今帰仁ミャークニー
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。
参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男)より。
今帰仁の城 しむないぬ九年母 志慶間乙樽が ぬきゃいはきゃい
なちじんぬぐしく しむないぬくにぶ しじまうとぅだるが ぬちゃいはちゃい
nachijiN nu gushiku shimunai nu kunibu shijima'utudaru ga nuchai hachai
◯今帰仁のお城で 時期遅れのみかんを志慶間乙樽が糸で貫いたり首にかけたりしている
語句・しむない うらなり。季節が遅れて生る果物や野菜。秋を過ぎて霜が降りる頃にできるもの。味は落ちる。・くにぶ 「オレンジ類の総称。みかんなど。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・しじまうとぅだる 13世紀に今帰仁間切は志慶間村にいたという「乙樽」(うとぅだる)という絶世の美女。北山王の側室だった。「しきまうとぅだる」と読むこともある。・ぬちゃいはちゃい (糸で)貫いたり首にかけたり。<ぬちゅん。貫く+はきゆん。「ぬきゃいはきゃい」が「ぬちゃいはちゃい」と読むのは「き」が「ち」に時代と共に変化したため(破擦音化)。
今帰仁の一条 並松の美らさ 花染みの芭蕉布と美童美らさ
なちじんぬちゅなーぎ なんまちぬちゅらさ はなじゅみぬばさーとぅみらびちゅらさ
nachijiN nu chunaagi naNmachi nu churasa hanajumi nu basaa tu mirabi churasa
◯今帰仁の一定に並ぶ松の並木の美しいことよ!
語句・ちゅなーぎ 「ひと長さ。一定の長さ。ある距離の全体」【沖辞】。・なんまち「松並木」【沖辞】。・はなじゅみ 普通は「花染み手拭」などと使い「花の模様を染めた手ぬぐい」【沖辞】の意味であるが、芭蕉布を染める染料としての花や、花の模様というのはあまり聞かない。いわゆる花のように華やかに染めた、という意味か染料としての車輪梅(の樹液を使う)で染めた、くらいの意味か。「あかじゅみ」という歌詞もある。・みらび 「みやらび」の短縮形であろう。「めらび」と振りがなをつけた歌詞もあるがこれも読み方は「みらび」。
山と山連なじ見晴らしんゆたさ 昔北山の名残立ちゅさ
やまとぅやまちなじ みはらしんゆたさ んかしふくざんぬなぐりたちゅさ
yama tu yama chinaji miharashiN yutasa Nkashi hukuzaN nu naguri tachu sa
◯山と山が連なり見晴らしも良いよ 昔北山の名残が浮かぶねえ。
語句・ちなじ つなぐ。<ちなじゅん。・ゆたさ 良い。<ゆたさん。良い。形容詞の体言止めは「感嘆」を表す。・ふくざん 北山。琉球王朝が統一される前の古琉球時代、三山時代と言われた頃に沖縄本島北部に栄えた国名。
諸喜田川に待ちゅみ 兼次川に待ちゅみ なりば諸喜田川や ましやあらに
すくじゃがーにまちゅみ はにしがーにまちゅみ なりばすくじゃがーや ましやあらに
sukujagaa ni machumi hanishigaa ni machumi nariba sukujagaa ya mashi ya arani
◯諸喜田の井戸で待つか?兼次の井戸で待つか?ならば諸喜田の井戸がましではないかね?
