山語で「貴方」。・ばぬ 八重山語で「わたし」。 三、夏ぬ昼間ぬ水欲さや 太陽ぬ入り 夜ぬいくかー 忘りるしーよー 加那様事ぬ朝ん夕さん忘りるならぬそー なちぬ ぴらま ぬ みじふさやー てぃだぬいり ゆぬいくかー わしりるしーよー かなさまくとぅぬ あさん ゆーさん わしりぬならぬそー nachi nu pirama nu miji husa yaa tiida nu 'iri yu nu 'ikukaa washirirusii yoo kanasamakutu nu 'asaN yuusaN washiriru naranu soo ◯夏の昼間に水が欲しいのは 太陽が沈み夜がふければ忘れる 貴方様の事は一日中忘れることはないのだよ 語句・ぴらま 八重山語で「ぴぅーりぅま」【石辞】。ウチナーグチの読み替えだろう。・ゆーぬいくか夜が更ければ。八重山語で 「夜が更ける」は「ゆーいくん」【石辞】。「かー」は動詞活用の条件形。 四、ゆんとぅりば 夢る見る 起きとぅりば 事ぬるうくりゆる 寝てぃん寝ららん 起きてぃんうららん かんちゃがなさや ゆんとぅりば いみるみる うきとぅりばくとぅぬうくりゆる にてぃんにららん うきてぃんうららん かんちゃがなさや yuN turiba 'imi ru miru 'ukituriba kutu nuru ukuriyuru nitiN niraraN ukitiN uraraN kaNcha ganasa yaa ◯夜休んでいれば夢を見る 起きていれば事が起きる 寝ても寝られない 起きてもいられない 貴方が愛しいことだ 語句・ゆんとぅりば 夜休んでいれば。<ゆん <ゆー 夜 +ん + とぅりば <とぅりゆん。 心が和む。→休めば。・かんちゃ貴方。 おそらく八重山語の「かぬしゃーま」から。<かぬしゃー 「男性からいう女性の恋人。『愛(かな)しき人』の意。 五、真夜中どぅやしが 夢にむい起くさりてぃよ 覚みてぃ恋しさや 無蔵が姿 まゆなかどぅやしが いみにむいうくさりてぃよー さみてぃくいしさや んぞがしがた mayunaka du yashiga 'imi ni mui ukusarithi yoo samiti kuishisa ya Nzo ga shigata ◯真夜中であるが夢に起こされて 覚めて恋しいのは貴女の姿 六、うばが家とぅ我んたが家とぅ隣やたんば 主 今日ん見り明日ん見り 愛し里前よ うばがやーとぅばんたがやーとぅ とぅないやたんばしゅー きゆんみりあちゃんみり かなしさとぅまいよー uba ga yaa tu baNta ga yaa tu tunai yataNba shuu kiyuN miri 'achaN miri kanashi satumai yoo ◯貴方の家と私の家とが隣だったらね 貴方 今日も見て明日も見て愛しい貴方様よ 七、ばぬちゃかいりょがばよ 里前 下から入りょらばん 上から入りょらばん 足音いざすんなよ 下やハーメー 上やタンメー 中座や我ぬ人うり ◯私の(ちゃかー不明)入るときは 貴方様 下から入っても上から入っても足音立てないでよ 下にはおばあさんが 上にはおじいさんが 中座には私の人がいるから 語句・はーめー おばあさん。「平民の祖母または、平民の老女をいう」【沖縄語辞典(国立国語研究所)】(以下【沖辞】)。・たんめー 「士族の祖父。また、士族の老翁。おじいさん。」【沖辞】。平民の祖父はウシュメー。・なかざ 【トーガニーについて】 登川誠仁さんは好んでこの「トーガニー」をあちこちで歌われている。 (CD「STAND!」) CD以外では「ビデオ 嘉手苅林昌独演会」で「泊高橋」をチラシに歌われている。 「トーガニー」は本島で色々な方が歌われて現在でも人気のある民謡のひとつである。 三線の手は、歌持ち(ウタムチ=前奏)に、カチビチ(掛き弾き)が多いのが特徴。 「富原ナークニー」を少し彷彿とさせる。 この登川誠仁さんの歌は、八重山民謡「とーがにしぅざ節」からきている歌詞から、真剣に最後まで聞けば、7番では、いわゆる「夜這い」を題材にしていて、そこでも聴衆を笑わせる仕組みになっている。 「トーガニー」を「ジビター小」と呼び換えて、さらにきわどい歌詞や聴衆受けする内容を唄に乗せて「春歌」として歌う場合もある。 「ジビター」とは「下品」とか「卑猥」という意味だ。 「春歌」を「文化の荒廃」として批判される方もおられようが、適量を守った「飲酒」と同じで、場所と時をわきまえて節度を保てば「春歌」や「狂歌」も庶民の生活に潤いをもたらす「唄」と言えよう。 【トーガニーとナークニー】 拙ブログでは本島で歌われる「あやぐ節」 のルーツを探して、宮古民謡の「宮古のあやぐ」、「トウカニー節」と見てきた。 「あやぐ節」を宮古民謡「トーガニアヤグ」と工工四を照らし合わせて比較してみたが、音階においても多くの共通点があり、「あやぐ節はトーガニアヤグをヒントに作られた」ということを裏付けてもいることも見た。 ただしどちらが先でどのような経過で唄が変遷してきたかまでは調べる由も無い。 私の問題意識は前にも書いたが本島の「ナークニー」が宮古の「トーガニアヤグ」や八重山の「とーがにしぅざ節」を元にして作られたという「トウカニー節」などから生まれてきたものだという説にある。 【音階の比較】 今回の「トーガニー」のメロディーは、八重山の「とーがにしぅざ節」とよく似ているし、宮古の「とーがに兄節」とも少し似ている感じはある。 宮古の「とーがに兄節」はどちらかというと「クイチャー」系のメロディーと構成になっていて、その意味では「ナークニー」と「クイチャー」との関連を予想させるところがとても面白い。 本島の「あやぐ節」 、宮古の「宮古のあやぐ」、本島の「トーガニー」、八重山の「とーがにしぅざ節」、そして宮古の「トーガニあやぐ」「とーがに兄節」、さらに「クイチャー」も含めて音階を比較すると、 四、上、中、工、 五、七、八 (ド、レ、ミ、ファ、ソ、シ、ド) 「上」(レ)が沖縄音階の例外になるが、どの曲にも含まれている特徴的な音になっている点が非常に面白い。(余談だが、本島では「かいされー」の音階とも似ている。) 次回、八重山の「とーがにしぅざ節」や、宮古の「とーがに兄節」などの歌詞なども見ておきたいと思う。

