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Channel: たるーの島唄まじめな研究
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上り口説 (ビジュアル解説)

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「上り口説」についての残された絵画、遺跡などをみながら当時の「江戸上り」の様子に迫り、「上り口説」の背景を深めてみたいと思う。 発音、意味の詳細に関しては「上り口説」(たるーの島唄まじめな研究)を参照下さい。 一、旅の出立ち観音堂 先手観音伏せ拝で黄金酌取て立ち別る (発音)たびぬ んじたち くゎんぬんどー しんてぃくわぁんぬん ふしうぅがでぃ くがにしゃくとぅてぃたちわかる (歌意) 旅の出発は観音堂 先手観音を伏して拝み 別れの黄金の盃を交わして立ち別れる ▲首里観音堂 首里観音堂のホームページに琉球王朝と観音堂の関係が書かれている。少し長いが引用する。 『寺院の創立縁起は、琉球王朝時代、佐敷王子(のち尚豊王)が人質として薩摩に連れて行かれた際、父・尚久王は息子が無事帰国できたら首里の地に「観音堂」(観音様をお祀るお堂)を建てることを誓願されました。 その後、無事帰郷したので、1618年、首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建て、その南に、慈眼院を建立しました。 1645年より毎年、琉球王国国王が国の安全を祈願・参拝するようになりました。 また、当時、琉球王国は貿易(航海)が国の中心であり、首里の萬歳嶺という丘からは視界が開け、那覇の町・港・海・空を一望でき、渡航の安全・国の安全を祈願するのに最良な地でした。  その地に、すべての人を守り、すべての人を救い、願いを叶える千手観音菩薩像をお祀りし、国王はすべての祈願をしておりました。』 (首里観音堂のホームページより) 1609年の薩摩藩の侵略、琉球国支配によって「人質」にされた佐敷王子の無事を祝ってつくられた観音堂は、その後琉球使節の航海の無事を祈る場所となった。それが江戸上りの旅の始まりを象徴している。 琉球使節は百数十名だといわれる。その全員だったのか、代表する正使だけが礼拝したのかわからないが、千手観音像の前で別れの盃を交わした様子から始まる。 ▲千手観音像 沖縄戦でこの千手観音像も観音堂も焼けたということなので戦後に再建されたものだ。 ニ、袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡 崇元寺 (発音) すでぃにふる ちゆ うしはらい うふどーまちばらあゆみゆく ゆきばはちまんすーぎーじ (歌意) 袖に降る露を押し払い大道松原歩み行く 行けば八幡崇元寺 大道という地名は現在も首里から那覇、安里に向かう道のあたりの地名として残っているが、「松原」は廃藩置県の際に切られてしまった。 ▲観音堂の少し下に位置する「都ホテル」。このあたりに松原と道があったようだ。そこから下ったあたりに昔の「大道松原」を描いた絵を掲示した碑がある。 説明文も少し長いが引用しておく。 『大道松原(ウフドーマツバラ)は、琉球王国時代、現在の首里観音堂付近から大道(だいどう)地域にかけて続いていた見事な松並木の呼称。旅立ちの謡(うた)として知られる「上り口説(ヌブイクドゥチ)」にも登場する景勝の地であった。  大道地域には「大道毛( ウフドーモー)」と呼ばれる小高い丘があり、1501年に尚真(しょうしん)王は、尚家宗廟(そうびょう)の円覚寺(えんかくじ)を修理するための材木として、この丘に松の苗一万株を植えさせた。俗に「サシカエシ松尾之碑文(マーチューヌヒムン)」といわれる碑を建立した。  当時「万歳嶺(ばんざいれい)」(現観音堂)、「官松嶺(かんしょうれい)」(現都ホテル付近)から、この「大道毛」を含む大道地域にかけて、松並木が続いていたのである。  1879年(明治12)の沖縄県設置後、これらの松並木は切り倒され、1945年(昭和20)の沖縄戦で大道毛にあった碑も消滅した。戦後、道路の拡張整備や宅地化により、周辺は大きく様変わりした。』 琉球使節が江戸に出発したのはだいたい新暦の6月くらいだった。まだ梅雨が明けず雨が降っていたことも考えられ、それが松の枝からの「露」となって袖に降ってきたことと「涙」とをかけているのかもしれない。 ▲安里八幡。写真はGoogle mapsより。 ▲崇元寺。 一番の観音堂もこの崇元寺も臨済宗の寺。臨済宗は薩摩侵略の前から琉球に入っていたが布教活動も弱く一般には浸透していなかった。「除災」の祈祷に重点をおいていたようだ。 さて「上り口説」の三番へ。 