語句・すくじゃがー 「川」とあるが、「諸喜田川」という川はない。「かー」は井戸。泉。・に 〜ではないか?〜であろう?と相手に確かめる意味の終助詞。
謝名ん人ぬ言うしが 岸本の目小ーや 歌し情や渡たて 恋や無志情
じゃなんちゅぬゆしが きしむとぅぬみーぐゎーや うたしじょーやわたてぃ くいやぶしじょー
janaNchu nu yushiga kishimutu nu miigwaa ya uta shijoo ya watati kui ya bushijoo
◯謝名の人が言うが 岸本の目が細いあの子は歌は志情がこめられているが恋には志情がない
語句・じゃな 今帰仁の地名。昔は毛遊び(モーアシビ)が盛んな場所だったという。・きしむとぅ 現在は「玉城」(たもーし)という字になっているが、岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)を合併したもの。その一つ。・みーぐゎー 「小さく細い目。また、そういう目をした者。そういう人概して小利巧だといわれる」【沖辞】。・しじょう 「志情」という当て字があるが「しゅじょー」(歓喜。享楽。娯楽。楽しみ)【沖辞】ではないか。後にみるが今帰仁ミャークニーの唄者平良正男さんからは「うたやしじょーやしが くいやぶしじょー」を教えて頂いた。「歌は上手だが恋は上手ではない」と訳された。
今帰仁ミャークニーとの出会い
今帰仁ミャークニーに取り組む。少し経緯を書かせて欲しい。
2015年、本部ミャークニーの道を本部町教育委員会の方、元教育長の根路銘さん、そして今帰仁文化センターの仲原館長にお世話になりながら車で周り、歌詞と風景、そして道との関係を実体験させいただいた。また今帰仁ミャークニーの道も車で巡らせていただいた。その時に本部ミャークニー、今帰仁ミャークニーの唄者はいらっしゃいませんか、と伺ったが「もう高齢だから」ということだった。
私事だが振り返ると10数年前に那覇の古書店で買った「沖縄北部(やんばる)十二市町村 民謡の旅」(沖縄フェース出版)という本に詳しく今帰仁ミャークニーの紹介があり、多くの歌詞を収録してある。それを読んで深い感動を覚えたのだった。この本には執筆者達のお名前は書いていないのだが、私がバイブルのようにしている「島うた紀行」の作者、仲宗根幸市氏もその一人ではないかと思われる。その本によれば
「『今帰仁ミャークニー』は、沖縄のミャークニー、ナークニーの源流と伝えられている。もちろん、今帰仁ミャークニーは、伝承によれば、宮古島のトーガ二(アーグ)系統の影響を強く受けて、それを今帰仁風に潤色し、今帰仁の風土、人々の人情を細やかに取り入れて作られたという。」(民謡の旅 P94)
この今帰仁ミャークニー大会は「地域の掘り起こしの『◯◯大会』先がけとなった」と書いてあり、わたしもこの大会があれば行ってみたい、今帰仁ミャークニーを聴いてみたいと思っていた。
そして、2016年3月に沖縄に行く機会があり、その際に「今帰仁ミャークニーの唄者は居ないか」と色々な方に伺った。今帰仁教育委員会の方から今帰仁文化協会の方を紹介して頂き、さらにその方から平良正男さんという方を紹介していただいた。
3月14日に直接お宅にお邪魔した。平良正男さんは今年数えで九十五歳だといわれた。
もう高齢で三線は弾けない、声もでないということでカセットテープとCDを聞かせていただいた。その時の感動は今だに忘れられない。まさに聞きたかった「今帰仁ミャークニー大会」の録音だった。
その録音を聴いて最大の驚きは「二揚げ」のミャークニーだったこと。これについては後でまた詳しく書きたい。平良正男さんのこともまだまだお話を伺ってまとめたいと思っている。
今帰仁ミャークニーの歌詞
さて、この歌詞は後日平良正男さんの息子さんの平良哲男さんから送っていただいた資料の中に哲男さんがまとめられた「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男)からのもの。今帰仁ミャークニーに関する琉歌が26首あるので、5首ずつに分けてこのブログで紹介して行きたいと思う。
まずは上述の5首。最後の句だが、平良正男さんから伺った歌詞は
謝名ん人ぬ言しが 岸本ぬ目小ーや 歌しじょうやあしが 恋や無しじょう
じゃなんちゅぬゆしが きしむとぅぬみーぐゎーや うたしじょーやあしが くいやむしじょー
平良正男さんは、今帰仁ミャークニーはお祖母様から習い、その歌い方三線の手を受け継いでいると言われた。お祖母様のお姉様がこの「岸本の目小」で、12、3歳ぐらいからウタがとても上手いので青年団にあちこちに連れて行かれて歌ったのだそうだ。平良正男さんの歌声も聞き入るほどの素晴らしい歌声だから、その方々の歌声がどうだったかは想像できる。
「しじょう」については正男さんから「しゅじょー」とも言う、と言われた。それなら上述したが「歓喜」、喜びという意味である。ウタを歌うことが何よりも好きで喜びで、したがって上手だったことも想像に難くない。
次回も5首を紹介し、それに加えて正男さんの三線の手、節回しについても紹介したい。
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