とーがにすぃざ節

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とーがにすぃざ節 とーがにすぃざ ぶすぃ toogani shïza bushï 語句・とーがにすぃざ 宮古民謡の「とーがに兄」(とーがにすざ)を八重山語読みしたもの。「とーがに」については不明。伝承では「中国から来たカニという青年」つまり「唐ガニ」からというのもある(「島うた紀行」第三集。仲宗根幸市編著)。「すぃざ」は、宮古語の「兄」(すざ)から、という説が有力だが、八重山語の「羨ましいなあ・いいなあ・めでたい」という意味もあるという指摘(「精選八重山古典民謡集」當山善堂編著)(以下【精選】)もある。なお八重山語の中舌母音の表記については「すぃざ」(う段中心)と「しぅざ」(い段中心)の二つがあるが、ここでは前者(う段中心)を採用。発音は同じ「shï」。 《歌詞及び発音においては「精選八重山古典民謡集」(當山善堂編著)と「八重山の古典民謡集」(小濱光次郎著)を参考にした。》 一、とーがにすぃざ 宮古ぬ清ら島からどぅ 出でぃだる とーがにすぃざよ 沖縄から八重山迄ん流行りたる とーがにすぃざよ とーがにすぃざ みやくぬちゅらずぃまからどぅ んでぃだる とーがにすぃざよ うくぃなーからやいままでぃん はやりたる とーがにすぃざよ tooganishïza miyaku nu churazïma kara du 'Ndidaru tooganishïza yoo 'ukïnaa kara yaima madiN hayaritaru tooganishïza yoo 《下線部の発音、前掲の著書で當山氏は「る」、小濱氏は「るぃ」としている。》 ◯ トーガニ兄 宮古の美しい島からこそ出たトーガニ兄 沖縄本島から八重山までも流行っているトーガニ兄よ 二、一本松ぬよ 実ば落てー 二本生やー 唐船ぬ柱なるとぅん 貴方が上に 横肝持つぁでぬ 我やあらぬ ぷぃとぅむとぅまつぃぬよ なるぃばうてぃ ふたむとぅむやー とーしんぬ ぱらーまるとぅん うらがういに ゆくくぃむ むつぁでぬ ばぬやあらぬ pïtu mutu matsï nu yoo narïba 'uti hutamutu muyaa tooshiN nu paraa narutuN 'ura ga 'ui ni yukukïmu mutsadenu banu ya 'aranu ◯一本松の実が落ちて二本生えて唐船の柱になっても 貴方に邪(よこしま)な気持ちを持つ私ではありません 三、あねーるぃがじまる木ざーぎどぅ 髭ば下れー 石ば抱ぎ 育べー行くさー 貴方とぅ我とぅや 貴方抱ぎ我抱ぎ 育べー行からー あねーるぃがじまるきーざぎどぅ ぴにばうれー いしばだぎ ふどぅべーいくさー うらとぅばんとぅやうらだぎばぬだぎふどぅべーいからー 'aneerï gajimarukiizagidu pini ba 'uree 'ishi ba dagi hudubee 'ikusa 'ura tu baN tuya 'ura dagi banu dagi hudubee 'ikaraa ◯あのようなガジュマルの木でさえ気根を下ろし石を抱き育っていくよ 貴方と私はお互いを抱いて育って行こうねえ 語句・あねーるぃ あのような。語句・ざーぎどぅ 「ざーぎ」→でさえ。・ふどぅべー 育って。<ふどぅびん。育つ。「成長する。大きくなる。『程生(お)ひる』の意。」【「石垣方言辞典」(宮城信勇著)】(以下【石辞】)。「ふどぅべーいくさ」→「そだっていくよ。」。「ふどぅべーいから」→「育っていきましょう」。「いから」いきましょう。いきたい。→希望や呼びかけ。 四、貴方とぅ我とぅや天からどぅ夫婦なりで ふき結いたぼーれーる 後から見ーりゃん 前から見ーりゃん夫婦生りばしー うらとぅばんとぅや てぃんからどぅ みゆとぅなりで ふきゆいたぼーれーる しーからみーりゃん まいからみーりゃんみゆとぅまりばしー 'ura tu baN tu ya tiN karadu miyutu naride hukiyui tabooreeru sii kara miiryaN mai kara miiryaN miyutu maribasii ◯貴方と私とは天から夫婦になれと縁を結んでくださった 後ろから見ても 前から見ても夫婦として生まれているよ 語句・うら 「貴方。男女どちらからも言う。歌の中でよく使われる。対等もしくはそれ以下に対して言う。」【石辞】。・ばん 通常は「ばぬ」(私が)として使われる。・みゆとぅなり 夫婦になれ。命令形。・で 〜と。・ふきゆい 「ふき」は「境界を示すために立てる目印・しめ(標、注連)」【精選】。