三、美栄地高橋うち渡て 袖ゆ連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋 (発音) みーじたかはし うちわたてぃ すでぃゆち(つぃ)らにてぃ むるふぃとぅぬ ゆくむ かいるむ なかぬはし (歌意) 美栄地高橋を渡って袖を連ねて諸人が行くのも帰るのも中之橋 美栄地高橋とはどこなのか。 ▲ゆいレールの「美栄橋駅」前に碑文があり「美栄地高橋」(みーじたかはし)や長虹堤の説明がある。 碑文にある絵は明治初期のもので、すこしデフォルメしてある。もう少し細長いものだが美栄橋も描かれている。 上り口説の歌詞には「長虹堤」は出てこないが、この時代その長虹堤を渡らずしては崇元寺から美栄地までは行く事はあり得なかった。 ▲「新修美栄橋碑」 碑文の内容。 『新修美栄橋碑  いにしえの那覇は「浮島」と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便でした。  そこで尚金福王は、1452(景泰3)年 、冊封使を迎えるにあたり、国相懐機(こくそうかいき)に命じて、崇元寺前からイベガマ (現松山1丁目付近)に至る約1kmの「長虹提(ちょうこうてい)」という、海中道路を築かせました。「長虹提」には、3つの橋が架けられていたといわれ、美栄橋はその内の一つでした。  那覇が発展して行くに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまいました。そのため、川を浚え、橋を架け替えることになり、1735(雍正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工しました。その経緯を記してあるのが、新修美栄橋碑です。正議大夫揚大荘(せいぎたいふようたいそう)が文をつくり、都通事揚文彬(とつうじようぶんひん)がこれを書き上げました。碑文には、工事に要した費用などが記され、当時の経済状況もうかがい知ることができます。  その後、美栄橋は1892(明治25)年に改修されましたが、沖縄戦で破壊されてしまいました。しかし、碑だけは原型を止め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存しています。』 15世紀頃の那覇は「浮島」とよばれる小さな島で、首里や崇元寺とは離れていたために尚金福王によって長虹堤が築かれた。美栄橋はその橋の一つだった。 わかりやすく図に表すと (青い囲いは現在の海岸線。緑色が昔の陸地だったところ。黄色が長虹堤。) 崇元寺の前から、現在では久茂地川から一つ南側の道路を沖映通りに抜け、さらに西に向けて、現在の美栄橋駅の横を通り抜けるルートが長虹堤だった。 ▲写真としてはこれが一番古いもので大正期の長虹堤。現在の「十貫瀬通り」あたり。周囲より高い堤となっていて、周りは畑や家が建ち昔の面影は少ないが道の幅はおそらく昔のままだろう。 もう一つは、中国から冊封の為に琉球を訪れた周煌(しゅうこう)が1756年に描いた絵。(『琉球國志略』) ▲これを見ると、長虹堤が海の上に浮かぶように描かれている。 つまり、昔の崇元寺から長虹堤の最終地点(イベガマ。現在の松山)あたりまでの約一キロの長さを持つ、海の中に堤を積み上げて人工的に作った海中道路だった。 その痕跡はほとんど地中に埋まってしまったとのことだが一部は残っている。 ▲この段差が痕跡である。 長虹堤とはまとめておこう。 ・当時、那覇は「浮島」と呼ばれる幾つかの島だった。 ・中国からの冊封使を那覇で迎えるも、首里までは船橋(船をつないだ橋)で渡さなくてはならなかった。 ・1450年に琉球王となった尚金福は翌年1451年に長虹堤の建設を命じた。 ・当時は海が深く工事は難航を極めたが宰相懐機の「祈祷」が功を奏し、潮が引いて工事は進んだという伝説も残る。 ・崇元寺前から現在の松山1丁目あたりまでの全長約一キロメートル。高さは約1.5メートル。 ・安里橋と美栄橋(「待兼橋」と呼ばれていた)を含む7ヶ所に石橋があった。 「上り口説」三番にもどる。 「高橋」とあるのは、諸説ある。 ▲那覇市歴史博物館に収められている美栄橋の古い写真。 何れにせよ、崇元寺から美栄地高橋までは長虹堤を渡らなければ行くことができず、さらに美栄地 高橋を渡った使節は、袖を連ねながら、行くのも帰るのも「中の橋」を渡ることになる。 その三番に出てくる「中ぬ橋」だが、那覇市内には「中之橋」という地名が泊(とまり)にもあり、そこを指すと理解されてる方も少なからず居られるようだ。長虹堤を使節が通ったとすると、わざわざ遠回りをする泊は通らないと考えるのが自然だろう。 さて、崇元寺からイベガマ(チンマンサー)と呼ばれた場所まで伸びた長虹堤を渡り、浮島にたどり着いた一行は「袖を連ねて」大勢が揃って歩いたのだろう。