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Channel: たるーの島唄まじめな研究
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琉球使節の足跡を訪ねる その2

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「琉球館跡」があった長田中学校からタクシーの運転手は薩摩時代の石橋とかの説明をしてくださってます。私は半分は聞きつつ、半分は琉球人松の意味を考えていると、あっという間にそこに着いてしまいました。 現在の多賀山公園(東福寺跡)を過ぎてさらに祇園之洲西口から350mほど北上すると「琉球船の目印松」があります。 『琉球人松 琉球船の目印松 磯浜には昔、石灯籠に抱きつくように見事な枝を張った大松がありました。琉球からの船が入港する時、目印にした松と言うところから「琉球人松」と呼ばれていました。 松の上の丘は桜の名所で、海上から桜を眺める遊覧船も多かったといます。ところが終戦後松食い虫の被害にあい、この名物松を惜しむ人達が手を尽くして駆除に努めましたが、その甲斐もなく枯れてしまったのです。 そこで、1953年(昭和28)10月2日、当時の市長勝目清のノコ入れで切り倒され翌年、数本の姫松が植えられました。その中の1本が現在、石灯籠の左手に根付いています。切り倒された琉球人松の年輪を数えると142あったそうです。 また1973年(昭和48)5月15日、沖縄復帰1周年を記念して那覇市からリュウキュウマツの寄贈を受け、石灯籠の右手に植えられています。 鹿児島市』 と看板には書かれています。 つまり、いつの時代の事かは不明ですが、ここに灯篭を抱くように生えた松があり、それが琉球船の入港する時の目印だったというわけです。 現在は琉球松が植えられているようです。 この目印についても後に琉球使節の足跡という事で再度触れます。 松の向こうには桜島が見えてます。 さ、タクシーのメーターも結構な数字になってきたし、レンタカーの予約時間も迫って来ました。 レンタカーの24時間分の料金とほぼ同じ金額をタクシーの運転手さんに払って(涙)レンタカー屋さんに着きました。 格安のニコニコレンタカー。 上にはビジネスホテルもついているので宿泊もここ。格安です。 今回の大きな目的地の一つ、鹿児島市立美術館にレンタカーを向かわせました。 今日は休館日ですが裏口から入れてもらいました。 事務所にあるパソコンで、拡大してあちこち見せてもらいました。 これは完全に和船。しかも上が白。下が黒の帆は薩摩藩の帆印。丸に十文字という薩摩藩の印は帆ではなくて船の横などにつけられています。 私の疑問は 本当に琉球使節が乗っているのか? ということでした。そんな話をすると美術館の方がある資料を見せてくれました。 「杇木資料(おうてき)」と書かれたものの中に なんと船一艘一艘の名前、乗っている者、大きさまで書かれた資料があるのでした! 「杇木」というのは、薩摩藩に代々支えた船大工の家系の名前で、戦後この資料が見つかった事で薩摩藩の船についてだけでなく日本の和船の研究にとっても大きく貢献しているものなのです。 これも詳しくはまた述べます。 確かに、この船団90艘のうち後ろの10艘に琉球使節の正使、副使などが乗っていました。 つまり琉球使節は琉球の船で 琉球、首里~那覇→東シナ海を北上→山川港→目印松を見ながら薩摩藩の城下の港→琉球館 と来て、どこかでこの薩摩藩の和船に乗り換えたことになります。 この絵は「琉人御召之図」と書かれていて作者は不明ですが「薩摩藩の狩野派系の御用絵師の作」と考えられています。 船には目立つように琉球使節が乗っていることを指し示すものは見当たらず、そうした雰囲気すら消されています。 琉球は日本にとっては外国、自由に国内の航路を往来できないわけですから、和船への乗り換えは当然と言えます。しかし大坂まで行く間の海路は隠密輸送の様にも思えます。 琉球使節はこの船に乗ったまま、九州西海岸を北上し、瀬戸内海に入り、鞆の浦にも寄港したのだとわかります。 鹿児島市立美術館で見せてもらった資料のもう一つは 「天保年間鹿児島城下図」 この中に琉球館が描かれています。 他にも面白い光景も。それについてもまた後で。 さて、鹿児島市立美術館の皆様に大変お世話になりながら、大事な、それこそ歴史研究には重要な幾つかの資料まで頂いて帰ることができました。 この場をお借りして感謝申しあげます。 美術館を出て、今度は山川港に向かいます。琉球使節が初めて薩摩の地を踏んだところかもしれません。 お昼ご飯を食べる時間ももったいないので、コンビニでおにぎり一個とお茶を買ってかなり長いドライブとなります。 また次回!

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