転じて「縁を結ぶ」。・しー 八重山語で「後ろ」 【八重山の「とーがにすぃざ節」】 「あやぐ節」のルーツを探して、八重山の「とーがにすぃざ節」まで来た。 前回みた本島でよく歌われている「トーガニー」が、「タウカニー節」や「トウガニー節」と同じ根を持ち、その根がどうやらこの八重山の「とーがにすぃざ節」のようである。 この「とーがにすぃざ節」の歌詞一番では 「宮古の清ら島から出たとーがにすぃざ節が、沖縄から八重山まで流行っている」 というのだから、この唄の前に宮古の「とーがにすぃざ」という唄があったことを示唆している。 歌詞を参考にした「精選八重山古典民謡集」(當山善堂 製作/編著)ではこんな「伝承」がある、と紹介されている。 「すなわち、八重山民謡の〈あがろーざ節 〉節が宮古に伝授されて〈東里真中〉となり、お返しに宮古民謡の〈とーがにしぅざ〉が八重山に伝授されて〈とーがにしぅざ〉になったという。その真偽のほどはさておき、八重山の〈とーがにしぅざ節〉と関連があると思われる宮古民謡には〈とーがに兄(すぅざ)〉と〈とーがにあやぐ〉があるが、いずれなのかは判然としない」(「精選八重山古典民謡集」〈三〉P128) 「あがろーざ節」が宮古に伝承されて「東里真中」となったという伝説には諸説あり、また「ルーツ」を巡る論争もあり定かではないが、宮古と八重山の二つの「とーがにしぅざ」は関連があると見るのは当然だろう。 《参照「あがろーざ」》 【ここまでのまとめ】 「昭和戦前・戦後 黄金期の名人が甦る 沖縄民謡全集」に収録されている「トウカニー節」ライナーノーツにある解説にこうあった。 「八重山民謡の『トーガニスーザー節』を元に、歌詞の後半は沖縄本島方言に書き換えられ、見事なまでに昇華させた名優、多嘉良 朝成(たから ちょうせい)(1884年〜1944年)の歌声である。この歌は後に『沖縄本島のあやぐ』『新宮古節』『中城情話』『奥山の牡丹』等すべてこの曲がもと歌であり、広い意味では沖縄民謡の代表曲『ナークン ニー』もこの曲が源である。昭和5年頃の収録。」 八重山の「とーがにすぃざ節」を聞くと、1930年頃に多嘉良 朝成氏によって歌われた「タウカニー節」の歌詞との類似、そして三線の手、工工四、メロディーもよく似ている。 ただ、それぞれの歌がいつ頃作られたものかは全くわからない。 八重山の「とーがにすぃざ節」は八重山の古い歌詞集にもみあたらない、比較的新しいのではないか、と「精選八重山古典民謡集」で當山善堂氏は述べている。 これらのことから 宮古民謡「とーがに兄」、「とーがにあやぐ」 →八重山「とーがにすぃざ節」 →本島「タウカニー節」「トーガニー節」 →?「あやぐ節」 という一応の系譜が仮定されるが、読者の皆さんはどう思われるだろうか。 宮古の「とーがに兄」、「とーがにあやぐ」や、今日歌詞にもバリエーションが本島の「トーガニー節」「トゥーガニー」、さらにはナークニーとの関連などについては今後の検討課題としたい。

廃藩ぬ武士 2

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廃藩の武士 はいばん ぬ さむれー haibaN nu samuree 語句・はいばん 廃藩(はいはん)を沖縄では「はいばん」と読む。「廃藩置県」のことを指すが、琉球では事情が他府県とは違っていた。日本の廃藩置県は1871年。ところが琉球王国は1872年に王国のまま琉球藩となり1875年に政府から「琉球処分」を言い渡された後、1879年に政府の名を受けた松田道之と軍隊300名余、警官160名余が首里城に乗り込み、琉球藩の廃止、沖縄県の設置、清国との絶交などの要求を無理やり受理させた。・さむれー 琉球王朝に仕えた士族の事。「ゆかっちゅ」とも言った。本土の「武士」(さむらい)に対応するが、いわゆる「懐刀」を持っていなかった。琉球王朝では 人口の約5%がこの士族(さむれー)で、残りの95%の平民は、農業だけでなく漁業、商業に従事していても「ひゃくしょー」と呼ばれた。士族にも上級士族と一般士族があった。 《CD「The LAST SESSION」より筆者聴き取り 》 一 拝でぃ懐かさや廃藩ぬ武士 背骨小や曲がてぃ うすんかがん うがでぃなちかさやはいばんぬさむれー こーぐぐゎーやまがてぃ うすんかがん 'ugadi nachikasa ya haibaN nu samuree koogugwaa ya magati 'usuNkagaN ◯お会いすると悲しいよ 廃藩の士族 腰は曲がって少しかがんで 語句・うがでぃ 「お会いする。お目にかかる。」【沖縄語辞典(国立国語研究所)】(以下【沖辞】と略)<うがぬん。(発音注意 声門破裂音、グロッタルストップがない。)・なちかさや 悲しいよ。<なちかしゃん。 悲しい。気をつけたいのは、ノスタルジックな「懐かしい」という意味ではない。ちなみに「懐かしい」にあたるのは「あながちさん」。 'anagachisaN。ただし文語的表現では「なちかしゃん」を「懐かしい」という意味で用いる時もある。・こーぐぐゎー 背骨。年寄りの曲がった背中を指す。・うすんかがん 少しかがんで。「うす」には「少し」の意味もあるが、「うすゆん」は「おおう」「かぶせる」「抱く」【沖辞】などの意味もある。「うすこーぐ」に「少し腰が曲がっている者」【沖辞】という意味もある。 (唐や平組 大和断髪 我した沖縄や片結) とーやひらぐん やまとーだんぱち わしたうちなーや かたかしら too ya hiraguN yamatoo daNpachi washita 'uchinaa ya katakashira ◯中国は弁髪 大和はザンギリ頭 我々沖縄はかたかしら(片方で髪を束ねる髪型) (囃子は以下省略) 語句・とー 当時は「清国」、中国をさす。・ひらぐん 弁髪。中国特有の髪型。長髪にして後ろで束ねるが、前から頭上にかけてそり上げる。(図1)・やまとー ヤマトは。「ヤマトゥー」ではない。ヤマトゥ+や(は)が融合してこうなる。・だんぱち ザンギリ頭。廃藩で武士の丁髷(ちょんまげ)を切っても良い、という御触れが明治政府により出された。・かたかしら 琉球王朝時代の一般男性の髪型。「欹髻」「片髪」などが当て字。「成人男性の髪型。元は頭の右辺に結び、後には中央に結ぶようになった。貴族は15歳で、一般は10歳内外で結った。」【沖辞】。一説には「舜天王(しゅんてんおう)が、頭の左側にあるこぶを隠すため、左耳の上に髷を結い上げ、家臣がそれを真似た」という。その後は、頭の中央、頭頂部より4センチ程後ろに結ぶようになった。当時はこれを「かんぷー」と呼んだが、現在は女性の髪結の事を指すようになった。男性はこの「かたかしら」を結う時には長髪にし、頭頂部を四角に剃って周りの髪を上で束ね、その髪を結んで二本の簪(かんざし、ジーファー)で留めた。(図2) 二 思みば懐かさや オウ傘小や片手 木フージョウ小腰にアダニ葉サバ小 うみばなちかさや おーがさーぐゎーや かたでぃ きーふーじょーぐゎーくしに あだにばさばぐゎー 'umiba nachikasa ya oogasaagwaa ya katadi kiihuujoogwaa kushi ni 'adaniba sabagwaa ◯思うと悲しくなるのは、青傘を片手に 木の煙草入れを腰に アダンの葉の草履(を履いて) 語句・おーがさー 「傘の一種。骨の部分のみが緑色で、紙は黒。中国から輸入された男物のからかさ」【琉辞】。・きーふーじょー 木製の煙草入れ。ちなみに「ふーじょー」とは「〔宝蔵〕女持ちのたばこ入れ。宝珠のような形に縫った袋物である」【琉辞】とあるので、材質で区別した表現。(図3)・あだにばー アダンの葉。・さばぐゎー 「ぞうり。皮・わら・阿旦葉・藺(い)・竹の皮などでつくり、種類が多い。」【琉辞】。ここではアダン(阿旦)の葉で作ったぞうり。(図4) 三 しばし国頭ぬ奥に身ゆ忍でぃ 共に立ち上がる時節待たな しばしくんじゃんぬ うくにみゆしぬでぃ とぅむにたちあがる じしちまたな sibashi kuNjaN nu 'uku ni mi yu shinudi tumu ni tachi 'agaru jishichi matana ◯しばし国頭の奥に身を忍び共に立ち上がる時節を待とう 語句・うく 現在の国頭村奥という沖縄県最北の集落なのか「奥の方」なのか不明。・ゆ 文語で「を」。口語では使わない。・またな 待とう。待ちたい。 四 あんちゅらさあたる タンメ片髻 大和世になたれ 断髪けなて あんちゅらさあたる たんめーかたかしら やまとぅゆーになたれー だんぱちけーなてぃ 'Anchurasa 'ataru taNmee katakashira yamatuyuu ni nataree daNpachi keenati ◯あんなに綺麗だった士族のおじいさんの片髻(まげ)日本支配になったら断髪しちゃって 語句・なたれー なったら。<なた<なゆん。過去形。+れー。仮定(既定事実)。(例)ゆだれー。読んだら。・けー ちょっと…する。 五 大和世になたれ 大和口タンメ うっちぇーひっちぇー何にんくぃーにん あんしてくださいな やまとぅゆーになたれー やまとぅぐちたんめー うっちぇーふぃっちぇーぬーにんくぃーにん あん[してくださいな] yamatuyuu ni nataree yamatuguchi taNmee 'uccheehwicchee nuuniNkwiiniN [aNshite kudasai na] ◯大和の世(支配)になったら大和口のおじいさん 何度もひっくり返って なにもかもそうしてくださいね ([ ]は大和口) 語句・うっちぇーひっちぇー 「盛んに裏返すさま。しきりにひっくり返すさま」【琉辞】。・あん そう。「そうしてね」という時の。 六 うがでぃなぐりさや 廃藩ぬあやめー 銀簪差ちょてぃ 耳ゆくじてぃ うがでぃなぐりさやー はいばんぬあやめー なんじゃじーふぁさちょーてぃ みみゆくじてぃ ugadi nagurisa yaa haibaN nu samuree naNjyajiihwa sachooti mimi yu kujiti ◯お会いして名残惜しいことだよ 廃藩のお姑さん 銀製のかんざしを差してて 耳をほじくって 語句・なぐりさやー 名残惜しいことだよ <なぐりさん。なぐりしゃん。名残惜しい。形容詞が「さ」で終わるときは感嘆の意味。とても…だよ。・あやめー 「貴族の嫁がしゅうとめを敬って言う語。?aimeeともいう。」【琉辞】。・くじてぃ ほじくって。<くじゆん。「くじる。えぐる。ほじくる。」【琉辞】。 【この唄の背景】 「廃藩」 私たちは「はいはん」と読むが沖縄では「はいばん」と連濁して読む。 廃藩置県は、1871年に明治政府が中央集権を進め近代国家をめざすためにそれまでの藩を廃止したもの。 沖縄は1609年に薩摩の島津の侵略を受けて実質的に本土の支配下にあり、同時に中国との「柵封」関係であったが、この廃藩置県で「王朝」体制も解体され、1879年に沖縄県となった。 