とにかく浮島の南側をたどるように西に向かい、上の図にあるような橋にたどり着く。「諸人」というのは全員という意味で、旅立つ一行とその家族「親兄弟」も一緒に歩いたということだろう。 橋をもう一度見てほしい。 先端は「三重城」と書いてありこれが六番にでてくる「三重城」。そして、その次は「仲三重城」、これはよくわからない。そして「仲の橋(臨海橋)」とあり、さらに「臨海寺」「大橋」「小橋」と続き、橋は陸地に繋がる。「上り口説」の「中の橋」とこの「仲の橋(臨海橋)」が同じものだという説が多い。 ちなみにその根元にあるのは「迎恩亭」、ここは中国から訪れた冊封使を一時的に歓迎する場所だった。 四番。 四、沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露涙 (発音) うちぬすばまでぃうやくちょーでー ちりてぃわかゆるたびぐるむ すでぃとぅすでぃとぅにちゆなみだ (歌意) 沖(臨海寺)の側まで親子兄弟を連れて分かれる旅衣の袖と袖とに露のような涙 ここで歌われている「沖」というのは「臨海寺」であるというのが通説だ。臨海寺は「沖の寺」とも呼ばれていた事がその根拠。つまり「臨海寺」の近くまで、親兄弟などの家族が見送りに来ていて、別れを惜しんだ、という歌詞の理解になる。 しかし船にはどこで乗り込んだのか、実はよくわかっていない。 「沖のそばまで親兄弟」というくらいなので、そのあたりまでは家族も来たのだろう。 しかし六番の三重城からも家族が見送りをしている事から、沖(臨海寺)より先までも家族は行ったと考えても不自然ではない。 首里城から観音堂、崇元寺から中の橋までの道のりを図にまとめてみた。Googleマップスに重ねて、1700年代の海岸線も書き込んでみた。 「上り口説」の五番。 五、船のとも綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば 風や真艫に午未 (発音) ふにぬとぅむぢなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてぃまふふぃきば かじやまとぅむに んまふぃちじ (意味) 船のとも綱を急いで解き船員が勇めて真帆を引けば 風は船の後ろから南南西の風だ いよいよ琉球使節の出航となる。これから約2000キロの旅、ほぼ一年を費やす。琉球使節が薩摩を経由して江戸に上る際の前半は船を多く利用している。琉球から薩摩、薩摩から九州の西側はほとんど船で港から港へ渡り、瀬戸内海に入って、大坂の港までは海路の旅。そこからは陸路を歩いて江戸までというルートだった。 Wikipediaにその行程がまとめられているので引用する。 『六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。』 (「江戸上り」Wikipediaより) 琉球王朝が所有したり使った船は、中国との交易に使ったのは進貢船(唐船)、マーラン(馬艦)船などと呼ばれ、元は中国のジャンク船を模したもの、あるいは直接中国が琉球に譲ったものだった。 薩摩藩との行き来にも中国との交易に使った進貢船から大砲を外したものが使われたりして、それは楷船と呼ばれた。ちなみにその前は美しい船という意味の「あや船」と呼ばれていたが薩摩藩がその呼び名を禁じて「楷船」となったいきさつがある。 琉球使節はこの楷船やマーラン船(貨物船)を船団として百数十人を薩摩まで運んだわけである。 ▲マーラン船。(東京国立博物館所蔵) ▲楷船。(同上) カラーにすると (筆者作画) 船には航海の安全を祈る旗や飾りがされていたがそれは航海の行き先によって変わっていくが基本構造は変わらない。マーラン船もあや船も二本〜三本マストの帆を持ち、その帆は台形のような形をしていてシャッターのように上下に折りたためる構造だった。 さて、五番の歌詞の訳、繰り返しになるがこうなる。 (歌意)船のとも綱を急いで解き船員が勇めて真帆を引けば 風は船の後ろから南南西の風だ 「かじやまとぅむに んまふぃちじ」と歌う時の「まとぅむ」は 「舟のともの方向。また、その方向から吹く風」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】とあり 「とも」とは「船尾」の事。つまり「後ろから吹く風」のこと。 「んまふぃちじ」はこの図を見てほしい。 ▲時刻も方位も昔は皆十二支で表した。「午未」は「南南西」の方角である。 琉球にとって薩摩は北北東なので風に押されて前に進む帆船にとっては都合の良い、いやそうでなければ薩摩にたどり着けない風、というわけだ。 さあ、六番へ。 六、又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て (発音) またんみぐりおーぐいぃんとぅてぃ まにくおーじやみーぐしく ざんぱみさちんあとぅにみてぃ (歌意)又いつかは廻り逢う御縁だと言って招く扇は三重城 残波岬も後に見て 三重城から別れを惜しみ、再会を願って扇を招くように降っている家族の姿だろうか。 ▲海から眺めた三重城。(筆者撮影) そして船は風に乗り、あっという間に残波岬を通り過ぎる。 「上り口説」の残りの七番、八番を見ていく。 七、伊平屋渡立つ波押し添へて  道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く (発音) いひゃどぅたつなみうしすいてぃ みちぬしまじまみわたしば しちとーとぅなかんなだやしく (意味) 伊平屋島の沖に立つ波は船を押し添えて 奄美の島々を見渡せば トカラ列島の航行中も灘は平穏だ (▲「沖縄県史ビジュアル版8」を参考に筆者作成) 鹿児島から船で奄美や沖縄まで行かれたことのある方なら、天気が崩れると外洋での波の高さが半端ないことはご存知だろう。伊平屋島の沖の波が高くて航海も難しいところを「押し添いてぃ」としている。 「沖縄古語大辞典」(角川書店)を紐解いてみると「うしすいゆん」は「押して添える」とある。つまり高い波すらも船を押す力になっていると。穏やかでない海の波すらも航海を手助けしている、ということになる。「七島渡中も」はトカラ列島の沖合いを意味するが、ここも「穏やか」だと歌う。 実際にはトカラ列島周辺の海は「黒潮が渦巻く」航海の難所でもあった。この時期は台風も多くやって来ることがある。しかしそれでも安全な航海を願う気持ちが歌詞にもその願いを込めているわけだ。言霊(ことだま)を信じ、そこから生まれた「かりゆし」という航海の無事を祈る呪文と並んで沖縄の精神文化をよく表している。 八番では 八、燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島 (発音) むゆるちむりや ゆをーがしま さだぬみさちん はいならでぃエーイ ありにみゆるわ うかいむん ふじにみまごーさくらじま (意味) 燃える煙は硫黄が島だ 佐多の岬を併走してそこに見えるのは御開聞岳 富士に見間違えるほどの桜島 細かい事を言えば「富士に見まごう」のは桜島というより開聞岳のほうではないか。「薩摩富士」との異名もあるほどだからだ。しかし、薩摩の象徴「桜島」を「富士山」に似ていると讃えるのは、琉球王朝の薩摩藩への配慮なのではないか。 「上り口説」は屋嘉比朝寄(1716-1775)の作品だと言われている。その明確な証拠を私は未だに見た事はないが、屋嘉比朝寄は若い頃薩摩藩に派遣され日本の謡曲や仕舞を学び、琉球に戻ってからは琉球古典を学び、工工四を中国音楽の楽譜に習って発明する。 当時日本全国で流行していた口説(くどき)を使って琉球から薩摩への旅を描く、まさに屋嘉比朝寄以外の作者は考えられないともいえる。 「上り口説」は江戸上りの歌とされている。薩摩までの道程で終わるのは、「薩摩藩向け」という理由だけでなく、首里から中の橋までの行程を詳しく描くことで「命をかけた使節」という印象もきちんと残したかったという意図があるように思う。 (追記) 最後に私が気になる琉球使節の絵を紹介しておきたい。 「薩摩から船出する琉球使節」 このチラシは福山市立鞆の浦歴史民俗資料館のもの。 上り口説を始め多くの琉歌に関する資料を集めた「やさしい琉歌集」(小濱光次郎著)にもこれが載っている。 「沖縄県史ビジュアル版8」に掲載されているものだが、元は鹿児島市立美術館所蔵の絵で現在は非公開なのだという。 よく見てほしい。 どの船も帆柱が一本、これは和船の特徴であり、琉球が中国や大和に使っていたと言われる唐船やマーラン船、楷船とは全く違う。 「薩摩から船出する琉球使節」、事実だとすれば、琉球使節は琉球から乗ってきた船を薩摩に置いて和船に乗り換えたということになる。 同じ資料にある使節の道のりなのだが、薩摩に入り、鹿児島の琉球館に行った後、川内(せんだい。原発がある所)や、久美崎という所からからまた船旅となっている。 おそらく鹿児島に琉球の船を置いてそこから薩摩の船に乗り換えたということになる。 上り口説は桜島が見えたところで終わっているが、そこからが長い旅の始まりであった。 琉球を支配している薩摩藩の丸十字をつけた白黒の船に乗った使節の思いはどうだったろうか。 広島県の福山市にある鞆の浦にも使節は「潮待ち」のために滞在した。そこで向生という若い楽師が病気で亡くなった。手厚く小松寺というところに祀られ、今日まで立派な墓碑がある。 悲喜交々のドラマが始まる薩摩から江戸に向かう旅はわずかな資料から想像を膨らませる以外にはない。 八番までしかない「上り口説」を歌うたびにその後の空白の旅路でのドラマへの想像に掻き立てられる思いである。

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