二度の「琉球処分」を被ったわけである。 「さむれー」は「武士」(さむらい)に対応している(samurai→samuree aiが長母音化)。 琉球王朝に使えた「士族」階級のことをさす。 上にも書いたが、琉球王朝では 人口の約5%がこの士族(さむれー)で、残りの95%の平民は、農業だけでなく漁業、商業に従事していても「ひゃくしょー」と呼ばれた。 本土の「武士」の規定は一般的には脇差をし、床の間に刀を飾った「官僚兼戦闘家」を多く指すが、琉球では、脇差はなく床の間には三線を置いたという。 琉球王国の身分は、国王の下に御殿( 王子地頭 按司地頭) 殿内( 総地頭  脇地頭)があり、さらに士族(さむれー)そして平民(百姓ひゃくしょー)と続く。 士族にも上級士族と一般士族があり、人口の約5%だった士族のうち上級は約5%、つまり人口の0.25%しか上級士族になれなかった。一般士族は采地をもらえず、「ブンニン」とも呼ばれ、農業などもして苦しい生活をしのいだ。 廃藩=琉球王朝の解体によって職も権威も失墜した多くの士族は、商業や農業、あるいは芸能分野を仕事とし、それまでの唄三線や琉球舞踊の技能を活かすものもいた。 【歌詞について】 この唄は嘉手刈林昌先生のお母様ウシが作詞し、林昌先生8歳の時にウシと共に作曲したといわれている。 廃藩により職も権威も失った士族の老人タンメーの様子をユーモラスに描き、また同情的にも描いている。特定の個人ではなく世情を詠ったものだろう。 三番は、廃藩後も明治政府に抵抗していた士族を描いている。 反対派は「くるー」(黒)と呼ばれ、「特に、明治の廃藩時代に、明治政府に反対し、旧制度維持を目論んだ頑固党をいう。husaNsii(不賛成)ともいい、明治政府支持の開進派(siruu またはsaNsii)に対する。明治のすえごろまでも髪を切らずに、?usjuganasiimee(琉球王)をたたえた。」【琉辞】。 当時の清国と連絡を取っていた人々もいたようだ。 そうして国頭の奥に身を潜めて、いつか反撃する機会を待ったのだが。。。 【囃子に出てくる髪型について】 囃子言葉に、中国と大和と沖縄の封建時代の男性の髪型の違いが囃子言葉になっているのは面白い。当時の髪型を調べてみた。 「とーやひらぐん」 上述したが、弁髪といい中国(当時は「清」だが、中国を「唐」と呼んだ)特有の髪型。 長髪にして後ろで束ねるが、前から頭上にかけてそり上げる。 (図1) 「やまとーだんぱち」 いわゆる散切り(ざんぎり)頭。廃藩により武士の髷は切られた。 「大和を断髪」と書いた歌詞もあるが、「を」を使うのはおかしい。 「を」に対応するウチナーグチ「ゆ」が使われているのだから「を」はない。 「大和は断髪」という意味で、こう発音している。 「わしたうちなーやかたかしら」 「かたかしら」とはこんなものである。 (図2) 頭頂部を四角く剃って、長髪を上でねじって結っていき、二本のジーファー(かんざし)で前後からとめる。カタカシラは小さい方が上品と言われたにで、髪を少なくするために剃ったようだ。 士族では15歳、一般は10歳くらいでこの髪型になったわけだが、それより小さい男児の髪型は後で見るように「かんぷー」と言った。 【「やまとーかんぷー」という歌詞について】》 林昌先生は、幾つかのCDで歌詞を少しづつ変えられている。 CD「風狂歌人」では囃子を「やまとーかんぷー」と歌う歌詞がある。 知名定男さんもこう歌われて録音したCDもある。 「これは間違っている」と言われる方もおられるらしいが、 沖縄語辞典で「かんぷー」をひくと 「男の子の髪型。髪が短くて言えない場合に、折り曲げて小さく結うもの。女の子のそれにはhaajuuiiという」 つまり、カタカシラも結えない子どもの髪型で、長髪でない場合に髪を折り曲げた結い方のことだったわけだ。 いつの間にか、現代では女性の琉球髪結のことを「かんぷー」というようになった。 散切り頭をこの子どもの髪結のように後ろで結んだものもあったのかもしれない。 いずれにせよ、林昌先生はこの「やまとーかんぷー」という歌詞をそれほど多くは歌われてはいない。 【キーフージョーとアダニ葉バサ小】 木のタバコ入れ。 (図3) アダンで編んだ草履(さば小) (図4) 幾つかの士族の写真を見て、描いたサムレーのイメージ図。 【他の歌詞】 CD 「沖縄しまうたの神髄」では ニ番はうみばなぐりさや ではじまる。 「なぐりさや」とは「なぐりしゃん」(なごり惜しい)【琉辞】から。 とても名残惜しいよ、の意味。 上に取り上げたCD「The LAST SESSION」での六番の歌詞も珍しい。 拝でぃ名残りさや 廃藩ぬあや前 銀簪さちょてぃ 耳ゆくじてぃ タンメーのみならずアヤメー(お姑さん)、つまりおばあさんの様子も唄に。 CD「唄遊び」では 二番を、 オー傘小片手 昔なぐりさや 木フジョー小腰にアダニ葉サバ小 (訳などは上を参照) と少し変えた上に三番が、他では聞いたことがない歌詞になっている。 時や知らなそてぃ 時までぃかきてぃ きさからおーふぁー ぬーえそーしが なんじがなーとーら とぅちやしらなそーてぃ とぅちまでぃかきてぃ きさから おーふぁー ぬーえーそーしが なんじがなとーら 「何時かをしらないで時間をかけて さっきから青葉を(ぬーえー;不詳)しているが 何時になったか?」 「ぬーえー」の意味がわからない、というところで、「廃藩ぬ武士」を締めくくる。 最後に嘉手苅林次先生が歌われる「廃藩ぬ武士」を。

とーがにあやぐ

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とうがにあやぐ とーがにあやぐ toogani 'ayagu 語句・とーがに 「トーガニアーグ、単にタウガニともいう。対語が『いちゅに(糸音)で、妙なる絹糸の音を意味する。妙なる唐の音という意味であろう。宮古の抒情的歌謡の一ジャンル名。不定形短詩形歌謡。奄美の島唄、沖縄の琉歌、八重山のトゥバラーマに相当する。』」《「宮古の歌謡」新里幸昭著 》(以下【歌謡】と省略。) 「とーがに」については不明。伝承では「中国から来たカニという青年」つまり「唐ガニ」からというのもある(「島うた紀行」第三集。仲宗根幸市編著)。「とぅーがに」 と発音される方もいるが「とーがに」であろう。・あやぐ 「あやぐ」は「美しい言葉」つまり「うた」。「[綾言〔あやごと〕美しく妙なる詞]あやぐ〔宮古島の伝統歌謡〕aaguとも;Toogani 'ayaguなど」【琉球語辞典】(半田一郎著)。 《歌詞の表記は「解説付(改訂版)宮古民謡集 平良重信著」を参考にした。》 《発音についてはCD「生命(いのち)燃えるうた 沖縄2001⑥宮古諸島編(2)八重山諸島編」の「トーガニ」国吉源次さんの音源を参考にした。 》 【御主が世】 (うしゅーがゆー) 大世照らし居す゜まてだだき国ぬ国々島ぬ島々 輝り上がり覆いよ 我がやぐみ御主が世や根岩どうだらよ うぷゆーてぃら しゅーずぃ まてぃだだき くにぬ くにぐにすぃまぬ すぃまずぃま てぃりゃあがり うすいよ ばがやぐみ うしゅがゆーや にびしどぅだらよ 'upuyuu tirashuuzï matida daki kuni nu kuniguni shïmazïma tiryagari 'usui yoo baga ya gumi 'ushu ga yuu ya nibishi du dara yoo ◯大豊作を照らされておられる太陽のように国々や島々を照り上がって覆いください 私たちが恐れ多い御主のもたらす大豊饒は神聖な場所の岩のようなものだ 語句・うぷゆー 大豊作。「うふゆー」として【歌謡】には「大豊年。大豊作。『うふ』は大、『ゆー』は果報、幸、豊穣などの意味。『うぷゆー』ともいう。対語『てぃだゆー(太陽世)』」「ゆー」を「世」や「代」と当字をして「世界」とか「代(よ)」という意味に直結しがちだが、この「ゆー」は「豊穣。五穀豊穣だけでなく、人々のすべての幸せをさす。」【歌謡】という点に注意したい。・ま 「ほんとうの、まことの、の意味を添える接頭美称辞。」【歌謡】。・てぃだ 太陽。本島の「てぃーだ」に対応。・だき 「〜のように」【歌謡】。・てぃりゃあがり (太陽が)照り上がり。宮古の民謡「子守唄」に「島うすいうい照りや上がり 国やうすい照り上がり」とあり、その子が成長して人々から尊敬される拝まれる存在になってほしい、という願いの表現にも使われる。「照り上がる」ものは「太陽」といいつつも、人々に幸せや五穀豊穣をもたらす「神」や「支配者」という意味と重ねることもできる。・やぐみ「恐れ多いこと。恐れ多い神。畏敬の神。」【歌謡】。・うしゅがゆー 支配者がもたらす豊穣、幸。上にも見たがあくまで人々に幸せをもたらす支配者という意味であり、「御主が世」や「御主が代」というような単なる支配者崇拝ではない。・にびし 「にびし」の「にー」は「植物の根」という意味で普通受け止められて、「根の生えた岩」(「宮古民謡集」平良重信)と訳されることが多い。それは間違いとは言えないが、「にー」とは「植物の根」以外の「元」(むとぅ)つまり「祖先」や「部落の最初の家」「移住する前の村」などの意味に使われることも少なくない。例えば歌で「にーぬしま」(根の島)とは「部落創始の時の村落。現村落に発展してきた以前の元部落。現在は神聖な祭場になっている」【歌謡】とあるように、神聖な場所を表す。「びし」は単なる「岩」ではなく「びしシ」(座石)「据え石、礎石」【歌謡】とあるように土台となる石である。したがって「神聖な場所にある岩」と理解したい。「とーがにあやぐ」では「結婚祝」の歌詞に「根岩」(にびし)と「根ぬ家」(にぬや)を対句としたものがある事も留意したい。 【宮古のあやぐ】 (みゃーくぬあやぐ、又は みゃーくぬあーぐ) 春ぬ梯梧ぬ花ぬ如ん 宮古ぬあやぐやすうに島 糸音ぬあてかぎりやよ 親国がみまい 下島がみまいとゆましみゅでぃよ はるぬでいぐぬ ぱなぬにゃんみゃーくぬ あやぐやすにずぃま いちゅにーぬ あてぃかぎかりゃよ うやぐにがみまい すむずぃまがみまい とぅゆましみゅでぃよ haru nu deigu nu pana nu nyaN myaaku nu 'ayagu ya sunizïma 'ichunii nu 'atikagikarya yoo 'uyaguni gamimai sumujïma gamimai tuyumashi myudi yoo ◯春のデイゴの花のように宮古の唄は 宗根島(宮古島の古い呼称の唄はあまりにも美しいから 沖縄本島までも 八重山諸島までも響かせて(有名にして)みよう 語句・にゃん 如く。・いちゅに 「絹糸の音。妙なる調べ。『いちゅ』は絹糸、『に』は音色、調べ。対語『あやぐ(綾言)』」【歌謡】。・あてぃ とても。非常に。「あてぃぬ」について「あまりに。とても。」【歌謡】。・かぎ 「美しさ、立派さ」【歌謡】。・うやぐに 沖縄本島。首里王府のある島を指す。「うや」とは「父親。族長的な人物」【歌謡】を指す。・がみ 「副助詞『まで』」【歌謡】。・すむずぃま 八重山諸島。「すむやーま」は「八重山の離島、特に波照間をさす。」【歌謡】。・とぅゆまし 名声をあげて。鳴響いて。 【これまでの経緯】 昨年、「あやぐ節」にでてくる「仮屋」跡が那覇市内にあることを知り、そこを訪れた。 そして歌詞を調べるうちに、この「あやぐ節」という曲がどこから来ているのかに興味をもった。 このブログで「あやぐ節」、「宮古のあやぐ」と見ていくうちに、この歌の系譜が実は「ナークニー」や「とーがにあやぐ」などと深い関係にあることがわかってきた。 歌詞だけでなく音階にも、唄の構成にも深い共通性があることもわかってきた。 それで、「あやぐ節」、「宮古のあやぐ」に続いて、 本島の「トウカニー節」そして「トーガニー」、 八重山の「とーがにすぃざ節」まで見てきた。 この後は、「宮古民謡中の名歌」(平良重信氏)とまでいわれる「とーがにあやぐ」を見るしかないのだが、古語を使ったこのあやぐの解説など自力でできるわけもない事に気付き、途方に暮れていた。 出会ったのが「宮古の歌謡」新里幸昭著である。 この本には宮古歌謡語辞典というものが付いている。 語り言葉としての宮古語辞典は他の辞書に比べ少ないとはいえ有るのではあるが、古謡には歯が立たない。 それで今回この本に大いにお世話になりながら「とーがにあやぐ」の歌詞を一部読み解いてみることにした。 【「御主が世」の「ゆー」の捉え方 】 「御主が世」という座開きなどで唄われる歌詞を見ると、宮古島の支配者や神を讃える歌という解説が多い 「ゆー」の捉え方には「豊穣。五穀豊穣だけでなく、人々のすべての幸せをさす。」と「宮古の歌謡」(新里幸昭著)の「宮古歌謡辞典」にある。 この点からこの歌の意味を捉え返すという必要性を強く感じた。 この「ゆー」の理解がないと、単なる「支配者崇拝」という理解に留まる。 人々の「願い」、「祈り」が太陽のように豊穣をもたらす支配者に望むことがウタとして昇華したものではないだろうか。 【根岩の解釈】 次に気になるキーワードは「根岩」(にびし)だ。 上の《語句》の所にも書いて繰り返しになるが、「にびし」の「にー」は「植物の根」という意味で普通受け止められて、「根の生えた岩」(「宮古民謡集」平良重信)と訳されることが多い。あるいは、根が絡みついた岩、というような理解が多く見られる。 それは間違いとは言えない。分かりやすさを重視し、比喩を具体的に用いようとすれば、そういう表現にもなるだろう。 ただ、「にー」とは「植物の根」以外の「元」(むとぅ)、つまり「祖先」や「部落の最初の家」「移住する前の村」などの意味に使われることも少なくない。 例えば歌で「にーぬしま」(根の島)とは「部落創始の時の村落。現村落に発展してきた以前の元部落。現在は神聖な祭場になっている」【歌謡】とあるように、神聖な場所を表す。 「びし」は単なる「岩」ではなく「びしシ」(座石)「据え石、礎石」【歌謡】とあるように土台となる石である。 したがって「神聖な場所にある岩」と理解したい。 人々の祖先が昔住み、今は聖地となった場所にある岩を指すのではないか。 次に見るように「とーがにあやぐ」で「結婚祝」で唄われる歌詞に「根岩」(にびし)と「根ぬ家」(にぬや)を対句としたものがある事はとても重要だと思う。 《結婚祝》 此ぬ大家や根岩ぬ如ん 昔からぬ あらうからぬ根ぬ家どぅやりやよ 夫婦根やふみ 島とぅなぎぱやからまちよ (くぬうぷやーきーや にびしぬにゃん んけやんからぬ あらうからぬ にーぬやーどぅやりやよー みうとぅにーやふみすまとぅなぎぱやからまちよー) ◯この家柄は根岩の如く 昔からの あの世からの元々の家であるから 夫婦の元を大事にし島のある限り栄えてください 注意して頂きたいのは、「とーがにあやぐ」の「御主が世」のこれまでの解釈に私が反対意見を述べているわけではない。 宮古島に住む人々にとって「ゆー」の理解や「根岩」の使い方はいわば当たり前なのでくどくどと説明していないだけであろう。 むしろ私たちが宮古の古謡に体現された宮古の人々が昔から積み上げてきた力強い精神世界の豊かさをもっと勉強すべき、と感じるばかりである。 【とーがにあやぐの「宮古のあやぐ」】 春ぬ梯梧ぬ花ぬ如ん 宮古ぬあやぐやすうに島 糸音ぬあてかぎりやよ 親国がみまい 下島がみまいとゆましみゅでぃよ という歌詞は八重山の「とーがにすぃざ節」の一番 とーがにすぃざ 宮古ぬ清ら島からどぅ 出でぃだる とーがにすぃざよ 沖縄から八重山迄ん流行りたる とーがにすぃざよ に継承されている。 「春のデイゴ。。」は脱落しているが。 さらに本島で好んで今でも唄われている「トーガニー」にも 一、トーガニスーザーや 宮古ぬ美ら島から流行りるトーガニスーザーよ 沖縄ぬ先から宮古ぬ先までぃ流行りるトーガニスーザーよ と継承されている。 ここでは「八重山」が「宮古」に変化しているのだが。 この歌詞の変化を見るとき とーがにあやぐ→とーがにすぃざ節→トーガニー という歌詞の継承と変化を感じるのは私だけだろうか。 これらの曲と唄のメロディーの共通性と変化についてはまた後にふれたい。 《参考文献》 ▲「宮古の歌謡」新里幸昭著 。「宮古歌謡語辞典」が後半にある。 古謡に使われる言葉を集めたもので古謡の理解には非常に役に立つ。 ▲「解説付き 宮古民謡集」 平良重信著。「宮古方言の手引き」も付いている。

落平ぬ水 《ナークニーを追って》1

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久しぶりの「島唄コラム」です。 先日4月10日から14日まで沖縄本島を訪れ、「ナークニー」が生まれた痕跡を探し、本部ミャークニーの道を探ってきました。 多くの方に教えられながらの旅を振り返り、沖縄のウタに少しでも近づけたら、と思います。 私の別ブログ「たるーの島唄人生」で書いたものをほぼ転載しますので、 すでに読まれた方は、すみません。 よろしくお願いします。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 2015年4月10日、沖縄は雨です。 ナークニーの系譜を求めて、あちこちを回っています。 空港から向かったのは「あやぐ節」にでてくる「落平の水」。 道ぬ美らさや 仮屋ぬ前 あやぐぬ美らさや 宮古ぬあやぐ イーラヨー マーヌヨー 宮古ぬあやぐ エンヤラースーリ にはじまる「あやぐ節」に 沖縄いもらば 沖縄ぬ主 うてぃんだぬ水に あみさますなよ ばんたがかじゃぬ 美童匂いぬ うてぃがすゆら エンヤラースリ この「うてぃんだ」がここの水というわけです。 ここの掲示板には(長いので一部を) 《那覇港に出入りする船は、朝から夕方まで落平に参まり、取水のため、先を争って口論が絶えなかったという。中国からの冊封使(さっぽうし)一行の来琉を控え、落平を調べると、樋が壊れ、水量が減っていたため、泉崎村(いずみざきむら)の長廻筑登之親(ながさくチクドゥンペーチン)雲上等36人の寄付によって、1807年に落平の樋を修理し、さらに60間(約108m)程東に、新しい樋を設け、新旧2本の樋で給水に供したという(「落平樋碑記(ひひき)」)。》 ここの石垣をボランティアで修理している方にお話を聞くと、もう最近では水は雨水くらいになってしまったようです。 ところで、なぜ、ナークニーの系譜に「あやぐ節」が?って疑問わきませんか? それはもうすでに書いていますが(「あやぐ節」)、またおいおいまとめたいと思います。 まずは落平の井戸(カー)から。

タカマサイ公園 《ナークニーを追って》2

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ナークニーを追う旅の続きです。 (「たるーの島唄人生」で読まれた方はすみません。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー タカマサイ公園へ。 那覇市おもろ町の病院や住宅がならぶ高台にひっそりとありました。 通学路なのか、子どもたちがこの階段を上っていきます。 ここの石板にこんなことが書かれています。 「與那覇勢頭豊見親逗留舊跡碑(よなはせどとみおやとうりゅうきゅうせきひ)」  那覇市文化財指定史跡 昭和51年4月16日 この碑はもと「タカマサイ」とよばれた当地に建てられたものである。 1390年察渡王の時に宮古の與那覇勢頭豊見親が帰順入貢し泊御殿に住まわされた。 ところが、言葉が通じないので、その従者に琉語を学ばせた。従者の一人に高真佐利屋という者がいて、毎夜、火立屋(のろし台)に登り、はるかに故郷をのぞみ「あやぐ」をとなえていた。これにより付近の村民、その旧宅の地を高真佐利屋原とよんだ。 1767年、ここに與那覇勢頭豊見親の子孫が、長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め子孫拝礼の場として碑を建立した。 この碑は、昔、泊の地が諸島を管轄していた頃の記念碑である。なお、現在の碑は、沖縄戦で破損していたものを、1987年に復元したものである。(那覇市教育委員会) 1390年は琉球王国もまだ統一されていない察度中山王の頃に、宮古島を支配した豪族である與那覇豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)さんが入貢、つまり良好な関係と自分を宮古島の支配者として認めてもらうべく貢物を察度王に持ってきたというわけです。 「言葉がわからない」ので従者に琉球語を学ばせた、というのが面白いのですが それはさておき、従者は高真佐利屋つまりタカマサイ公園に名を残しました。 公園になっていますが昔は高台だったようです。 ここからは那覇のビルがよく見えます。 つまり昔は那覇港、さらにその遠くにある宮古島の方向を眺めるのに良い場所だったのでしょう。泊の御殿の場所はわかりませんが、丘を登ればここは近い場所。 あやぐを歌ったといいます。 丘に名前を残すということはとても素晴らしい歌声だったに違いありません。 しかも故郷への想いを込めて。 宮古の「あやぐ」とは、歌のことですからどんな曲かわかりません。 宮古のあやぐの歴史は少なくとも600年以上の歴史があると言われます。 もし、今残っている「とーがにあやぐ」がタカマサイの唄った唄ならば、それがこの出来事を通じて沖縄本島にも知れ渡り、別の伝説にもあるようにヤンバルから来た青年が宮古の唄を聴いてヤンバルに持ち帰ってナークニー(宮古根)が生まれた、という説とも絡んでくることになります。 ここでとーがにあやぐをタカマサイから聴いたことにして(笑) 自分がヤンバルの青年になったつもりでこの後名護に向かいます。
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